急に暖かくなり、もう春になったのかと驚くような日々に微睡みを堪えています。
大学も課題を全て出し終わったので、名実ともに春休みが訪れました。
授業一コマにつき、予習・復習が3時間必要なんだそうです。
後期に受講していたある授業は、この2年間で1番苦労しました。
毎週課題が出されていたのですが、ひとつに5時間はかかったし、
最終課題は10時間ほどかかりました。
比喩でもなんでもなく半泣きになりながらこなした課題は、
なるほど、予習・復習の必要な時間を十分すぎるまでに熟させているな、
なんて教授の手腕に感動しつつ恨みつつなんとか提出しました。
成績発表は1ヶ月ほど先ですが、これで単位が取れていなかったら……。
杞憂で済んでくれよと祈るばかりです。
さて、そのように苦労した課題にて取り上げていた
セルフアイデンティティについてお話していきたいと思います。
現代社会において私たちは、「お前の価値はなんだ」と色々な形で問われ、
価値を示すために奔走しています。
入試も、入社試験でも、面接にて「あなたの強みはなんですか?」と、
自分の価値、特に他人にはない自分だけの価値を求められている中で、
自分とはいったいなんだろう?と見失うこともあるのではないでしょうか。
お前の代わりはいくらでもいるのだと脅迫してくる社会の中で生まれた、
誰とも比べられたくないという苦しみは非常にタチの悪い苦しみだと思います。
だって、比べられないために1人になろうとしても、
人間は1人では生きていけないから。
そして、1人では生きていけないからこそ、
セルフアイデンティティは確立されるからです。
自分という存在の価値は集団の中で生まれます。
それは競走ではなく、共存としてうまれるのです。
人間は、ひとりでは生きていけません。
衣食住全て他者の存在ありきで得ることの出来る恩恵であり、
それぞれ助け合って社会で暮らしています。
今の余裕のない社会において、
この助け合って生きているという感覚は、
どこか遠いものになっているように感じます。
自分という存在の価値は、他者との支え合い、補い合いの中でうまれる。
そう思うと、強く生きることを強いられていると思うより、
ずっとずっと楽に生きていけるのではないでしょうか。
「人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、
それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている。」
この言葉の意味を、よく噛みしめようと思います。
(光村図書「誰かの代わりに」鷲田清一より)
下田校 ゆみでした