東京国立近代美術館フィルムセンターが発行した「NFCニュースレター・第30号」に載っていた、高橋義人さんの論文『ナチズム前夜のフリッツ・ラング』をこちらに転載させていただきたいと思います。
「ヨーロッパには古来から魔法円の迷信がある。描かれるのは円かペンタグラムで、この円のなかに入っていれば、人は悪魔や悪霊から身を守ることができるが、自分のいる円のなかに悪魔が入れば、悪魔によってずたずたにされてしまうという迷信である。この魔法円と覚しきものがラングの映画には時々出てくる。たとえば『ドクトル・マブゼ』(1922)には、降霊術の会で人々が手をつないで円をつくり、円のなかに霊を呼び出す場面が出てくる。円であることを示すために、ラングはテーブルを上方から撮影している。ラングの映画で円のモティーフは、非現実や幻想を表すために用いられることが多い。たとえばラングのハリウッド時代の作品『青いガーディニア』(1953)では、主人公の女性が眩暈を起こして倒れるときに、渦巻きのモティーフが現れる。『ドクトル・マブゼ』では画面の周辺がしばしば円形に縁どられる。木下恵介の『野菊の如き君なりき』で画面が卵形の円で白く囲まれるのは美しい回想シーンだったが、『ドクトル・マブゼ』の場合、円形の縁どりは、この円のなかにいる登場人物がマブゼの恐ろしい魔法の虜になっていることを示している。たとえばマブゼの敵である検察官ヴェンクは、マブゼの扮する魔術師ヴェルトマンのショーにおいてマブゼに魔法をかけられ、夢うつつの状態になってショーの会場を出てゆくが、このときも画面は円形に縁どられている。
ラングの最初のトーキー作品『M』(1931)の冒頭にも魔法円が出てくる。円陣を組んでいるのは子どもたちで、その中央にいる女の子が、いま話題になっている殺人鬼について、『今度襲われるのは誰?』と指を指す。魔法円はここでも不吉なモティーフをなしている。この映画の後段では、魔法陣は円形ではなく、菱形になって現れる。連続少女殺しの変質者Mを警察とギャングの双方が追いつめる。Mとは殺人者(中略)の頭文字である。Mが通りを歩いている少女を見つけ、殺意を抱くとき、彼の顔は店のショーウインドーのなかの飾りの反射によって菱形に囲まれる。この菱形については諸説あり、たとえばG・ゼスレンは(中略)、ラングにとって四角形は男性的な原理、円は女性的な原理を表わすと主張している(中略)。しかし果たしてそう言えるだろうか。菱形に囲まれたとき、Mは自分でもどうしても制御できない殺人欲に駆られるのであり、菱形は魔法円と同じく、魔的な力を示していると考えるべきではあるまいか。
Mは気の弱い内向的な中年男であり、彼はその気の弱さや内向性や変質癖ゆえに、魔的な力に捉われる。他方、ドクトル・マブゼは自ら魔的な力をふるって、人々を操ることができる。そこにマブゼとMの違いがある。そのマブゼの魔的な力は、彼の異様な眼差しによって表されている。トランプで賭事をしているとき、マブゼに睨みつけられた相手はその眼力に気圧され、勝てる手を持っているにもかかわらず、勝負を投げ出してしまう。マブゼの眼差しはまことに不気味である。だが、ヨーロッパの観客のなかには、マブゼのこの眼差しが何であるか、直覚する人が多いだろう。それは邪悪な眼差し(中略)と呼ばれるものだ。魔女狩りが猖獗をきわめた16、17世紀では、邪悪な眼差しは彼女の第一の特徴をなすものと考えられていた。グリム童話には記されていないにもかかわらず、後世の人々は、魔女から逃れようとした二人の兄妹は、魔女の邪悪な眼差しによって金縛りにあい、逃げることができなかったと解したのである。
魔女が悪事をはたらくことができるのは、悪魔から邪悪な眼差しを授けられているからである。そしてマブゼもそのような眼差しを有しているからこそ、人々の心を自由に操ることができる。マブゼばかりではない。『ニーベルンゲン』(1924)の第二部『クリームリヒトの復讐』の主人公クリームリヒトもそうだ。夫ジークフリートを殺された彼女は、復讐の念に燃えて、邪悪な眼差しで部下のフン族を睨みつける。すると、部下たちはクリームリヒトの親族であるニーベルング族を襲い始め、フン族とニーベルング族のあいだに血なまぐさい戦闘が繰り広げられる。画面にはおびただしい数の死者が映し出される。ラングは明らかに、ジークフリートの死をオーストリア皇太子の暗殺に、フン族とニーベルング族の戦いを第一次大戦に重ねあわせている。ジークフリートが殺されなければ、クリームヒルトの凄惨な復讐劇は起きなかったであろう。そしてオーストリア皇太子が暗殺されなければ、第一次大戦は回避できたにちがいない。(中略)(明日へ続きます……)
「ヨーロッパには古来から魔法円の迷信がある。描かれるのは円かペンタグラムで、この円のなかに入っていれば、人は悪魔や悪霊から身を守ることができるが、自分のいる円のなかに悪魔が入れば、悪魔によってずたずたにされてしまうという迷信である。この魔法円と覚しきものがラングの映画には時々出てくる。たとえば『ドクトル・マブゼ』(1922)には、降霊術の会で人々が手をつないで円をつくり、円のなかに霊を呼び出す場面が出てくる。円であることを示すために、ラングはテーブルを上方から撮影している。ラングの映画で円のモティーフは、非現実や幻想を表すために用いられることが多い。たとえばラングのハリウッド時代の作品『青いガーディニア』(1953)では、主人公の女性が眩暈を起こして倒れるときに、渦巻きのモティーフが現れる。『ドクトル・マブゼ』では画面の周辺がしばしば円形に縁どられる。木下恵介の『野菊の如き君なりき』で画面が卵形の円で白く囲まれるのは美しい回想シーンだったが、『ドクトル・マブゼ』の場合、円形の縁どりは、この円のなかにいる登場人物がマブゼの恐ろしい魔法の虜になっていることを示している。たとえばマブゼの敵である検察官ヴェンクは、マブゼの扮する魔術師ヴェルトマンのショーにおいてマブゼに魔法をかけられ、夢うつつの状態になってショーの会場を出てゆくが、このときも画面は円形に縁どられている。
ラングの最初のトーキー作品『M』(1931)の冒頭にも魔法円が出てくる。円陣を組んでいるのは子どもたちで、その中央にいる女の子が、いま話題になっている殺人鬼について、『今度襲われるのは誰?』と指を指す。魔法円はここでも不吉なモティーフをなしている。この映画の後段では、魔法陣は円形ではなく、菱形になって現れる。連続少女殺しの変質者Mを警察とギャングの双方が追いつめる。Mとは殺人者(中略)の頭文字である。Mが通りを歩いている少女を見つけ、殺意を抱くとき、彼の顔は店のショーウインドーのなかの飾りの反射によって菱形に囲まれる。この菱形については諸説あり、たとえばG・ゼスレンは(中略)、ラングにとって四角形は男性的な原理、円は女性的な原理を表わすと主張している(中略)。しかし果たしてそう言えるだろうか。菱形に囲まれたとき、Mは自分でもどうしても制御できない殺人欲に駆られるのであり、菱形は魔法円と同じく、魔的な力を示していると考えるべきではあるまいか。
Mは気の弱い内向的な中年男であり、彼はその気の弱さや内向性や変質癖ゆえに、魔的な力に捉われる。他方、ドクトル・マブゼは自ら魔的な力をふるって、人々を操ることができる。そこにマブゼとMの違いがある。そのマブゼの魔的な力は、彼の異様な眼差しによって表されている。トランプで賭事をしているとき、マブゼに睨みつけられた相手はその眼力に気圧され、勝てる手を持っているにもかかわらず、勝負を投げ出してしまう。マブゼの眼差しはまことに不気味である。だが、ヨーロッパの観客のなかには、マブゼのこの眼差しが何であるか、直覚する人が多いだろう。それは邪悪な眼差し(中略)と呼ばれるものだ。魔女狩りが猖獗をきわめた16、17世紀では、邪悪な眼差しは彼女の第一の特徴をなすものと考えられていた。グリム童話には記されていないにもかかわらず、後世の人々は、魔女から逃れようとした二人の兄妹は、魔女の邪悪な眼差しによって金縛りにあい、逃げることができなかったと解したのである。
魔女が悪事をはたらくことができるのは、悪魔から邪悪な眼差しを授けられているからである。そしてマブゼもそのような眼差しを有しているからこそ、人々の心を自由に操ることができる。マブゼばかりではない。『ニーベルンゲン』(1924)の第二部『クリームリヒトの復讐』の主人公クリームリヒトもそうだ。夫ジークフリートを殺された彼女は、復讐の念に燃えて、邪悪な眼差しで部下のフン族を睨みつける。すると、部下たちはクリームリヒトの親族であるニーベルング族を襲い始め、フン族とニーベルング族のあいだに血なまぐさい戦闘が繰り広げられる。画面にはおびただしい数の死者が映し出される。ラングは明らかに、ジークフリートの死をオーストリア皇太子の暗殺に、フン族とニーベルング族の戦いを第一次大戦に重ねあわせている。ジークフリートが殺されなければ、クリームヒルトの凄惨な復讐劇は起きなかったであろう。そしてオーストリア皇太子が暗殺されなければ、第一次大戦は回避できたにちがいない。(中略)(明日へ続きます……)