オタール・イオセリアーニ監督・脚本・共同編集の'10年作品『汽車はふたたび故郷へ』を川崎アートシアターで見ました。旧ソ連体制下のグルジアでの映画の検閲に嫌気がさした映画監督が海外に居を移して映画製作を行いますが、そこではプロデューサーとの軋轢が生まれ、結局故郷に帰るという映画でした。年老いたビュル・オジェが出演していて驚きましたが、映画自体は最後は川の人魚に主人公が連れていかれるというファンタジックな作品となっていました。
さて、昨日の続きです。
エヴゲーニヤはついにクルイモフへの差し入れを監獄に受け取ってもらえます。そしてノヴィコフの名がラジオから流れるのを聞きます。そしてエヴゲーニヤはヴィクトルらの家から去っていきます。
やがてヴィクトルの元へスターリンから電話がかかり、研究に支障がないかどうか聞いてきます。それからヴィクトルを取り巻く環境は一変し、皆が彼に親切になり、人事も彼の希望通りとなります。一方、マリヤは夫のソコロフにヴィクトルへの愛を告白し、夫からヴィクトルに二度と会わないようにと言われます。クルイモフはルビャンカでの拷問に耐え、敵のスパイであったという署名をしようとはしませんが、エヴゲーニヤに密告されたという疑念に悩まされます。ノヴィコフは五昼夜寝ていない部下たちに休養を与えようとしますが、ウクライナへの先陣を切ろうとするゲートマノフと衝突します。
車の出迎えを受けるようになり生活が一変したヴィクトルでしたが、彼自身は変わりませんでした。リュドミーラとマリヤの関係は復活しましたが、マリヤはヴィクトルと会おうとはしません。ある日、シシャコフはヴィクトルを呼び出し、無実のユダヤ人医師を糾弾する書面にサインするように求め、ヴィクトルは躊躇しながらもそれに署名してしまい、後悔の念に打たれます。そんな折り、マリヤから電話があり、明日公園で会いたいと言ってきます。ヴィクトルは考えます。とるに足らない人間は素晴らしいことをすると、生涯それを鼻にかける。一方、心正しい人間は、素晴らしいことをしてもそれを心にとどめないが、自分の犯した罪は何年でも覚えていると。一方、クルイモフは心身ともに破壊され、無条件降伏への道を辿っていました。同じ房のカツェネレンボーゲンは、これまでに監獄にいた人々が辿った道をクルイモフに教え、いずれはラーゲリのシステムが進化して外界との境がなくなり、個人的自由の原理に理性が勝る世界が現出するだとうと予言し、クルイモフの怒りを買います。そこへエヴゲーニヤからの差し入れが届き、クルイモフは神に祈り、涙します。
スピリドーノフはウラルに移り、泥炭焚きの小さな発電所の所長になるように命じられ、ヴェーニャとともに旅立ちます。彼らの後を追ってきていたアレクサンドラは彼らと別れ、エヴゲーニヤのところでしばらく暮らすことにします。スターリングラードの自分の家の廃墟を見て絶望するアレクサンドラ。最後に希望を持って森の中を歩くペリョースキンとその妻の姿で、この小説は終わります。
訳者あとがきから引用すると「この作品の大きな特徴の一つは、政治家、軍人など多くの実在の人物が実名で登場し、政治的・軍事的な意志決定や出来事の進行という歴史的事実を踏まえながら話が展開されていること」であり、「従軍記者としてこの人類史上稀に見る(スターリングラードの戦いという)激戦の現場に自ら望んで立ったグロスマンは、そこで見聞きした出来事をプロットの中心にすえるとともに、それを経験した者でなくては伝えようのない迫真性をもってこの小説の中に再現した」のでした。また「『人生と運命』を書くことでグロスマンは、ドイツのナチズムとソヴィエトのスターリン主義は同じ全体主義のカテゴリーにくくられるという結論にたどり着」いたのでした。そういった点からも、読みごたえ十分な小説だったと思います。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
さて、昨日の続きです。
エヴゲーニヤはついにクルイモフへの差し入れを監獄に受け取ってもらえます。そしてノヴィコフの名がラジオから流れるのを聞きます。そしてエヴゲーニヤはヴィクトルらの家から去っていきます。
やがてヴィクトルの元へスターリンから電話がかかり、研究に支障がないかどうか聞いてきます。それからヴィクトルを取り巻く環境は一変し、皆が彼に親切になり、人事も彼の希望通りとなります。一方、マリヤは夫のソコロフにヴィクトルへの愛を告白し、夫からヴィクトルに二度と会わないようにと言われます。クルイモフはルビャンカでの拷問に耐え、敵のスパイであったという署名をしようとはしませんが、エヴゲーニヤに密告されたという疑念に悩まされます。ノヴィコフは五昼夜寝ていない部下たちに休養を与えようとしますが、ウクライナへの先陣を切ろうとするゲートマノフと衝突します。
車の出迎えを受けるようになり生活が一変したヴィクトルでしたが、彼自身は変わりませんでした。リュドミーラとマリヤの関係は復活しましたが、マリヤはヴィクトルと会おうとはしません。ある日、シシャコフはヴィクトルを呼び出し、無実のユダヤ人医師を糾弾する書面にサインするように求め、ヴィクトルは躊躇しながらもそれに署名してしまい、後悔の念に打たれます。そんな折り、マリヤから電話があり、明日公園で会いたいと言ってきます。ヴィクトルは考えます。とるに足らない人間は素晴らしいことをすると、生涯それを鼻にかける。一方、心正しい人間は、素晴らしいことをしてもそれを心にとどめないが、自分の犯した罪は何年でも覚えていると。一方、クルイモフは心身ともに破壊され、無条件降伏への道を辿っていました。同じ房のカツェネレンボーゲンは、これまでに監獄にいた人々が辿った道をクルイモフに教え、いずれはラーゲリのシステムが進化して外界との境がなくなり、個人的自由の原理に理性が勝る世界が現出するだとうと予言し、クルイモフの怒りを買います。そこへエヴゲーニヤからの差し入れが届き、クルイモフは神に祈り、涙します。
スピリドーノフはウラルに移り、泥炭焚きの小さな発電所の所長になるように命じられ、ヴェーニャとともに旅立ちます。彼らの後を追ってきていたアレクサンドラは彼らと別れ、エヴゲーニヤのところでしばらく暮らすことにします。スターリングラードの自分の家の廃墟を見て絶望するアレクサンドラ。最後に希望を持って森の中を歩くペリョースキンとその妻の姿で、この小説は終わります。
訳者あとがきから引用すると「この作品の大きな特徴の一つは、政治家、軍人など多くの実在の人物が実名で登場し、政治的・軍事的な意志決定や出来事の進行という歴史的事実を踏まえながら話が展開されていること」であり、「従軍記者としてこの人類史上稀に見る(スターリングラードの戦いという)激戦の現場に自ら望んで立ったグロスマンは、そこで見聞きした出来事をプロットの中心にすえるとともに、それを経験した者でなくては伝えようのない迫真性をもってこの小説の中に再現した」のでした。また「『人生と運命』を書くことでグロスマンは、ドイツのナチズムとソヴィエトのスターリン主義は同じ全体主義のカテゴリーにくくられるという結論にたどり着」いたのでした。そういった点からも、読みごたえ十分な小説だったと思います。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)