今朝の東京新聞で、ブルーノ・ガンツさんの訃報にふれました。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』での彼の演技は忘れることができません。77歳、大腸ガンでの死とのこと。早すぎる死です。改めて追悼の意を表したいと思います。
さて、昨日の続きです。
・「どんな日本映画史の書物を開いても、作品のこと、作品をつくったがわのことばかりが記されているだけで、見るがわのことや作品の享受・消費については、まるで無視されている。(中略)そして、これが重要な点だが、フィルムが後世まで残るか残らないかということも、おそらくそうした事態と深く結びついているにちがいない。」
・「わたしは試写室で『KYOTO』を見て、いたく感動した。傑作だと思う。」
・「ならば、映画批評のほうはどうか? わたしの見るところ、日本はヒドイ状況にある。昨年、各種マスコミで映画評論家なるものが槍玉に上げられていたが、なかば当然だというほかない。いま、映画をめぐって氾濫している膨大な量の文章は、ほとんどすべて一般観客の感想と大同小異で、プロの批評と呼べないからである。」
・「小川(紳介)さんはヴィットリオ・デ・シーカの『ミラノの奇跡』(1950年)が大好きで、ミラノへ向かう列車のなかから、その映画のラストで登場人物たちが天使になってミラノの大聖堂の上を飛んでゆくシーンを猛烈な勢いでしゃべった。そして、ミラノの市街を歩き、大聖堂が近づくにしたがって興奮の度合を高め、その先端が見えるところへくるや、すぐにビデオを回しはじめるとともに、“ね、ね、あのあたりから、斜めに、天使が塔の上を飛ぶんだよね、こんな格好で、そうだよね”と、路上パフォーマンスをくりひろげた。むろんいよいよ大聖堂の前に立ったときには、もう大騒ぎで、興奮は絶頂に達し、ほとんど卒倒せんばかりになっていた。そんな小川さんの姿は、大聖堂の威容と匹敵するくらい、感動的だった。」
・「香港のチョウ・ユンファの出演映画を見るたびに、こんなふうに素敵な俳優がどうして日本から出てこないのかなあと、いつも羨ましくなってしまう。」
・「(香港映画祭で)わたしの見たもののなかでは、フリッツ・ラングの『Fighting Hearts』(英語題名・1920~21年)がとりわけ素晴らしかった。」
・「どう甘く見ても、現在つくられている日本映画の9割は30分ほど長すぎる。1時間半でいいのに、どういうわけか3時間の長尺に伸ばされているわけで、当然ながらそれだけ製作費も高くつくことになるし、無用の長さの結果、作品の質も低下せざるをえない。そこで観客にそっぽを向かれる。つまり逆にいえば9割の作品について30分のカットを断行するなら、経済的に助かったうえに、作品の質的向上も実現できて、観客の増加を認めさますよ、ということになる。」
・「先述のように、吉田プロデューサーは東映やくざ映画の、黒澤プロデューサーは日活アクションの現場から出発した。つまり大量生産のプログラム・ピクチャー時代を生き抜いてきたということである。その二人を中心に十人ほどのプロデューサーによって企画・製作される東映Vシネマは、ニューメディア時代のプログラム・ピクチュアと呼ぶことができるかもしれない。」
・「いま、日本映画界でもっとも切実に必要とされているのは、大胆な発想を実現できるプロデューサーである。つねづねそう思っているわたしにとっては、荒戸源次郎に注目せずにはいられない。」
・「製作費二億五千万円の『鉄拳』の場合、個人や企業から集めた資金のうち、まず10パーセントを荒戸事務所が経費として受け取り、残りの二億二千五百万を製作実費にして現場を仕切ってゆく。現場には予算オーバーを15パーセントで認め、出資者から集めるが、それ以上にオーバーしたものは事務所が持つ。こうして映画が完成して公開されたなら、配給収入から製作費や配給経費などを引いたあと、純利益は30パーセントが監督・脚本家を含む製作者がわに配分され、70パーセントが出資額に応じて出資者たちに分配される。(中略)映画製作といえば、ドンブリ勘定で明細不明なのがこれまでの常態であるが、荒戸プロデューサーはそれをガラス張りにしようというのである。」
・「中井貴一にとって、今回の『極道戦争・武闘派』は、俳優生活11年目、ちょうど20本目の作品になる。『子どものころから映画に接してきたし、もっと何本もやりたいんですが、、脚本(ホン)を読ませてもらっても、共感できるものが少ない。共感できたら、周りの百人が反対しても、自分はやるつもりです』」
・「しかしいずれの作品でも、強烈なドラマ性に裏打ちされてこそ、マイナス人間どもの生と死が感動的に表現されてやまない。そうした勢いが、『狂った野獣』『やくざ戦争・日本の首領(ドン)』『総長の首』など70年代後半のめざましい作品群につながってゆく。ところが80年代にはいって、残念ながら中島貞夫は失速し、混迷のなかをさまようことになる。(中略)そして、いま、ベテラン中島貞夫はあらためて挑戦心に燃えている。」(また明日へ続きます……)
さて、昨日の続きです。
・「どんな日本映画史の書物を開いても、作品のこと、作品をつくったがわのことばかりが記されているだけで、見るがわのことや作品の享受・消費については、まるで無視されている。(中略)そして、これが重要な点だが、フィルムが後世まで残るか残らないかということも、おそらくそうした事態と深く結びついているにちがいない。」
・「わたしは試写室で『KYOTO』を見て、いたく感動した。傑作だと思う。」
・「ならば、映画批評のほうはどうか? わたしの見るところ、日本はヒドイ状況にある。昨年、各種マスコミで映画評論家なるものが槍玉に上げられていたが、なかば当然だというほかない。いま、映画をめぐって氾濫している膨大な量の文章は、ほとんどすべて一般観客の感想と大同小異で、プロの批評と呼べないからである。」
・「小川(紳介)さんはヴィットリオ・デ・シーカの『ミラノの奇跡』(1950年)が大好きで、ミラノへ向かう列車のなかから、その映画のラストで登場人物たちが天使になってミラノの大聖堂の上を飛んでゆくシーンを猛烈な勢いでしゃべった。そして、ミラノの市街を歩き、大聖堂が近づくにしたがって興奮の度合を高め、その先端が見えるところへくるや、すぐにビデオを回しはじめるとともに、“ね、ね、あのあたりから、斜めに、天使が塔の上を飛ぶんだよね、こんな格好で、そうだよね”と、路上パフォーマンスをくりひろげた。むろんいよいよ大聖堂の前に立ったときには、もう大騒ぎで、興奮は絶頂に達し、ほとんど卒倒せんばかりになっていた。そんな小川さんの姿は、大聖堂の威容と匹敵するくらい、感動的だった。」
・「香港のチョウ・ユンファの出演映画を見るたびに、こんなふうに素敵な俳優がどうして日本から出てこないのかなあと、いつも羨ましくなってしまう。」
・「(香港映画祭で)わたしの見たもののなかでは、フリッツ・ラングの『Fighting Hearts』(英語題名・1920~21年)がとりわけ素晴らしかった。」
・「どう甘く見ても、現在つくられている日本映画の9割は30分ほど長すぎる。1時間半でいいのに、どういうわけか3時間の長尺に伸ばされているわけで、当然ながらそれだけ製作費も高くつくことになるし、無用の長さの結果、作品の質も低下せざるをえない。そこで観客にそっぽを向かれる。つまり逆にいえば9割の作品について30分のカットを断行するなら、経済的に助かったうえに、作品の質的向上も実現できて、観客の増加を認めさますよ、ということになる。」
・「先述のように、吉田プロデューサーは東映やくざ映画の、黒澤プロデューサーは日活アクションの現場から出発した。つまり大量生産のプログラム・ピクチャー時代を生き抜いてきたということである。その二人を中心に十人ほどのプロデューサーによって企画・製作される東映Vシネマは、ニューメディア時代のプログラム・ピクチュアと呼ぶことができるかもしれない。」
・「いま、日本映画界でもっとも切実に必要とされているのは、大胆な発想を実現できるプロデューサーである。つねづねそう思っているわたしにとっては、荒戸源次郎に注目せずにはいられない。」
・「製作費二億五千万円の『鉄拳』の場合、個人や企業から集めた資金のうち、まず10パーセントを荒戸事務所が経費として受け取り、残りの二億二千五百万を製作実費にして現場を仕切ってゆく。現場には予算オーバーを15パーセントで認め、出資者から集めるが、それ以上にオーバーしたものは事務所が持つ。こうして映画が完成して公開されたなら、配給収入から製作費や配給経費などを引いたあと、純利益は30パーセントが監督・脚本家を含む製作者がわに配分され、70パーセントが出資額に応じて出資者たちに分配される。(中略)映画製作といえば、ドンブリ勘定で明細不明なのがこれまでの常態であるが、荒戸プロデューサーはそれをガラス張りにしようというのである。」
・「中井貴一にとって、今回の『極道戦争・武闘派』は、俳優生活11年目、ちょうど20本目の作品になる。『子どものころから映画に接してきたし、もっと何本もやりたいんですが、、脚本(ホン)を読ませてもらっても、共感できるものが少ない。共感できたら、周りの百人が反対しても、自分はやるつもりです』」
・「しかしいずれの作品でも、強烈なドラマ性に裏打ちされてこそ、マイナス人間どもの生と死が感動的に表現されてやまない。そうした勢いが、『狂った野獣』『やくざ戦争・日本の首領(ドン)』『総長の首』など70年代後半のめざましい作品群につながってゆく。ところが80年代にはいって、残念ながら中島貞夫は失速し、混迷のなかをさまようことになる。(中略)そして、いま、ベテラン中島貞夫はあらためて挑戦心に燃えている。」(また明日へ続きます……)