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吉田喜重『小津安二郎の反映画』

2013-09-17 06:30:00 | ノンジャンル
 吉田喜重さんの'98年作品『小津安二郎の反映画』を読みました。
 「結び 限りなく開かれた映像」から引用させていただくと、「小津さんの映画を語ることは、たしかに容易ではない。語りたいという欲望を誰しもが抱きながら、かえってそのことの難しさに深く傷つき、ついにはなにごとも語ったこととはならない。小津さんらしいという同語反復的な表現にたよらざるをえなかっただろう。(改行、中略)それが徒労であることをじゅうぶん知りながら、春の野の逃げ水を追うかのように小津さんの映画について語り、わたし自身こうした記述を試みてきた。もちろん他人でしかないわたしに、小津さんの内面といったものが把握できると信じるのであれば、それほど愚かな自負もなかっただろう。われわれの俗なる凡庸さを愛した小津さんであれば、そうした人間の思い上がりを失笑したに違いない。(改行)だが生前における小津さんとの、あの二度の思い出がそうさせるのだろうが、わたし自身が小津さんの亡くなった年齢に行きつくのを待つようにして、こうした記述を始めたのである。みずからの老いと戯れ、しかも死をも諧謔のうちに受け入れようとした晩年の小津さんであれば、わたし自身がそれと同じ年齢に達しないかぎり、その作品についてなにも語りえないように思えたからであった。(改行)そしていま5年に近い歳月が過ぎ去り、これだけ長い時間をいつしか費やしてしまったのは、小津作品について語ることが至難だというだけではなく、いつまでも語りつづけたいという気持ちがわたし自身のなかで強く作用したからに違いない。(改行)もし語りつくしてしまえば小津さんの映画は、あるかなきかに揺らめく春の逃げ水のように、もはや彼方に遠ざかることもなく、わたし自身の言葉によって捉えられ、独自に読み解かれるあまり、その映像は自由を奪われて息も絶えだえにわれわれの前に横たわるだけだろう。(改行)従って小津作品について記述することは、それを終わりなきものとして限りなく語りつづけながら、そのことをみずから楽しむしかなかった。事実、ひとつの映像について解読ができたとしても、ただちに相反する解読が思いあたるといった反復とずれこそが、その作品を見ることの至福にも似た歓びにほかならなかったのである。(改行)それにしても小津さんの映画がただならぬものであり、きわめて難解に感じられるとすれば、それは映画の表現しようとしていること自体が理解に苦しむからではなかった。むしろいずれの作品も平明すぎるとしか言いようのない家族ドラマであり、結婚による父と娘の離別といったストーリーが伝えようとする意味は、誰しもが迷わずに把握できるものであった。だがそれを表現する手立てとなると、われわれはその底知れない異様さに戸惑い、足もとをすくわれでもしたような不安感を抱かざるをえなかったのである。そしてなぜ小津さんがこうした気の許せない、歪みのある表現方法にこだわるのか、その真意があまりにも不明であることが、作品を限りなく難解にしていると言うほかない。(改行)しかしながら小津さんの映画を支えている独自な手法といったものを語ることは、さほど難しいことではなかっただろう。おびただしい反復とずれに徹した描写、あえて凡庸さを示すかのような並列的に接続された筋立て、ロー・ポジションに位置づけられたカメラ、正面を向きながら不自然なまでに視線を宙に漂わす俳優、感情のリズムを封じられてモノローグ風に語られる科白。だがこうした指摘がその作品について、どれほどのことを語ったことになるというのだろうか。(改行)たしかにこうした小津さんらしいとしか言いようのない表現は、多くの映画監督が求める美の感覚、リアリティの獲得、劇的なカタルシスへの到達、そして観客自身による感情移入といった、映画の魅惑と陶酔をもたらす手立てを壊しかねないものであった。そうした危険をじゅうぶん知りながら、なぜ小津さんは映画の文法に背を向け、その異化をはかろうとする負の表現にこだわりつづけたのだろうか。たえずおだやかな家族ドラマを作ることのみを考えいる、もっとも保守的な人であると思われる小津さんが、なぜこのようなただならぬ表現を試みつづけるのか、それはついに解きえない謎と言うほかなかったのである。(後略)」
 とうことで、私は最初の数十ページを読んだところで、先を読むのを断念してしまいました。蓮實先生の文章をさらさらと読める方なら楽しめる本だと思います。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto