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ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』その12

2020-09-02 01:44:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

西 1958年12月
第二十五章 ツバメ 情報提供者 亡命者
(中略)
 ヘンリーについて教えてくれた女性は、いまのところあれきり姿を見せていなかったけれど、そのうち現われるとわかっていた。それまで、あたしはお気に入りのエルメスのスカーフ二枚と、残りの『ドクトル・ジバゴ』を売り払った。ただ、ル・ミストラル書店で返品しそびれた英語版一冊はとっておき、ベッド横のナイトテーブルの、アメリカのホテルであれば聖書がしまってある場所に入れた。(中略)
 彼女の誕生日には、電話をしたかった。彼女が電話に出る声を聞くだけでいいからと。でも、しなかった。その代わり、ナイトテーブルの引き出しをあけて本を取り出し、とうとうそれを読みはじめた。

 歩き、歩いて、〈永遠の記憶〉を歌った。歌が途切れたときはいつでも、足音や、馬の蹄や、にわかに吹く風によって、その歌が変わりなく続いているように思えた。

 彼の文章には、ぐいっと手首をつかまれる思いだった。(中略)
 目を覚ますと、真夜中近くで、空腹だった。服を着て、本をハンドバッグに入れた。(中略)
 彼らが来ることはわかっていたが、それがこの男だとは予想していなかった。
 彼は立ち上がって、あたしを出迎えた。フェルトリネッリのパーティーのときにかけていた小さすぎるべっこう縁のメガネはない。「チャオ、かわい子ちゃん!」そう言う彼からはイタリアなまりが消え、ロシア語なまりになっていた。(中略)
 あたしはヘンリー・レネットの身に何があったのかは尋ねなかったし、知りたくなかった。(中略)

東 1959年1月
第二十六章 ミューズ 矯正収容された女 使者 母親 使者 女郵便局長
 最初に印刷された幾冊かの本は、モスクワの知識階級の居間で手から手へと渡されていった。ボーリャがノーベル文学賞を受賞し、それを辞退してからは、その本の複製が作られた。(中略)
 その送金を手配したのは、ディアンジェロだ。まずはフェルトリネッリからリヒテンシュタインの口座へ、それからモスクワ在住のあるイタリア人夫婦へ。そのイタリア人夫婦がわたしのアパートに電話し、パステルナークへのお届け物が郵便局で待っていますと告げる。わたしがそのスーツケースを取りにいき、ペレデルキノまで列車で持ってきて、小さな家に保管する。(中略)
 やがて、ボーリャは考えを変えた。
 わたしが海外での印税を受け取るよう彼に勧めたと言ったら、それは控えめな表現になるだろう。(中略)
 慰めを求めて、わたしは小さな家を出てモスクワのアパートですごした。(中略)
 ボーリャは、都会のほうが安全だからペレデルキノを出るようにと、友人たちから警告されていたのだけれど、それを聞き入れようとしなかった。(中略)

「何をしたって、やつらは満足しないよ」何があったかをわたしから聞いて、ボーリャはそう言った。(中略)
 翌日、ボーリャはクレムリン宛ての手紙は破り捨てたとわたしに言った。「どこか外国で、知らない窓から外を眺めて、いつもの白樺の木が見えないのに耐えられるはずがないだろう?」彼は言った。(中略)

 政府はボーリャに手紙の受け取りを禁じ、彼にとっての命綱のひとつを切断した。そのすぐあと、わたしのアパートのドアの下に手紙が入れられるようになった。(中略)

 二日後にポリカルポフから電話があり、フルシチョフがボーリャの手紙を受け取ったこと、ボーリャにただちに来てもらいたいことを告げられた。(中略)

(わたしたちを待っていたのはフルシチョフではなく、ポリカルポフだった。)フルシチョフがわたしたちに会うというのは、嘘だったのである。彼はスピーチでもするように咳払いをした。「おまえがこのまま母なるロシアで暮らすことを許可する、ボリス・レオニドヴィッチ」彼は言った。(中略)
「いいかね、ボリス・レオニドヴィッチ、今回の件すべてがもう少しで終わるんだ。(中略)」(中略)

(中略)
 ポリカルポフは「国民」に宛てた最後の謝罪の手紙が必要であると、法的に命じた。わたしは最初の原案を書き、それをポリカルポフの指示どおりに編集したうえで、署名するようボーリャを説得した。
 その最終的な手紙が〈プラウダ〉に掲載された晩、ボーリャは愛の営みを求めて小さな家へやってきた。とはいえ、輝かしく勇ましい詩人は消えていた。代わりに立っていたのは、老人だった。彼は流しに立ってジャガイモの皮をむいているわたしの腰に触れた。けれど、わたしは初めてその手から逃れた。

(また明日へ続きます……)

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