1983年に日本版が刊行された、アーノルド・ヒアチェ編『シュムペーターのヴィジョン 「資本主義・社会主義・民主主義」の現代的評価』を読みました。ジェル・ジルストラによる「序論」を一部転載させていただくと、
本書は、非凡な人物の手になる比類なき著書についての、すぐれた論文集である。1942年に初版が上梓された『資本主義・社会主義・民主主義』は、経済学、社会学、政治学のなかで不滅の地位を得てきた書物の一つである。(中略)
それぞれ内容を異にする論文の執筆者たちにとっては、序論など不必要であろうし、また彼らの論文の要約を述べることも必要ではないように思われる。シュムペーターのこの書が刊行されてほぼ40年たったいま、依然として同書が大きな価値をもっていると彼らが考えているということだけでも、十分意義のあることである。ともかく学問の世界では、陳腐化は無慈悲でかつ急速に進む。その主張をすたれさせずに残しているのは、もっとも偉大な人物だけである。すなわち、スミス、リカード、マルクス、ケインズなどがその例である。私はシュムペーターの格付けを行うつもりはないが、彼の『資本主義・社会主義・民主主義』が初めて読まれた頃と同じほどに、今日なお人々を魅するものであることは明らかである。第二次世界大戦が終わったあと、長い間大西洋世界から切り離されていた西ヨーロッパ諸国にたくさんの出版物が流れ込んだとき、シュムペーターの著作はわれわれに、失っていたものを再び発見したような感じの喜びを与えてくれた書物の一つであった。(中略)それは、数限りない変奏曲として現われ、時には伴奏にほとんどかき消されながらも、決して消えてなくなりはしない人々の耳に聞こえ続けるような、繰り返し現れるテーマをめぐって作曲された一片の音楽を聞くに似ている。そのテーマとは、「資本主義は生き延びうるか。否、生き延びることはできない。社会主義はうまくいくか。もちろん、うまくいく」というものである。
まず初めにマルクスについての鮮やかな分析を行い、最後には社会主義政党の歴史といったようなテーマをめぐって深い考察がなされているが、このテーマはシュムペーターの音楽の核心をなしている。資本主義は衰えかけており、崩壊するはずである。そして社会主義が登場しつつあり、実のところ登場するはずである。資本主義はその失敗のゆえでなく、その度外れな成功のゆえに死滅することになろう。寄稿者の一人が述べているように、資本主義はその体内に生じたガンのためにではなく、不治のノイローゼ(繁栄というノイローゼ)によって死滅するであろう。気のふれた知識人たちを扱った「くずれ落ちる城壁」と題された高尚な章〔第二章〕は、予言が現実となった驚くべき状況を思い起こさせる。すなわち、1968年5月のパリ、アメリカの大学での暴動、西ヨーロッパの若者たちの間の不安感などである。かくして、社会主義の誕生は不可避となっている。(中略)
こうみてくると、シュムペーターの分析はマルクスの教義と大筋は一致しているように思えよう。結局のところ、資本主義から社会主義への必然的な移行が、予言者マルクスの主題であったし、シュムペーターが、マルクスの不朽の著作に対して大いに敬意を払ったことは明らかである。(中略)このことは、マルクスにかんする彼の見解を、ケインズに対する彼の態度と比べてみれば明白である。彼がケインズを大いに尊敬していたことは、『十大経済学者━━マルクスからケインズまで』に含まれている(中略)小論が証明している。しかし、ケインズの資質を心から称賛したあとでシュムペーターは、かなり当惑気味に次のように記している。「彼には子供がなく、彼のヴィジョンは本質的には短期の哲学であった。……実践的なケインズ主義は、外国の土壌には移し植えることのできない苗である。その苗は外国では枯死し、枯死する前に有毒となる」。
シュムペーターのマルクスについての本格的な取り組みようは、ケインズに対する場合と異なる。表面的な印象としては、彼はマルクスに同調しているようにみえるが、根本的な違いがある。マルクスの考えでは、歴史的な因果関係は、物的な下部構造(生産要素間の関係)から社会の知的、精神的な上部構造へと及ぶ。シュムペーターの場合には、因果関係は別の経路をたどる。(中略)精神的な上部構造の自破的なノイローゼが、物的な下部構造を破壊する。社会主義は確かに訪れるのだが、彼はそこにユートピアを期待していない。社会主義的な生産構造は、実際的な政治形態において、ファシスト的な特徴をもった制度という結果に終わることになろう。(中略)
(明日へ続きます……)
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本書は、非凡な人物の手になる比類なき著書についての、すぐれた論文集である。1942年に初版が上梓された『資本主義・社会主義・民主主義』は、経済学、社会学、政治学のなかで不滅の地位を得てきた書物の一つである。(中略)
それぞれ内容を異にする論文の執筆者たちにとっては、序論など不必要であろうし、また彼らの論文の要約を述べることも必要ではないように思われる。シュムペーターのこの書が刊行されてほぼ40年たったいま、依然として同書が大きな価値をもっていると彼らが考えているということだけでも、十分意義のあることである。ともかく学問の世界では、陳腐化は無慈悲でかつ急速に進む。その主張をすたれさせずに残しているのは、もっとも偉大な人物だけである。すなわち、スミス、リカード、マルクス、ケインズなどがその例である。私はシュムペーターの格付けを行うつもりはないが、彼の『資本主義・社会主義・民主主義』が初めて読まれた頃と同じほどに、今日なお人々を魅するものであることは明らかである。第二次世界大戦が終わったあと、長い間大西洋世界から切り離されていた西ヨーロッパ諸国にたくさんの出版物が流れ込んだとき、シュムペーターの著作はわれわれに、失っていたものを再び発見したような感じの喜びを与えてくれた書物の一つであった。(中略)それは、数限りない変奏曲として現われ、時には伴奏にほとんどかき消されながらも、決して消えてなくなりはしない人々の耳に聞こえ続けるような、繰り返し現れるテーマをめぐって作曲された一片の音楽を聞くに似ている。そのテーマとは、「資本主義は生き延びうるか。否、生き延びることはできない。社会主義はうまくいくか。もちろん、うまくいく」というものである。
まず初めにマルクスについての鮮やかな分析を行い、最後には社会主義政党の歴史といったようなテーマをめぐって深い考察がなされているが、このテーマはシュムペーターの音楽の核心をなしている。資本主義は衰えかけており、崩壊するはずである。そして社会主義が登場しつつあり、実のところ登場するはずである。資本主義はその失敗のゆえでなく、その度外れな成功のゆえに死滅することになろう。寄稿者の一人が述べているように、資本主義はその体内に生じたガンのためにではなく、不治のノイローゼ(繁栄というノイローゼ)によって死滅するであろう。気のふれた知識人たちを扱った「くずれ落ちる城壁」と題された高尚な章〔第二章〕は、予言が現実となった驚くべき状況を思い起こさせる。すなわち、1968年5月のパリ、アメリカの大学での暴動、西ヨーロッパの若者たちの間の不安感などである。かくして、社会主義の誕生は不可避となっている。(中略)
こうみてくると、シュムペーターの分析はマルクスの教義と大筋は一致しているように思えよう。結局のところ、資本主義から社会主義への必然的な移行が、予言者マルクスの主題であったし、シュムペーターが、マルクスの不朽の著作に対して大いに敬意を払ったことは明らかである。(中略)このことは、マルクスにかんする彼の見解を、ケインズに対する彼の態度と比べてみれば明白である。彼がケインズを大いに尊敬していたことは、『十大経済学者━━マルクスからケインズまで』に含まれている(中略)小論が証明している。しかし、ケインズの資質を心から称賛したあとでシュムペーターは、かなり当惑気味に次のように記している。「彼には子供がなく、彼のヴィジョンは本質的には短期の哲学であった。……実践的なケインズ主義は、外国の土壌には移し植えることのできない苗である。その苗は外国では枯死し、枯死する前に有毒となる」。
シュムペーターのマルクスについての本格的な取り組みようは、ケインズに対する場合と異なる。表面的な印象としては、彼はマルクスに同調しているようにみえるが、根本的な違いがある。マルクスの考えでは、歴史的な因果関係は、物的な下部構造(生産要素間の関係)から社会の知的、精神的な上部構造へと及ぶ。シュムペーターの場合には、因果関係は別の経路をたどる。(中略)精神的な上部構造の自破的なノイローゼが、物的な下部構造を破壊する。社会主義は確かに訪れるのだが、彼はそこにユートピアを期待していない。社会主義的な生産構造は、実際的な政治形態において、ファシスト的な特徴をもった制度という結果に終わることになろう。(中略)
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