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アレン・ネルソン『戦場で心が壊れて』その3

2019-10-26 03:01:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

私は、生まれたばかりの赤ん坊を思い浮かべてみました。弱々しく愛らしいその姿は、暴力の対極にあるもの、「非暴力」そのものだという感じがしました。あるいは、保育園の子どもたちを思い浮かべました。保育園に人種や国籍の違う子どもがいても、子ども同士は何も気にせず、ただ一緒に楽しく遊ぶはずです。(中略)本来の人間は、そのように平和的で非暴力的な生き物なのではないでしょうか。(中略)先生のもとでPTSDから回復するにつれ、私はしだいに「自分が心に閉じ込めていた戦争の真実から、目をそむけていてはダメだ」「自分には語る責務があるのではないか」と感じるようになりました。(中略)
 (私がベトナムを訪問する機会を得たとき)、仲間の兵士の顔が思い浮かんできたのです。もちろん仲間だけではありません。ベトナムの村の人たちの顔、子どもたちの顔、そして死体も……。ジャングルにいる私自身の顔も目に浮かびました。十八歳の少年だった私です。(中略)ステージに上がり、温かい歓迎にお礼を言った後、私は、40年近く前に自分がした間違いを列挙していきました。「私は、みなさんの子どもたちを殺しました。女性やお年寄りを殺しました。兵士を殺しました。村を焼き払いました。(中略)私は間違っていました。申し訳ありません。いま、私はそれを本当にすまないと思っています」。そして、ベトナムの人々は、一度たりとも私たちに敵対した人々ではなかったと言いました。(中略)私はみなさんのことを誇りに思うとも言いました。(中略)私は、許してくださいとは言いませんでした。私がベトナムに行ったのは、許しを請うためではなく、自分の罪を謝るためだったからです。(中略)あいさつを終えて会場を見渡したとき、私は驚きました。多くの人々が泣いていたのです。ステージから降りると、みんなが拍手してくれました。(中略)
 「沖縄に駐留している三人の米兵が、レイプの容疑で訴追された」。1995年9月のある日、自宅のテレビがそんなニュースを伝えていました。ごく短い報道でしたが、「オキナワ」という言葉を耳に留めた私は、思わず見入りました。そもそも、ベトナム戦争が終わって20年もたっているのに、沖縄にまだ米軍基地があるということに驚きました。(中略)「えっ、被害者は12歳の小学生?」(中略)するとその仲間が、「アレン、日本にある基地をなくす運動をサポートするため、沖縄で君のベトナム戦争の話をしたらどうだろう」と言ったのです。(中略)学校で講演することが多かったので印象に残っているのですが、小学生から大学生にいたるまで、日本の子どもたち、若者たちに、第二次世界大戦についての知識が、極端に乏しいことを知りました。(中略)お父さん、お母さんたちが、自分の国がそう遠くない過去にしたことについて、子どもと、事実にもとづく話をできない━━これは驚きでした。かつて日本が他国の人々にひどいことをしたということを、普通の人たちは想像もできないのです。(中略)
 日本の総理大臣は、靖国神社に何度も参拝しています。靖国神社は、アジア・太平洋への日本の侵略を、「自存自衛の戦争」などと言って正当化している施設です。(中略)そういう神社に日本政府の代表が参拝することは、かつての侵略戦争を政府が正当化しているというメッセージになります。(中略)
 しかし、一方で日本には、過去の侵略戦争を深く見つめ、反省する人々がいたしいまもいることを私は知っています。(中略)「九条は、日本がアジアや太平洋の国々を侵略し、多くの人々の命を奪った第二次世界大戦や植民地支配を反省し、二度とそういうことを繰り返すまいという思いでつくられたのです」(中略)わかる気がしました。私自身も、ある意味で似たような道をたどってきて、いま、非暴力という考え方を自分のものにしているわけですから。それが一国の憲法に表現されていることに感激しました。(中略)国と国の間に争いごとが起きたとき、武力ではなく話し合いで解決するということです。(中略)九条を含め、日本国憲法は、外国によって押しつけられたものだから、従う必要はないと言う日本人もいます。だれが書いたかということは、いま述べたようなこととまったく関係ないと思います。大事なのは、それがいまの世界で平和のために大きな役割を果たしているということであり、日本人におおきな利益を与えているということです。

(また明日へ続きます……)

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アレン・ネルソン『戦場で心が壊れて』その2

2019-10-25 06:51:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 1967年にベトナムから帰還して70年に除隊になるまでは、私は、アメリカ本土やハワイなどの海兵隊基地に勤務していたので、住んでいたのも基地の中でした。(中略)
 しかし除隊して、母と姉、妹の住むニューヨークの実家に戻ってきたとき、状況は一変しました。実家は、それまで私がいた環境とはまったく違った世界でした。家族を含め、多くの人がベトナムのことや軍のことに関心を持っていませんでした。そして、そういう環境に置かれて以降、私は悪夢やフラッシュバックに悩まされるようになったのです。
 そういう私をみて母も姉も妹も、驚き、おびえました。(中略)私は神経が異常に過敏になり、ささいなことで彼女たちを怒鳴りつけることもしばしばでした。(中略)それで私は家を出て、スラム街にあった廃墟のようなビルをねぐらに、ホームレス生活を始めたのです。
 (中略)海兵隊員はもともと、子どもや女性を殺すトレーニングを受けていたわけではありません。敵の兵士を殺すよう訓練されていたのです。しかし実際に戦場に行ってみると、敵の兵士はゲリラであり、どこにいるのかわからず、その妻や子どもたちが彼らを支援していたのです。したがって、女性や子どもを殺すことは、兵士への支援を断ち切ることになるし、隠れている兵士をわれわれの前におびき出すことにもつながりましたから、私たちは女性や子どもも攻撃の対象にしました。しかし、そういう人々を殺すように訓練されていなかった私たちは、それをした際、非常に困惑したのも事実です。(中略)
 そんな生活を送っていた私ですが、数カ月のホームレス生活の後、転機となるできごとが起きました。(中略)ある偶然から、スラム街にある小学校で、四年生の子どもたちにベトナム戦争の体験を話すことになってしまったのです。(中略)しかし、よみがえる戦場の光景に毎日苦しめられている私が、そんなことを語れるはずもありません。まして相手は子どもです。私は、ベトナムという国のこと、そこで多くの米国兵士やベトナム人が犠牲になっていること、戦争とは恐ろしいものだということを話しました。しかしそれはあくまで一般論としてであって、実際に私が行った残虐な行為については話しませんでした。(中略)私の話が終わって、子どもたちがいくつか質問をしてくれました。一通り答え、担任の先生が、「では最後に」といったときのことです。最前列に座っていた女の子が手を挙げました。
「ミスター・ネルソン」。まっすぐなまなざしでした。
「あなたは人を殺しましたか?」
 (中略)どれくらい立ちつくしていたか、よく覚えていません。私は、迷いに迷った末、目をつぶって、つぶやくように「YES」と答えました。(中略)子どもたちの顔を見るのが怖くて、目をつぶっていると、私の身体にだれかがふれました。見下ろすと、それは質問をした女の子でした。(中略)
「かわいそうな、ミスター・ネルソン」 
 その子は目に涙をためていました。やがて、ほかの子どもたちも次々にやってきて私をだきしめてくれました。私は驚きました。(中略)涙がほほをつたって落ちました。(中略)
 八歳くらいのときの、私の母に対する気持ちは、愛情と憎しみの混ざり合ったものでした。もちろん母ですから、当然愛してはいたのです。(中略)でも同時に私は彼女を憎んでいたのです。彼女は、女性であるため稼ぎも少なく、シングルマザーとして人々に見下されており、弱い存在だと思っていたからです。(中略)一方、私が受けた教育は、さまざまな形で暴力を肯定する内容を含んでいました。たとえば、学校で習うアメリカの建国以来の歴史は、白人が、先住民を攻撃してその土地を奪ったうえにアメリカができたというものでした。あるいは、第二次世界大戦のとき、日本の広島と長崎に落とされた原子爆弾は、戦争終結を早める役割を果たしたということも、教科書に書かれていました。(中略)そこには、「人を殺すことは容認されるのだ」という考え方がありました。(中略)
 戦場での殺人には二種類あります。一つは、一対一で相手を殺す場合、それからもう一つは、部隊で村を襲撃し、その全体を殲滅(せんめつ)する場合です。私は、戦場に行って最初の四カ月くらいは、自分が殺害した人間の数を数えていました。(中略)けれど四カ月たったころ、私はそれをやめました。数え切れなくなってしまったからです。(中略)どんなに人を殺しても、とがめられることがない、つかまることがない━━普通はありえないことじゃないでしょうか。(中略)そのときはっきりと、自分のような人間を増やしてはならないと思ったのです。

(また明日へ続きます……)

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アレン・ネルソン『戦場で心が壊れて』その1

2019-10-24 00:13:00 | ノンジャンル
 日本では2006年に刊行されたアレン・ネルソンさんの著書『戦場で心が壊れて』を読みました。その中から印象的な部分を抜粋して紹介したいと思います。

 「私はかつて、アメリカ海兵隊員でした。40年近く前、沖縄のキャンプ・ハンセンという基地からベトナムへ、戦争をしに行った人間です。18歳のときのことでした。
 あの国のジャングルで私は、多くの人々を殺し、村を焼き払いました。そして約3ヵ月の後、戦闘の最前線から帰還した私は、以前の私とは違っていました。自分では気づいていなかったのですが、精神に異常をきたしていたのです。
 いまでいうPTSD(心的外傷後ストレス障害)でした。それは戦場体験の精神的後遺症ともいうべきもので、体験したものでないとわからない苦しみをもたらします。私の場合、幸いにも、あるできごとがきっかけで、その治療にとりくむことになり、完全にではありませんが、回復することができました。20年以上の時間がかかりましたが……。
 この本で私は、そんな私の病(やまい)と治療体験について語りたいと思います。そして、それをあえて日本のみなさんに向けて書いたのには理由があるのです。
 とても奇妙に聞こえるかもしれませんが、私には、この日本という国もまた、ある意味で私と同じような病を抱えているように見えるのです。また、PTSDから回復する過程で、私がたいへん大事だと思うようになった考え方が日本にはあり、しかしそれがいま脅かされているからです。それは日本国憲法第九条に示された非暴力の思想です。(中略)
 私は戦争と殺戮という体験を経て非暴力の考え方にたどりつきました。やはり非暴力の思想を表している日本の憲法第九条も、日本がかつて体験した戦争について、深く考えたうえにできた法律だと聞いています。私には、この九条というものがつくられた意味がわかる気がします。条文を読むと、自分の身体や感覚に響き合うものを感じるからです。(中略)
 
 (前略)戦争映画などで、主人公が敵を倒し、さっそうとその場から去っていくシーンがよくあります。しかし実際の戦争はそういうものではありません。現実の戦場では、敵の死体から戦闘の参考になる情報を得ようとするものです。そのため、死体のポケットをさぐって地図や文書などがないかどうか調べたりしなければなりません。(中略)
 包囲した村に女性と子どもしかいない場合、男たちは敵の戦士です。彼らは周囲のジャングルに潜んでいるはずでした。そういう場合、私たちは、村に残っている女性や子ども、老人を殺し、その死体を村の入口にわざと見えるように並べ、敵をおびき出すという残虐非道なこともはたらきました。(中略)
 私の場合は、殺しあいが日常となっている戦場に身を置くことで生じる、恐怖と異常なまでの緊張がストレスになっていたのでした。(中略)
 すると、私たち兵士の五感は、動物のように研ぎすまされていくのです。耳はパラボラ型集音器のように、目はカメラのように、常に情報をキャッチしようとしていました。中でも大事なのは嗅覚でした。においは、思った以上に遠くまで伝わります。私たちは、何かの動きを見たり聞いたりする前に、においによって情報をつかむことができました。ジャングルは樹木が生い茂っているので、嗅覚は視覚以上に重要でした。(中略)

(前略)戦争映画などでは絶対にわからないことですが、戦場には、あるにおいが満ちています。そう、死体のにおい、死のにおいです。それは本当に強烈なにおいです。どのように言い表していいかわかりませんが、いまでも忘れることができません。(中略)

 死体に関してもう一つ言うと、ハエもまた、私をジャングルへと引き戻す存在です。(中略)音がする方向に歩いていくと、何千匹、何万匹というハエがどこからともなくやってきて、飛び交っていました。そう、低いうなり声のような音は、ハエの羽音だったのです。そしてその群れの下に、すでにこときれた戦友の死体が横たわっていました。(中略)想像できますか。戦闘があるたびに私たちは、そうした光景にしょっちゅうでくわしていたのです。(中略)
 もう一つ、私に戦場の記憶をよみがえらせる生き物に、ヒルがあります。(中略)これにも私は、たいへんな恐怖を感じました。ヒルが身体についていたら、タバコの火をそれにつけろといわれていました。(中略)しかし私は恐ろしさのあまり、ぶらさがっているヒルを見た瞬間にむしり取ってしまっていました。

(明日へ続きます……)

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森崎東監督『美味しんぼ』その2

2019-10-23 00:00:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 雄山「その茶碗は玉ゆらという茶碗だ。四郎にはもてなしの心が欠けている」「山岡さんと仲直りしてください」。
「対決第二弾は中国料理です。究極側はブロイラーではない地鶏を使ってきました。フークイチンです」。審査員「本物のカシワの味だ」。「続いて至高のメニューです」。「ただのスープじゃないか。いや、気合に満ちた味だ。満洲から逃げる時、満洲の人が作ってくれたスープの味を思い出す」。「メニューの名前はフーチャオチェンです」。審査員「最高級の烏骨鶏を使ってる」。「究極側がもう一品、フーテアチャンも番外編として出してきました」。「これも批評を超えたものだ。だが、今回も至高の勝ちだ」。(中略)
「もう帝都に負ける訳にはいかない。山岡を担当から外す」栗田「そうなら私も辞めます」。
 栗田「山本さん、さとみさんが2,3日前から何も食べていないんです。お兄さんの作ったものなら何でも食べるって言ってます」。
 山本が訪ねていくと、さとみは微笑む。お前、仮病じゃないんだろうな?」「煮豆が食べたい。ずーっと食べたことがないの。丹波の煮豆」。
 雄山「お前、何しに来た?」「何でさとみはあなたのものを食べない? 奥さんのためだろう」。
 雪がちらちら降っている。「地の豆、いんげん豆がほしいのだが」村の人「観音橋に行けばいい」。
「この匂いは? 豆を炊いている匂いだ」。“山岡”宅。女(樹木希林)「豆は煮具合が難しい」「本家のお姉さんですね。その人の煮豆はどうしておいしかったのでしょうか?」「食べる時が大事。うちの豆さん、食べてみるか? まだ味が染みてない」。
「ほなどうぞ。あんた四郎さんじゃなかろうか?」。
“美食倶楽部”の看板。煮豆を作る山岡と煮豆を作る雄山のカットバック。
 夕陽。
山岡、さとみに「湯気が落ち着くまで食べるな。(中略)お兄ちゃんの方から売ってくる。どうしても決着をつけたい」。
 自転車を飛ばし、売り声を張り上げる山岡。
「兄ちゃん、いただきます。先生のも食べてみようか?」栗田「味が違うけどどっちもおいしい」さとみ「でも私は兄ちゃんの方。私、心臓の病気になってるの。だから自殺しなくても死ねる」。
 自転車を飛ばし、売り声を張り上げる山岡。
「手術する気になったの?」「このお皿、売ったら一千万円になるのよ」。
「煮立て! いんげん!」と叫ぶ山岡。陰からそれを見る雄山。
 自転車を停めると、主婦たちが集まってくる。「ただでいいんですか?」。次々と煮豆を持って帰る主婦たち。雄山「私にもくれ」。食べてうなずく雄山。「わたしゃ、負けたかもしれん」。
(中略)「親父に言っとけ。父親は裸でいるときと、ネクタイをしているときと2つある」。
 北鎌倉。「対決第三弾は陶器の制作からです。雄山氏の一挙手一投足を見詰める山岡氏」。さとみも見詰める中、窯に火入れをする雄山。ぱちぱちと燃える薪のアップで映画は終わる。

 実際の親子である三國連太郎さんと佐藤浩市さんが親子の役を演じる珍しい作品でした。
 そして森崎東監督作品としてみても、やはり優れた映画だったと思います。見逃した方で映画ファンの方がいらっしゃったら必見の映画です!

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森崎東監督『美味しんぼ』その1

2019-10-22 04:15:00 | ノンジャンル
 WOWOWシネマで、森崎東監督の1996年作品『美味しんぼ』を観ました。
 東西新聞の栗田ヨウコ(羽田美智子)は新しく文化部の配属となり、副部長が呼んでいる山岡(佐藤浩市)を探しに行く。
 文化部では「究極のメニュー」という企画を出し、食通で知られる貝原雄山(三國連太郎)に監修を頼もうとする。
 陶器の店で見知らぬ客に三百万の器をプレゼントする雄山。
 「究極のメニュー」の企画担当に、一番の味覚の持ち主である山岡が推挙されるが、水と豆腐を使った味覚のテストをスタッフ全員ですることになる。(中略)一つ目がスーパーの豆腐、もう一つが~名産の豆腐、3つ目が~名産の豆腐、水は一つ目が水道水、2つ目が井戸水、3つ目が~山麓の水。
 一方、雄山はお吸い物を作り直せと店の者に言い、それを聞きつけた山岡は自らお吸い物を作り出す。
 テストの結果、全問正解は栗田と山岡だけだったので、この二人が「究極のメニュー」の担当となる。
 お吸い物を作る山岡。
 山岡が作ったお吸い物が供されると、雄山は「うん、板前が変わったね。その男に会ってみたい」と言い、山岡が「究極のメニュー」の担当としても紹介されると、「こういう男と一緒に仕事はしたくない」と言って監修の仕事は断る。「雄山先生の朝食の会に呼ばれたので、明日の朝5時に北鎌倉に集合」と部長(芦田伸介)から伝えられる栗田と山岡。
 翌朝、25分待っても山岡は現れないので、2人で雄山宅を訪れると、雄山は「時間の過ぎたものは下げなさい」と言って、二人の膳を下げさせる。
 「雄山先生と山岡が親子であることを知っている。お二人の和解のきっかけになれば」という部長。
 山岡は礼を尽くすが、雄山に無視される。
 「世界中から珍味を集める」と聞き、食通で知られる有名人3人はフォアグラを絶賛するが、山岡は「名前をありがたがっているだけ。最高のフォアグラよりおいしいものを用意する」と言う。
 漁でアンコウを釣る山岡。
 アンコウの吊るし切りをする山岡。
 3人の食通にあん肝を食べさせる山岡。その様子を見て、「あの3人は審査員から外そう。企画の担当は改めて山岡くんに頼む」と言う部長。
 あん肝の残りを栗田に渡す山岡。
 夜。焚火を囲む労務者。そのうちの一人(田中邦衛)、山岡に「いつも悪いね。お嬢さん、こっちにおいで。う~ん。おいしい。若いお嬢さんからお酌をしてもらうなんて40年ぶりだなあ」と言う。
 「彼らは銀座で余った食材を普段から食べているので、舌が肥えている」と山岡は、自宅に帰る。
 栗田「うわー、すごいキッチン! なぜ究極のメニューに熱心に取り組んでくれないの?」「取り組んでる」「山岡さんと貝原先生は親子でしょ?」。
 父の目の前で父の大切にしていた茶碗を割る若き山岡。
「里見や中川は山岡さんのことを『坊ちゃん』と呼んでいましたよね」「家を飛び出してから親と思ったことはない。もう13年か。今ならあいつに勝てる」。(中略)
「雄山先生は帝都新聞と組むらしいぞ」。
「『至高メニュー対究極メニュー』という企画に帝都は乗ったらしい」。(中略)
「第一弾の課題は魚だ」「魚ね。この近くでは……」。
 栗田「負けたってお父さんじゃない」山岡「あいつは母を捨てて芸術を取ったんだ。あふくろが危篤の時でも窯を離れなかった」。
「いよいよ至高対究極メニューの第一弾です。究極は鯛を選びました」。激賞する3人の審査員。(一人は財津一郎)。
「それに対して至高の方はアジの開きです」「しかしただのアジの開きとはちゃうでえ。この飯もいうことない。今回は至高の勝ちじゃ」。
 山岡「あんなの料理じゃない。奇をてらっただけだ」栗田、部長に「明日一日お休みをください。負けた原因を探ってきます」。
「栗田さん」「さとみさん、お願いがあるの」(さとみは雄山の養女)。“窯山荘”の看板。「追い返せ」と雄山。
 さとみ「私は先代の忘れ形見なの。坊ちゃんと兄妹同然に育ててもらったわ」。米粒を一つずつ選別する料理人。「先日のご飯もこのようにして?」「はい」。「雄山が茶室で待ってるって」。

(明日へ続きます……)

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