徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

書評:マルクス・ガブリエル著、『世界史の針が巻き戻るとき』(PHP新書)

2021年08月30日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教



今回は『マルクス・ガブリエル つながり過ぎた世界の先に』と同じインタビュアー大野和基による『世界史の針が巻き戻るとき』(PHP新書)についてです。
同じ本を愛読書として何度も読むのもよいですが、同じ傾向のものを続けて何冊も読むのも知識が記憶に定着しやすく、理解も徐々に深まっていくのではないかと思います。
少なくとも私はだんだん日本語の哲学用語に慣れてきました(笑)

目次

はじめに(新しい哲学が描き出す、針が巻き戻り始めた世界とは)
第I章 世界史の針が巻き戻るとき
第II章 なぜ今、新しい実在論なのか
第III章 価値の危機 間化、普遍的な価値、ニヒリズム
第IV章 民主主義の危機 コモンセンス、文化的多元性、多様性のパラドックス
第V章 資本主義の危機 コ・イミュニズム、自己グローバル化、モラル企業
第VI章 テクノロジーの危機 「人工的な」知能、GAFAへの対抗策、優しい独裁国家日本
第VII章 表象の危機 ファクト、フェイクニュース、アメリカの病
補講 新しい実在論が我々にもたらすもの

マルクス・ガブリエルが提唱する「新しい実在論」は、「ポスト真実」の言葉が広がり、ポピュリズムの嵐が吹き荒れる現代において、「真実だけが存在する」ことを示す、画期的な論考とされます。
本書は、今世界に起こりつつある「5つの危機」を取り上げます。価値の危機、民主主義の危機、資本主義の危機、テクノロジーの危機、表象の危機の5つですが、最後の「表象の危機」はその前の4つの集約であるため、正確には4つの危機とその根底にある1つの危機と表現できます。

そして、時計の針が巻き戻り始めた世界、「古き良き19世紀に戻ってきている」世界を、「新しい実在論」はどう読み解き、どのような解決策を導き出すのかが比較的わかりやすく解説されています。

さらに、2章と補講では「新しい実在論」についての、ガブリエル本人による詳細な解説が収録され、特に補講では、ガブリエルが「私の研究の最も深部にある」と述べる論理哲学の核心を図解し、なぜ「世界は存在しない」のか、そしてなぜ「真実だけが存在する」のかに関する鮮やかな論理が展開されています。補講は論理学の素養がないと論理記号表現にちょっと戸惑うかもしれません。また、さらっと読み流してしまうと「え?どういうこと?」とクェスションマークが残ってしまいますが、自分でゆっくり図に描いてみればそれほど複雑怪奇なことが言われているわけではないことが分かります。

「世界は存在しない」と日本語で言うと無駄に大きな疑問を誘発するような印象を受けますが、ドイツ語であれば「Es gibt nicht DIE Welt」と定冠詞を強調するだけで、それほど大きな疑問を投げかけないと思います。「Es gibt nicht DIE (Welt)」と来れば、ほぼ自動的に「sondern mehrere (verschiedene Welten)」と続くことが予想可能なほど定型的な思考パターンのように思えます。唯一無二の万人に共通して認識される世界(DIE Welt)は存在せず、知覚者の数の分だけ異なるいくつもの世界がそれぞれの文脈に現出するという主張です。その意味では、原書のタイトル『Warum es die Welt nicht gibt』のニュアンスが『なぜ世界は存在しないのか』では十分に訳出されていないように思えます。定冠詞・不定冠詞の微妙な意味付けを日本語で表すのが容易でないのは事実ですが。

日本人読者のための著作であるためなのかどうか分かりませんが、全体的な印象としてガブリエルは日本を高く評価しすぎなのではなかろうかと首を傾げるところがあります。
日本は間違いなく技術大国ですが、業界によってテクノロジー化のスピードが異なり、いまだに手書き書類やファックスがデフォルトの業界も少なくはないことや、キャッシュレス化で相当遅れを取っていることなどは考慮されていません。何かGAFAに対抗するテクノロジーが現れる可能性があるとすれば日本だとガブリエルは期待しているようですが、どうなんでしょうか。
マンガやアニメにたまごっちなどファンシーで独特な「リアリティ」を創出した日本文化は、確かに科学万能を掲げる自然主義(科学で証明できないものは存在しない)という誤謬に陥りにくく、違うリアリティに対する感受性が高いと言え、それが表象の危機を乗り越えるための手がかりとなる可能性はあるのかもしれません。
もしかしたら彼なりの日本人に向けたエールなのかもしれませんね。

書評:中島隆博・マルクス・ガブリエル著『全体主義の克服』(集英社新書)

2021年08月30日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教


マルクス・ガブリエルが今マイブームです。
先日は大野和基編著『マルクス・ガブリエル つながり過ぎた世界の先に』をこのブログで紹介しましたが、今回は中島隆博・マルクス・ガブリエル著『全体主義の克服』について語りたいと思います。

目次

はじめに(哲学の使命―中島隆博、精神の毒にワクチンを―マルクス・ガブリエル)
第1章 全体主義を解剖する
第2章 ドイツ哲学と悪
第3章 ドイツ哲学は全体主義を乗り越えたのか
第4章 全体主義に対峙する新実在論
第5章 東アジア哲学に秘められたヒント
第6章 倫理的消費が資本主義を変える
第7章 新しい啓蒙に向かって
おわりに(「一なる全体」にこうするために―中島隆博)

正直、どこまで理解できたのか自信がありません。というのは、本書はこれまでに読んだ一般向けのマルクス・ガブリエル関連書籍とは違って、本格的な哲学的対話だったからです。ガブリエルは中国哲学を研究していたこともあるため、中国哲学の専門家・中島隆博氏と非常に深く対話ができるんですね。
私は中国哲学など「何それ、美味しいの?」というくらいまったく知らないので、その辺のお話はたぶん字面を追って表面的に理解した程度だろうと思います。非常に興味深い存在論が展開されていて、仏教の思想も交えて「無」を考えるというかなりハードコアな哲学的対話が展開されていました。

なぜ「全体主義」が殊更に克服の対象として取り上げられているのかと言えば、これが間違った哲学思想が政治に影響を与え、非常に暴力的な結果を生んだ最たる例だからです。
ガブリエルの思想の根底には全体主義に対する批判があり、それ故にナチスの真正のイデオローグであったハイデガーやその弟子の隠れ差別主義者のハーバマスを徹底的に解体してきたという経緯があったようです。私は彼の著作は読み出したばかりなので詳しくは知りませんが、『新実存主義』(原書:Neo-Exsistentialismus)や『なぜ世界は存在しないのか』(原書:Warum es die Welt nicht gibt)で触れているそうです。

歴史上の完全な全体主義体制とは、たとえば中国の文化大革命や戦前日本の全体主義、ナチス・ドイツの独裁体制などです。これらの全体主義運動の特徴は、人々が家族や隣人を監視・告発・攻撃するようになったことです。その要因は、国家が人々に私的な生活の空間を与えないようにしたからです。全体主義ではあらゆる私的なものが公的なものに成り代わって行きます。
それが現代の状況とどう関係があるのでしょうか?
「全体主義はこれまでとは全く違うところからやって来ています」とガブリエルが主張していますが、これはどういうことかと言うと、国家なき「デジタル全体主義」というものが形成され、公的な領域と私的な領域の境界線が新しい形で破壊されている状況を指しています。この進行中の全体主義の核心はデジタル化の技術自体とそれを操るソフトウェア企業群であり、それらが「超帝国」を形作っているというのです。
そして、人々はソーシャルメディアで嬉々として自分のやっていることを写真や動画に撮り、その写真や動画をオンラインで公開し、自ら進んで公私の境界線を破壊していて、その自覚がないというわけです。
中国ではスマホを通じた監視統制のシステムが完成されつつあり、人々の行動がポイントで評価され、体制側に都合の良い行動ほど高得点をもらえて、そのポイントで様々な特典を得られるので、深く考えない人々は「市民的服従」によって無自覚のまま体制に迎合するように操られてしまいます。このようにして市民たちが自ら疑似独裁を生み出してしまっていると見られます。
日本やドイツなどのいわゆる民主主義社会では、そのような市民的服従を生み出しているのはGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)だと言えます。一般市民は無料で様々なサービスを使っているつもりでいますが、実際のところ、これらのサービスを使うことで必ず何らかの「データ」を残しており、そのデータがGAFAの利益の元となっています。
また、FacebookやTwitterなどのSNSでは、ユーザーの閲覧履歴や「いいね」などの反応履歴から得られるデータを基に、ユーザーの好みに合うようなコンテンツばかりを提供されるようになるので、使えば使うほど自分とは違う価値観との出会いが制限され、どんどん視野が狭まっていく仕組みになっています。SNSで過ごす時間が長くなるほどその偏向が強まり、過激化する傾向があります。サイバー空間では自分の気に入らないものを簡単にシャットアウトできるので、違いに対する耐性も弱くなっていくのだろうと思います。
マルクス・ガブリエルはサイバー空間が実に反民主的であり、ユーザーは自分がGoogleなどのためにデータを提供するという無償労働をしていることに気付かずに搾取されているデジタル・プロレタリアートであり、デジタル難民だと言います。だからデジタル空間を再民主化しなければならないと。そのためには、哲学の社会的地位を高め、新しい啓蒙を可能にする必要があるということだと思います。

マルクス・ガブリエルと中島隆博両教授の邂逅をきっかけにボン大学の国際哲学センター(Internationales Zentrum für Philosophie)と東京大学の東アジア藝文書院が提携するようになり、現代の実践する学際的な哲学のプラットフォームの1つを形成しているそうです。自分の出身大学(ボン大学)にそのような画期的な試みがあるとは露知らずだったのですが、機会があれば講演でも聴講に行こうかと思いました。
知識としての哲学(主に哲学史)はどちらかと言うと(私には)退屈ですが、現代の分析と今後のあるべき姿を考える実践的哲学は大変興味深いと思います。混沌として情報ばかり溢れているものの、指針が見つかりにくい現代社会において哲学は必要な思想的土台を提供してくれると思います。社会の分断をもたらすような「アンチ」の(差別)思想ではなく、政治を中立化し、「人類はいかにあるべきか」という統合的な問いを様々な角度から考えて答えを探っていくそのプロセスが面白いです。この「様々な角度から考えて答えを探っていく」ことが本来の哲学です。
あなたも哲学してみませんか?