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金子文子『何が私をこうさせたか 獄中手記』その7

2019-10-16 00:09:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 かくて1931年━━ふみ子が自ら縊(くび)れてから五周年、その月の7月が来た。しかもこの7月、ふみ子が捕われて市ヶ谷刑務所入所中の四年、その間にものした手記、ふみ子の全生涯を物語るところの手記が纏(まとま)った書物となって、この世に送り出される。ふみ子はこの書を宅下(たくさ)げた当時、書をよせて言う、「この手記は天地神明(てんちしんめい)に誓って(もしそうした誓いが出来るなら……)私自身のいつわりない生活事実の告白であり、ある意味では全生活の暴露(ばくろ)と同時にその抹殺(まっさつ)である。呪(のろ)われた私自身の生活の最後的記録であり、この世におさらばするための逸品(いっぴん)である。何ものも財産を私有しない私の唯一のプレゼントとしてこれを宅下げする」と。
 その五年の後、とまれこの世にこの書が送り出されたということは、ふみ子生前の在所中四年間の宿望であり、同時に自分にとっても生涯忘れることの出来ない一出来事である。

 が、ふみ子は遠く去って、その面影は淡らぎつつあるが、人間ふみ子━━この世に生まれ、二十三歳の青春を最後に自ら縊れて逝(い)ったふみ子━━性格的にも大きな謎を残して逝ったふみ子━━そのふみ子に対する全社会の耳目(じもく)は断じてこれを忘却してはいない。『何が私をこうさせたか』まことにかくなったふみ子は、何故にかくあらねばならなかったか。この手記は自らこの質問に答えて委細(いさい)をつくしている。しかもかくあった自分をいつわりなく大胆に、率直に、一切を白日の下に暴露している。

 生前は、すこぶる感情家で、よく話し、よく笑ったが、話がたまたま朝鮮時代のことに及んだ時など、ボロボロと涙を流しながら、大声を上げて泣きさけぶ。そして朴烈(ぼくれつ)が傍(かたわ)らにいて顔をしかめて制止しているのにもかかわらず、その陰惨で不幸だった生活を最後まで物語ってしまわなければきかなかった。感情的なふみ子━━。
 一つの仕事をやり出したら、食事も忘れて没頭し切った、だが人生に対しては何ものの期待も持たず、むしろ絶望して、その絶望のどん底に苦笑していたふみ子━━その生活、意地の強い、頑張りやの、それでいて非常に涙もろい赤裸に自分を解放していた人間ふみ子━━等々……これらに関連して自分の述べたいことはあまりにも豊富にありすぎる。しかしこの手記中、人としてのふみ子は自らの筆によって充分に書きつくされていると思う。
 自分はこの上稚筆を弄(ろう)することをやめて、恐らく何人(なんびと)も涙なしには読まれないであろうこの手記を全日本の心ある人々に贈りたいと思う。

 最後に金子ふみ自身による、栗原さんに宛てた「添削されるについての私の希望」という文章を紹介します。

一、 記録外の場面においては、かなり技巧が用いてある。前後との関係などで。しかし、記録の方は皆事実に立っている。そして事実である処に生命を求めたい。だから、どこまでも『事実の記録』として見、扱って欲しい。
一、 文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いてほしい。
一、 ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、出来るだけ避けて欲しい。
一、 文体の方に重きを置いて、文法などには余りこだわらぬようにして欲しい。

 さらに目次を記しておくと、「忘れ得ぬ面影 栗原一男」「添削されるについての私の希望 金子ふみ」に続いて、本文「手記の初めに」「父」「母」「小林の生まれ故郷」「母の実家」「新しい家」「芙江」「岩下家」「朝鮮での私の生活」「村に還る」「虎口へ」「性の渦巻」「父よ、さらば」「東京へ!」「大叔父の家」「新聞売子」「露店商人」「女中奉公」「街の放浪者」「仕事へ!」「私自身の仕事へ!」「手記の後に」となっています。

 詳しい内容までは今回は読めませんでしたが、将来機会があったら読みたいと思います。

P.S. 昨日はジャズピアニストの木住野佳子さんの59歳のバースデーでした。バースデーコンサートには行けませんでしたが、陰ながら応援しています。とりあえず、ハッピーバースデイ!!

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto