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吉田喜重監督『煉獄エロイカ』

2013-09-12 06:44:00 | ノンジャンル
 先日WOWOWライブで、「洋楽ライブ伝説 100回記念スペシャル ポール・マッカートニー&ウイングス ロックショウ」と題して、'76年に全米で行われたツアーが放映されていました。ウイングスは'73年にアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』を、'75年にはアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』を発表していて、私は当時、14歳、15歳、そして放映されたライブが行われていた時には16歳と、洋楽にはまりつつあった年齢であったことを再認識しました。幸福な時代に育ったことを感謝したいと思います。

 さて、吉田喜重監督・共同製作・共同脚本の'70年作品『煉獄エロイカ』をDVDで見ました。
 解説書からそのまま引用させていただくと、「前作『エロス+虐殺』において、性愛における所有関係を否定することから政治における権力関係を否定する道を探った吉田が、1970年現在の政治運動を前面に置いて、そこにおける権力関係を批判的に検証しようとしたのが本作である。そして、前作で採った、大正5年と1969年を対照させつつ相互に浸透し合うような(たとえば、伊藤野枝が新幹線で上京したり、新宿西口広場の上に立つ野枝と永子が、尺八の音とともに深編み笠の辻潤が子どもを連れて旅している姿を見るというような)、時空を大胆に往還する手法をさらに徹底させ、1970年と1952年と1980年という現在、過去、未来にわたる三つの時間を往還してみせたのである。(改行)物語は、1970年の反戦グループのアメリカ大使誘拐計画に、1952年の前衛党における同様の計画とその挫折、それに伴うスパイ摘発の査問委員会などが重ねられ、さらにそれを1980年という未来から見返すというように組み立てられているのだが、興味深いのは、岡田茉莉子演じる夏那子という女性である。彼女は、この三つの時制のすべてに関わる庄田力弥(鵜田貝造)の妻でありながら、政治的な事件とは直接に関係することなく、それを外側から見ている存在であるからだ。その一方で、彼女は、アユという少女に『母』としてつきまとわれるのだから、その点で、前作の『母の母の母』の延長上にある存在といってもいいだろう。しかし、映画は、岡田の視線を捉えるところから始まることによって、彼女に、物語の内部に半身を置きながら同時にその物語全体を見るという位置を振り当てているといえよう。(改行)これに対して、物語の内側から見ているのが岩崎加根子演じる前衛党の女である。彼女は、1952年夏の大使誘拐の計画変更に反対し、のちに査問委員会にかけられたりするのだが、男たちの視線に囲まれながらも、常に彼らを見返しているのだ。そのような2人の女の視線のなかで、男たちの政治劇が演じられていくというのが、この映画の基本的な構造である。観客は、岡田の視線に同調しながらそれを見ると同時に、その内部から見ている岩崎の視線によって見返されているといってもいいだろう。(改行)男たちが演じているのは、組織の外の敵を確定することと、組織内部の敵を摘発することだ。それは、1952年も70年も変わりない。そして1980年においては、それらすべてが一掃される。それが吉田が意図したようなファルス(笑劇)として成功しているかどうかはともかく、首を吊られて宙づりになった庄田の姿や、何度か下ろされるシャッターや、区画整理される前の淀橋浄水場の跡地とか団地が造成される前の高島平あたりの白くとんだ風景や、無人の駅などを捉えたショットが、忘れがたい記憶として残る。」
 なぜ解説書からそのまま引用させていただいたかというと、あらすじを追おうにも、ショットが断片的過ぎて追うことができず、映画を紹介したことに全くならなかったからです。画面構成はここでもとても凝っていて、極端な縦の構図、俯瞰、仰角、室内での滑らかな移動撮影とパンなど、見どころはたくさんあります。また鏡が多用されているのも、この映画の特徴でしょう。あらすじを追うことなく、ただ目の前に展開する画面を目で追うというのが、この映画の最良の鑑賞法なのかもしれません。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto