昨日の続きです。
また、やはりパンフレットに掲載されていた「物語」と「登場人物」の文章を一部改変させて、転載させていただき、あらすじを書く試みをしてみると、
「1923年、東京。社会主義者たちが集う有楽町のおでん屋で働く金子文子は、「犬ころ」という詩に心を奪われる。この詩を書いたのは朝鮮人アナキストの朴烈。彼は慶尚北道生まれで、三・一運動に参加した後、1919年に日本へ渡り、日本で社会主義運動に参加していた。日本植民地時代に反日運動に全精力を捧げた朴烈の暮らしは、貧しかったかもしれない。しかし、彼は朝鮮人を嘲笑う日本人に対し全身全霊で刃向かい、全朝鮮人の中で日本政府に対し最も反抗的な人物であった。
文子は朴烈に会いに行き、出会ってすぐに朴烈の強靭な意思とその孤独さに共鳴し、自分もアナキストであると名乗り、同棲を提案する。文子は日本人であるが、日本の植民地主義には反対で、朴烈の同志そして恋人となった。
ふたりの発案により日本人や在日朝鮮人による「不逞社」が結成された。しかし同年9月1日、日本列島を襲った関東大震災により、ふたりの運命は大きなうねりに巻き込まれていく。
内務大臣・水野錬太郎を筆頭に、日本政府は、関東大震災の人々の不安を鎮めるため、また関東大震災後の混乱期の朝鮮人虐殺を隠蔽するスケープゴートとして朝鮮人や社会主義者らを無差別に総検束。朴烈、文子たちも検束された。社会のどん底で生きてきたふたりは、社会を変える為、そして自分たちの誇りの為に、獄中で闘うことを決意。朴烈は皇太子暗殺計画を自白することで日本政府を逆に混乱に陥れる。世界が注目する裁判において、彼は日本人が仕掛けた筋書きに対抗するヒーローになる決意をする。闘いは韓国にも広まり、多くの支持者を得ると同時に、ますます日本の内閣を混乱に陥れていった。
これ以降、朴烈はハンガーストライキを武器に、「メシの量を増やせ。朝鮮人は日本人よりも多くのメシを食べてるんだ」とか「裁判官と同じ高さに被告席を置け」「公判には朝鮮の礼服を着て出る」などという、ときには無理難題とも言えるような要求をし続け、無理矢理メシを食わそうとする官吏に対し、メシを吐き出し相手をメシまみれにさせたりもする。弁護士の布施辰治は朴烈の事件が政府によるでっちあげであることを確信し、何とかして朴烈を助けようとするが、自分と文子が犠牲となれば、朝鮮人たちの独立運動に火がつくという朴烈の信念を曲げることはできない。獄中で黙々と日記を書く文子の方も、拘置所長が威圧的な態度を取ると、わざと所長の前で素っ裸になり、挑発したりする。
裁判では朴烈と文子の毅然とした態度に、傍聴席から「朝鮮人のくせに生意気言うな!」などの野次が飛んだため、途中から傍聴人を入れないで裁判は進み、ふたりは死刑になることを覚悟する。そして最後の公判で文子は言う。「私は朴を知っている。朴を愛している。彼におけるすべての過失とすべての欠点とを越えて、私は朴を愛する。そしてお役人に対しては言おう。どうか二人を一緒にギロチンに放り投げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しよう。して朴には言おう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです━━と。」
しかし二人を死刑にした場合、朝鮮人たちが蜂起する可能性を考えた水野・内務大臣の意向により、1926年3月25日に出された判決は大逆罪で死刑となったものの、すぐに恩赦が出されて無期懲役になり、二人は別々の刑務所に送られることになる。そして1926年7月23日に文子は獄死し、23年という短い人生を終える。当局は死因を自殺と発表するが、不逞社の仲間たちは「彼女が朴烈を残して自分だけ先に自殺したりするはずがない」と、彼女の遺体を掘り起こし、包帯でぐるぐる巻きにされた彼女の遺体の顔の部分に布を被せ、改めて冥福を祈る。
そして最後に朴烈のその後が字幕で紹介され、第二次世界大戦後に釈放され、大韓民国へ帰国したこと、大韓民国から勲章を与えられたこと、1974年に亡くなったことが述べられ、映画は終わる。」
ドキュメンタリーとしてではなく、「映画」としてこの作品を見た場合、文子を演じたチェ・ヒソの演技がオーバーで少し鼻をつく場面もありましたが、総じて無駄なショットがなく、変に叙情に流れることもなく、最後まで見ている者を引きつけてやまない力をもっている映画だと思いました。最後の朴烈のその後を字幕で紹介するのは、よくスピルバーグがやる手ですが、ここでは朝鮮戦争の時に北朝鮮に拉致され、スパイ容疑で刑死した事実は明らかにはされていなかったようです。71年における波瀾に飛んだ人生。この場を借りて、朴烈さんのご冥福もお祈り申し上げます。
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
また、やはりパンフレットに掲載されていた「物語」と「登場人物」の文章を一部改変させて、転載させていただき、あらすじを書く試みをしてみると、
「1923年、東京。社会主義者たちが集う有楽町のおでん屋で働く金子文子は、「犬ころ」という詩に心を奪われる。この詩を書いたのは朝鮮人アナキストの朴烈。彼は慶尚北道生まれで、三・一運動に参加した後、1919年に日本へ渡り、日本で社会主義運動に参加していた。日本植民地時代に反日運動に全精力を捧げた朴烈の暮らしは、貧しかったかもしれない。しかし、彼は朝鮮人を嘲笑う日本人に対し全身全霊で刃向かい、全朝鮮人の中で日本政府に対し最も反抗的な人物であった。
文子は朴烈に会いに行き、出会ってすぐに朴烈の強靭な意思とその孤独さに共鳴し、自分もアナキストであると名乗り、同棲を提案する。文子は日本人であるが、日本の植民地主義には反対で、朴烈の同志そして恋人となった。
ふたりの発案により日本人や在日朝鮮人による「不逞社」が結成された。しかし同年9月1日、日本列島を襲った関東大震災により、ふたりの運命は大きなうねりに巻き込まれていく。
内務大臣・水野錬太郎を筆頭に、日本政府は、関東大震災の人々の不安を鎮めるため、また関東大震災後の混乱期の朝鮮人虐殺を隠蔽するスケープゴートとして朝鮮人や社会主義者らを無差別に総検束。朴烈、文子たちも検束された。社会のどん底で生きてきたふたりは、社会を変える為、そして自分たちの誇りの為に、獄中で闘うことを決意。朴烈は皇太子暗殺計画を自白することで日本政府を逆に混乱に陥れる。世界が注目する裁判において、彼は日本人が仕掛けた筋書きに対抗するヒーローになる決意をする。闘いは韓国にも広まり、多くの支持者を得ると同時に、ますます日本の内閣を混乱に陥れていった。
これ以降、朴烈はハンガーストライキを武器に、「メシの量を増やせ。朝鮮人は日本人よりも多くのメシを食べてるんだ」とか「裁判官と同じ高さに被告席を置け」「公判には朝鮮の礼服を着て出る」などという、ときには無理難題とも言えるような要求をし続け、無理矢理メシを食わそうとする官吏に対し、メシを吐き出し相手をメシまみれにさせたりもする。弁護士の布施辰治は朴烈の事件が政府によるでっちあげであることを確信し、何とかして朴烈を助けようとするが、自分と文子が犠牲となれば、朝鮮人たちの独立運動に火がつくという朴烈の信念を曲げることはできない。獄中で黙々と日記を書く文子の方も、拘置所長が威圧的な態度を取ると、わざと所長の前で素っ裸になり、挑発したりする。
裁判では朴烈と文子の毅然とした態度に、傍聴席から「朝鮮人のくせに生意気言うな!」などの野次が飛んだため、途中から傍聴人を入れないで裁判は進み、ふたりは死刑になることを覚悟する。そして最後の公判で文子は言う。「私は朴を知っている。朴を愛している。彼におけるすべての過失とすべての欠点とを越えて、私は朴を愛する。そしてお役人に対しては言おう。どうか二人を一緒にギロチンに放り投げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しよう。して朴には言おう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです━━と。」
しかし二人を死刑にした場合、朝鮮人たちが蜂起する可能性を考えた水野・内務大臣の意向により、1926年3月25日に出された判決は大逆罪で死刑となったものの、すぐに恩赦が出されて無期懲役になり、二人は別々の刑務所に送られることになる。そして1926年7月23日に文子は獄死し、23年という短い人生を終える。当局は死因を自殺と発表するが、不逞社の仲間たちは「彼女が朴烈を残して自分だけ先に自殺したりするはずがない」と、彼女の遺体を掘り起こし、包帯でぐるぐる巻きにされた彼女の遺体の顔の部分に布を被せ、改めて冥福を祈る。
そして最後に朴烈のその後が字幕で紹介され、第二次世界大戦後に釈放され、大韓民国へ帰国したこと、大韓民国から勲章を与えられたこと、1974年に亡くなったことが述べられ、映画は終わる。」
ドキュメンタリーとしてではなく、「映画」としてこの作品を見た場合、文子を演じたチェ・ヒソの演技がオーバーで少し鼻をつく場面もありましたが、総じて無駄なショットがなく、変に叙情に流れることもなく、最後まで見ている者を引きつけてやまない力をもっている映画だと思いました。最後の朴烈のその後を字幕で紹介するのは、よくスピルバーグがやる手ですが、ここでは朝鮮戦争の時に北朝鮮に拉致され、スパイ容疑で刑死した事実は明らかにはされていなかったようです。71年における波瀾に飛んだ人生。この場を借りて、朴烈さんのご冥福もお祈り申し上げます。
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)