gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

スーザン・レイ編『わたしは邪魔された ニコラス・レイ映画講義録』

2013-09-09 04:23:00 | ノンジャンル
 一昨日、霞ヶ関の弁護士会館で行われた「奥西勝 半世紀の叫び」というイベントに参加してきました。名張毒ぶどう酒事件に関して、映画『約束』の上映と、その映画に奥西勝さんの母役で出演した樹木希林さん、『約束』の監督・齋藤潤一さん、名張事件弁護団長の鈴木泉さん、そして司会者として江川紹子さんによるパネルディスカッションも行われましたが、明らかな冤罪の事件なのに、何度も再審請求を棄却する裁判官の無責任さに呆れました。今年になって一時危篤状態になった奥西さんの健康が気遣われます。

 さて、蓮實重彦先生が推薦している、スーザン・レイ編の'93年作品『わたしは邪魔された ニコラス・レイ映画講義録』を読みました。
 訳者後記から引用させていただくと、「本書はI Was Interrupted : Nicholas Ray on Making Movies (Berkeley and Los Angeles : University of California Press, 1993)の全訳である。(中略)また原書に収められているもの以外の写真も編纂者スーザン・レイさんが送ってくれたので、取捨選択の結果、原書とは若干異なる写真構成となっているが、原書よりも写真の総点数はふえている。(中略)ハリウッドから欧州に製作拠点を移して何本かのフィルムの完成と未完成に立ち会ったのち、ニコラス・レイはふたたびアメリカにもどり、その死後、本書の編纂を引き受けることになる40歳年下のスーザンと出会い、そして結婚する。実際、レイの晩年は若いひとびとによって彩られた。彼は若いひとびとを支え、そして若いひとびとによって支えられた。レイはニューヨーク大学やニューヨーク州立大学ビンガムトン校などで学生たちの指導にあたりながら彼らと映画の共同製作をし、そのときの講義と演習の模様が本書の中核を形成することになる。しかし本書はたんに不世出の映画作家がのこした珠玉の講義録というにとどまらない。それはちょうど『理由なき反抗』が50年代当時流行していた『青少年犯罪もの』の範疇を超え、ハリウッドのファミリー・メロドラマというジャンルにまったく新しい(しかも無気味な)可能性を切り拓き、それゆえ80年代のデイヴィッド・リンチの出現まで予告してしまったように、本書はたんに未来の映画作家、未来の劇作家、そして未来の俳優たちのためにだけ書かれたものではない。(改行)本書は(製作と演技と演出の実際を学生たちに教える)映画講義録であると同時に、晩年を迎えたある不世出の映画作家の自伝の試みであり(それは彼の少なからぬフィルム同様、けっして完成することはない)、(アル中と末期癌を相手にした凄絶な)闘病記であり、生涯、情熱の炎をたやすことのなかった(しかし一瞬たりとも自己憐憫に陥ることのない)ロマンティストの愛の告白記であり、要するに人生と芸術を区別して生きることをしなかった男の記録である。したがってここには凡百の自伝につきものの、自己肯定や人生の教訓など微塵も存在しない。本書は編年体でつづられた秩序だった物語とは無縁であり、本書の作者が演出した傑出したフィルム同様、本書は混沌とした生きることの葛藤の現在そのものに満たされた書物である。本書の読書が本書の作者がのこしたフィルムから得るのと同じ感動を、あるいはそれ以上の感動を本書から得る(であろう)ゆえんである。(改行)編纂者スーザン・レイの言葉を借りれば、『ニックにとって教えることと生きることは同じだった。みずから混沌のなかへ飛び込んで自分の道を見つけ、学生にも(ということは本書の読者にも)同じことをするよう期待した。その期待に応えた学生は多く、みんな立派な監督やプロデューサー、編集者、脚本家、それに舞台や映画の俳優になった』。彼女も言うように、本書はどのように読まれるにせよ、なによりもまずある旅について書かれた書物として読まれねばならない。誰もが映画を撮るわけでもなければ、誰もが演劇の仕事をするわけではない。しかしすべての人間は旅人である。だとすれば、どんあにおおまかな地図であっても、本書は旅の良き案内書となるはずである。」
 460ページ余りの大著ですが、内容に関しては難解で、分かったことと言えば、役者がアクションを起こす前にバックストーリーを考えておかなければならない、といった程度のことに留まりました。ただ、闘病記としては読みごたえがあり、レイ監督の生の最後のきらめきを見て取ることのできる本でした。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto