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ロバート・アルドリッチ監督『ガン・ファイター』その2

2020-06-10 06:04:00 | ノンジャンル
 昨日、文芸雑誌『文學界』の最新号(2002年7月号)に掲載された、蓮實重彦先生の「ジョン・フォード論 第一章―Ⅲ そして人間」を読みました。一部こちらに転載させていただくと、

「それにしても、なぜ、この監督は、口をきかぬまま歩く━━あるいは、走りぬける━━男女の群れにキャメラを向けることにこれほど執着していたのか。その正確な理由はわからない。ただ、それぞれの作品において、その無言の歩行が素晴らしいアクセントを作品に導入していたことだけは、間違いない。
 これまで読まれたことからも明らかなように、フォードは、それぞれの作品において、複数の男女が、ものもいわずに、ある程度の距離を踏破することになる。なぜかという、その真の理由は誰にもわからない。だが「そして人間」と題されたこの段落が、いわゆる人間一般に関する抽象的な考察でないことだけは理解されたと思う。人間というものは、黙って歩く━━あるいは、走るものだ━━というきわめて特殊な状況を設定し、それが「不自然さ」に導かれることであろうと、それにふさわしいキャメラ・アングルを通してそれを描ききってみせるという奇態な監督こそが、ジョン・フォードという特異な映画監督なのである。」

 ジョン・フォード監督作品での行進といえば、私はまず『バッファロー大隊』のラストで疑惑が晴れた黒人兵が堂々と行進していく様や、『プリースト判事』でのラストで、フランシス・フォードが飛び入り参加するパレード(これは無言ではありませんが)が鮮やかに蘇ります。確かに蓮實先生の言うようにフォード映画では「行進」が大きなテーマになっているようですね。今後フォード映画を観る際、意識して観てみようと思いました。

 また同じ『文學界』に武田砂鉄さんも「時事殺し」と題するコラムを書いていました。これも面白いので、一部転載させていただきます。

「コロナ禍に便乗して通そうとした「検察庁改正案」や今国会での成立は断念されたが、その旨を発表する安倍首相は、「国民の皆様から様々なご批判があった」としたうえで、「そうしたご批判にしっかり応えていくことが大切なんだろうと思う」と他人事のように述べた。さすが、4月7日の会見でイタリア人記者から「(コロナ対応について)失敗だったらどういう風に責任をとりますか?」と問われ、「私が責任を取ればいいというものではありません」と返しただけのことはある。
『誰かの責任にする技術』というタイトルで新書を出せばベストセラーになると思う。なにせ、「批判にしっかり応える」のではなく、「批判にしっかり応えていくことが大切なんだろうと思っている」のである。「明日こそ、お風呂の鏡にこびりついた水アカを掃除することが大切なんだろうと思う」と発言した人が翌日掃除をする可能性は10%くらいだろう。」

 さて、昨日の続きです。

 メリッサは馬車を襲ってきた荒くれ者の1人を撃ち殺す。(中略)
 川に到着する一同。明日の朝一で川を渡ることにする。ベルはオマリーに「国境を越えなくても報酬を送れる」と言うが、オマリーは「考えとく」としか答えない。
 パーティ。メリッサはベルが16歳だった時に着ていたドレス姿で現れ、オマリーは瞠目する。
 「メキシコにとどまるなら、私もそうする」とオマリーに言うメリッサ。
 渡河。「日暮れに会おう」と約束するストリブリングとオマリー。(中略)
 ベルはオマリーに「国を出て。メリッサはあなたの娘よ」と言うと、オマリーは「嘘だ!」と言って、ベルを殴る。
 「荷造りを終えた」とオマリーに告げるメリッサ。オマリーは「俺は君より早く死ぬんだから、そうしたら新しい恋人を見つけてほしい。日暮れに戻る」と言う。
 決闘に及ぶストリブリングとオマリー。オマリーは倒れるが、彼の拳銃の弾倉は空だった。オマリーに駆け寄るメリッサに、オマリーに渡すように頼まれていたというサクラソウを渡すミルトン。オマリーを抱くメリッサの姿を俯瞰でカメラはとらえ、映画は終わる。

 詩人をカーク・ダグラスが演じるという珍しい映画でした。

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