我、再び駆ける。

ADV150・MT-03・4D9マジェスティなどを購入したことから、これらのバイクについて紹介していくブログです。

こんな本を買ってしまいました。

2013年08月31日 | 鉄道
先日、ジュンク堂で「兵庫の鉄道廃線を歩く」なんて本を買ってしまいました。この本はタイトルのとおり、現在は廃線となった兵庫県内の鉄道を紹介するものです。

いくつか紹介しましょう。先ずは、以前にもこのブログで紹介したことがある「銀の馬車道」です。この「銀の馬車道」は明治時代に生野から姫路まで銀鉱石を運んでいた鉄道ですが、「馬車道」という名のごとく馬車で運んでいたものです。



しかし「本当にレールはあったのか?」というのが疑問でした。ひょっとして単に道路では?とも思っていたのですが、この写真をみればレールがあったことは明らかですね。本当に馬が引く鉄道でした。



次に「淡路鉄道」です。淡路島に鉄道が走っていたのは知っていましたが、電化されていない気動車と思いきや何と電車だったんですね。洲本から南淡町の福良港までの路線でした。



この本には現在の状況も紹介されています。とりあえず高砂線や三木鉄道、それに鍛冶屋線の跡を巡るツーリングに行きたいと思っています。
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閉館前の明石東宝で、映画「少年H」を観てきました。

2013年08月28日 | 日常の出来事
先日、家内と映画「少年H」を観てきました。映画館は地元明石の明石東宝です。この明石東宝は駅前再開発の関係で、この秋には閉館します。そんなところで今回が最後の入館となるでしょう。

階段の踊場には、上映中の映画の写真が掲示されています。子供の頃、上映前に見入っていたものです。



チケット売場は、まるでパチンコ屋さんの景品交換所のような感じです。



入口でチケットを半分にする「もぎり嬢(おばちゃん)」さんがおられます。



半分にされたチケットです。昔のチケットそのものですね。



スクリーン外の休憩スペースには今でもちゃんと灰皿が置かれ、昔の映画館そのものです。



スクリーンは小さく座席数も少ないです。ちなみに明石東宝は「入替」なんてセコイことはありません。途中入場も可能ですし、何度でも観ることができます。



さて「少年H」ですが、★★★★☆でした。神戸空襲の場面は怖かったですね。焼夷弾の前にはバケツリレーの消火なんて無意味であったことが分かります。また昔の神戸の街並みが素晴らしかったです。写真と予告編をどうぞ。






この明石東宝ですが、その昔、亡くなった父に連れられてゴジラ映画をよく観にいきました。一時期、明石には今回の東宝の他に、東映(夏休みのまんが祭)・松竹(大映映画も上映。ガメラを観に行きました)・白鳥座(洋画中心。十戒なんて観ました))・日活(黒部の太陽やガッパを観に行きました)・明石パレス(洋画)があったのですが、東宝が閉館すると日活のみになりますね。
何か、どんどんと思い出の場所が消えて行きます。時代の流れかもしれませんが、寂しい限りです。
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北近畿タンゴ鉄道に乗ってきました。

2013年08月24日 | 鉄道
先日、青春18きっぷを使い豊岡まで行き、短い区間ですが北近畿タンゴ鉄道に乗ってきました。明石駅から新快速で姫路駅まで乗り、姫路駅から播但線・寺前駅で気動車に乗換えて到着したのは和田山駅です。

私が大好きなキハ40系です。生野峠では、ディーゼルエンジンを唸らせながらゆっくりと登っていました。



和田山駅からは、10:46発の城崎温泉行に乗換えます。



豊岡駅に到着です。ここで北近畿タンゴ鉄道のホームに向かいます。



北近畿タンゴ鉄道のホームと駅名標です。北近畿タンゴ鉄道は、かってのJR宮津線です。






私が乗った普通列車です。一両編成の気動車ですね。車体にはコウノトリが描かれています。









車内です。トイレ付のベンチシートです。



車内には、こんな「お詫び」が・・・「うちわ」というのが悲しいです。ウィキによると、北近畿タンゴ鉄道は、2009年度現在、日本の第三セクター鉄道の中で一番赤字額が大きい路線だそうです。



帰りの接続時間との関係で、久美浜駅まで行きました。豊岡駅からは、2区間・15分少々で久美浜駅に到着です。久美浜駅の駅名標ですが、電柱駅名標の方が味わいがあります。






趣のある立派な駅です。



久美浜駅は京都府になるんですね。



駅構内にはラッセル車が停まっていましたが、冬場までお休みです。



改札口にあった運賃表です。久美浜駅から大阪駅へは、播但線による姫路経由よりも福知山経由の方が安価です。



外から見ても久美浜駅は立派ですね。歴史を感じる駅舎です。



駅前にはこんな郵便ポストがありました。






駅前のメインストリートです。一軒のお店もありません。



時間の関係で、久美浜駅滞在は20分ぐらいでした。再び豊岡駅に向かいます。動画でどうぞ。



動画を見られると、車内のカーテンが車外に出ているのがお分かりかと思います。そうです。クーラーが壊れているので窓を開けているのです。でも「うちわ」は無かったでね。

車内です。JR神戸線の新快速並みのシートでした。



豊岡駅に到着しました。特急「きのさき」(京都駅~豊岡駅・城崎温泉駅)が停まっていましたが、最近は在来線の特急に乗ることが無くなりました。青春18きっぷで乗れる普通列車で十分です。(笑)



豊岡駅には、こんなポスターが貼っていました。有名な皿そばにプラスして、川崎尚之助で出石をアピールしていますね。



帰路は往路と同じように、普通列車を乗り継いで明石まで帰ってきました。北近畿タンゴ鉄道だけではなく、但馬地方のローカル線沿線は時間がゆっくりと流れて心の安らぎを感じます。普段の尖った慌ただしい毎日とは違う世界がありますね。名所や観光地が無くても、私には十分です。


PS.
ちょっとしたハプニングが・・・帰路の生野駅で停車中に、車内に大きなトンボが入ってきて乗車されている方はビックリ!私が捕まえると「スゴイ!見事!」と賞賛と拍手でした(笑)。もちろんトンボは車外に逃がしてあげました。
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三木鉄道記念公園に行ってきました。

2013年08月21日 | 鉄道
マジェで三木鉄道記念公園に行ってきました。この三木鉄道記念公園ですが、平成20年3月31日をもって廃止された三木鉄道の資料館になっています。

三木鉄道とは1916年(大正5年)の播州鉄道から始まり、1943年(昭和18年)に国鉄・三木線となり、その後、1985年(昭和60年)に再び民営化されましたが、2008年(平成20年)に利用者の減少から廃止されたものです。
私はR175をバイクやクルマで走っていると、三木鉄道が走っているのを見たことがありますが、一両編成の典型的なローカル線でしたね。

当時の三木駅を使った資料館です。ウィキによると15mほど南側に移築されたそうです。



館内の様子と展示されているパネルです。1916年(大正5年)開業ですからSLも走っていたんですね。












平成20年の廃止前の写真です。雪の写真は情緒がありますね。看板には「永年にわたるご愛顧ありがとうございました」と書かれています。






当時のプレートなども展示されています。三木鉄道は現在のJR加古川線・厄神駅~三木駅でしたが、昔は加古川駅から三木駅までの直行列車もあったようです。









屋外には、車止めやレールの一部が残っています。






暑くて館内で休んでいると、地元のお爺さんに話しかけられました。この三木駅ですが、戦時中は多くの出征兵士と日の丸を振って見送る家族であふれたそうです。また終戦間際になると、空襲を避けるために神戸・姫路方面の多くのSLが三木駅構内に疎開し、構内は何十台ものSLが停まっていたようです。知られざる戦時中の様子ですね。

公園内には「MIKI夢ステーション」という売店もあります。道の駅の売店のような感じです。



店内にはお弁当も売られていましたが、購入する時に暖かいご飯を入れていただけます。ちょっとした心遣いですね。



こんなのも売られていました。



当時の駅前を感じさせる商店街です。ローカル線の駅前は、どこも同じように何か寂れた雰囲気を感じます。



三木鉄道に限らず、廃線となったローカル線は「廃止前に乗っておけばよかった」と後悔することが多いです。でも、なかなか乗らないですね。いつもこのパターンの繰り返しです。
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播但線・溝口駅に行ってきました。

2013年08月17日 | 鉄道
以前にジュークで行った播但線の寺前~福崎の各駅を紹介しましたが、今回は続きで溝口駅です。この溝口駅ですが、私にとっては非常に思い出深い駅なのです。というのも、故郷である福崎町八千種に帰るときは、明石からこの駅で降りて向かったからです。

駅そのものは昔から変わっていません。駅の看板も、多分、同じだったように思います。






駅構内は小さいです。10畳ぐらいの広さでしょうか。



運賃図です。この写真をご覧になれば、溝口駅の位置が大体お分かりでしょう。



ホームです。






溝口駅は上下線の1・2番線のみです。姫路方面は跨線橋を使い1番線から乗車しますが、私が子供の頃は跨線橋ではなく、ホームの階段で線路に降りて1番線に向かったものです。その頃である1970年の溝口駅の写真(他のサイトから拝借しました)をご覧になれば、跨線橋が無いのがお分かりでしょう。






駅前の閉店した売店です。「グリム」という文字が消されていますが、このお店は食料品店でした。溝口駅から列車(子供の頃は非電化で、SLまで走っていました)に乗る前に、ジュースを買ってもらったものです。



溝口タクシーは子供の頃からありました。ここからタクシーに乗り、故郷に向かいました。



この後、次の香呂駅に向かうことも考えたのですが、暑さでダウンです(笑)。お盆休みで加古川BPや第二神明は混んでいるでしょうから、加西~小野のR175で帰りましょう。そんなところで、到着したのは「道の駅 みき」です。



日陰にマジェを停め、CB1100さんと談笑・・・CB1100さんは千種高原に向かわれるとのことでしたが、夏場の空冷エンジンは足が火傷するぐらい熱いそうです。



家族へのお土産です。餡子の入ったお餅系は、つい買ってしまいます(笑)。早くも黒田官兵衛なんですね。



この日も暑かったですね。朝の9時頃でも道路に設置された気温計は32度でした。
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青春18きっぷでYAMAHAコミュニケーションプラザ行ってきました。(その5:古いバイク雑誌編)

2013年08月13日 | お出かけ
長い間YAMAHAコミュニケーションプラザを紹介しましたが、今回でやっと終わります。最後に古いバイク雑誌を紹介しましょう。YAMAHAコミュニケーションプラザ内には「PLAZA LIBRARY」という図書室があります。

現在発売されているバイク雑誌が置かれ、自由に読むことができます。



さらに古いバイク雑誌も、



この中から、79.4のモーターサイクリストを見ましょう。ちなみに、この本は買った記憶があります。左側の女性は井形マリさんです。CB125JXのプロダクションレースで、チーム・ブルーヘルメットから参戦されていました。



中身をパラパラと・・・GL400とホークⅢです。GL400は縦置きVツイン・シャフトドライブでした。モトグッチのようなバイクですね。



GX400SPとZ400・・・両車とも空冷OHC2気筒2バルブというスタンダードなエンジン形式のバイクです。こんなバイクを再販して欲しいものです。



この頃からSR400は販売されていました。



当時、憧れのGT380です。2st空冷3気筒で4本マフラー・・・何度か乗りましたが、2stの割には意外と鈍重でした。



Z250FTです。現在のZ250やNinja250のご先祖様です。このバイクにも乗ったことがありますが、軽快でいいバイクでした。



私が学生の時、一時期所有したTL125バイアルスです。トライアルバイクですから4Lという小さなタンクですが、50Km/Lぐらいの燃費で気になりませんでした。



MR50です。高校の時、友人がこのMR50に乗っているのを見たことから、私のバイク人生は始まりました。



それで、私が初めて自分のバイクとしたCB50JXです。「JX」という名称は、HONDAが機械式(油圧ではなくワイヤー式)ディスクブレーキ搭載車に共通して付けていました。「BENLY」というのが懐かしいですね。



当時のバイク雑誌の巻末には、こんな中古バイク売買欄がありました。ネットなんてありませんので、こんな感じで個人売買したものです。ある意味、古き良き時代です。



さて、今回をもってYAMAHAコミュニケーションプラザの紹介を終わります。このYAMAHAコミュニケーションプラザですが、基本的に土日は閉館しています。ですから休暇を取らないといけないのが辛いところですが、YAMAHAファンでなくても十分に満足されるでしょう。展示数でいえば、神戸のカワサキワールドの3倍以上でしょうか。ゆっくりと一台一台見て歩くと、半日ぐらい必要かと思います。
東海道線を電車に乗っていると、「SUZUKI歴史館」が線路際に見えていました。次回はここですね。冬の青春18きっぷで行きましょう。
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青春18きっぷでYAMAHAコミュニケーションプラザ行ってきました。(その4:クルマ編)

2013年08月12日 | お出かけ
今回はクルマ編です。コミュニケーションプラザに入ると、先ず目に飛び込むのはTOYOTA2000GTとレクサスLFAです。TOYOTA2000GTについては、私がつたない解説をするよりもご存知でしょうから割愛します。
YAMAHAとの関連だけにしぼれば、TOYOTAの技術者も参加したものの、エンジンだけではなく内装も含めてYAMAHAが作ったスポーツカーと言っても過言ではありません。生産もYAMAHAで行われました。

TOYOTA2000GTのリアビューですが、何となく432フェアレディZに似ています。スポーツカーというのは似るものでしょう。



レクサスLFAです。私には無縁のクルマです(笑)。明石では土地付一戸建が買えるお値段です。V型10気筒エンジンはYAMAHAとの共同開発です。



F1マシンである「JORDAN YAMAHA 192」です。5バルブ・V型12気筒3.5Lエンジンですね。



F1のエンジン単体も展示されています。OX11Aと呼ばれるV型10気筒3Lエンジンです。






次に市販車エンジンです。言わずと知れた2T-Gですね。AE86前のレビン・トレノ、カリーナ・セリカ1600GTなどに搭載されました。私が社会人になったときは、この2T-Gを搭載したクルマはまだ販売されていました。



当時、日産とTOYOTAの広告合戦は激しく、売れに売れていた日産スカイラインGTターボに対して「名ばかりのGTは道をあける」「ツインカム無しでGTは語れない」とTOYOTAが攻撃すると、日産はDOHC4バルブのFJ20Eを搭載したスカイラインRSを発売。今度はTOYOTAに「真のDOHCは4バルブである」と攻撃しました。
カートップなんてクルマ雑誌を読んでいた私にとっては、外野席でこの広告合戦を楽しんでいたものです。

3T-GTです。1800ccツインカムターボですね。千葉真一さんが「ツインカムとターボ 鬼に金棒」なんてCMで語っていました。TOYATAは先ほどのターボ(日産)対DOHC(TOYOTA)の戦いを終わらせたかったのでしょう。



1G-GTです。2000ccDOHC6気筒である1Gです。この1GはM型以来の新しい6気筒エンジンです。先ほどのT型も含め、TOYOTAは古いエンジンに少しずつ手を加え長く使う傾向があります。



YAMAHAとTOYOTAはご近所ということもあり、昔から技術提携が多いですね。特にエンジンのヘッド周りの技術提携が多いと思います。YAMAHAにはバイクレースで養った技術の蓄積があるからでしょう。
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青春18きっぷでYAMAHAコミュニケーションプラザ行ってきました。(その3:レーシングマシン編)

2013年08月09日 | お出かけ
今回はレーシングマシンの紹介です。私がバイクのレースに興味を持ち出した頃といえば、YAMAHAはケニー・ロバーツでありSUZUKIはバリー・シーンでした。HONDAやKAWASAKIは、GP500という500ccクラスではワークスマシンというのは無かったです。TOPの写真は、YAMAHAワークスマシンの展示コーナーです。

先ずはYZR750です。市販レーシングマシンとしてはTZ750という形式で、一部のライダーにも渡りました。2st並列4気筒というエンジン形式です。






YZR750の次はYZR500です。レギュレーションの変更で、750→500ccとなりました。エンジンもV4になりましたが、このYZR500のエンジンを半分にしたのが公道を走れるTZR250と言っても過言ではないでしょう。エディ・ローソンや平忠彦さんの名前が懐かしいです。






時代は遡って、1973年のTZ250です。



注目すべきはFブレーキです。ツーリーディングタイプのドラムブレーキですね。ツーリーディングの特性として強力な制動力がある反面、いわゆる「カックン」ブレーキです。当時のライダーはコントロールが大変だったことでしょう。



僅かでも制動熱を排出するため、ブレーキ本体の両面の一部はメッシュとなっています。当時、既にディスクブレーキはありましたが、まだまだ技術的には未熟だったためドラムブレーキを採用したのでしょう。



エンディーロやトライアルマシン、モトクロッサーも展示されています。現在ではスクーターでも採用されているモノクロスサス(1本サス)はYAMAHAのモトクロッサーから始まりました。YAMAHAはモトクロスで多くの日本チャンピオンを生み出しましたが、どうもYAMAHAの勤務労働条件が悪いのか、数多くのライダーがHONDAに移籍しました。



最後に現役バリバリのMotoGPマシンを・・・YZR-M1の2013タイプです。



ざぁ~と見て回って、「ん?何か足りないぞ!」ですね。1990年に平忠彦が鈴鹿8耐で優勝した時のマシンが無いのです。私が見落としたのでしょうか。YAMAHAファンであれば、ぜひ見たいですね。帰り際に受付のお姉さんに申し伝えました。参考までに1987年はこんなマシンです。



次回はクルマ編です。YAMAHA製TOYOTAエンジンを中心に紹介しましょう。
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青春18きっぷでYAMAHAコミュニケーションプラザ行ってきました。(その2:市販車編)

2013年08月08日 | お出かけ
では、いよいよYAMAHAコミュニケーションプラザをご紹介しましょう。先ずは施設全体を・・・で、入口にはTOPの写真のようなパネルがあがっています。
そして受付のお姉さんを撮ろうとすると、逃げられてしまいました。(笑)



こんなパネルも展示されています。






YAMAHAグッズ(ワイズギア)の販売コーナーもあります。



吹き抜け部分には人力飛行機が展示されています。鳥人間コンテストにエントリーしたのでしょう。



3階にはカフェがあり、軽食も食べれます。お値段は・・・一般的な喫茶店と同じぐらいでしょう。






喫煙コーナーもあり安心です。



ちょうど、こんなセミナーが開催されていました。コミュニケーションプラザは、社員向けの研修会場でも使われているようです。



3階から見えるYAMAHA発動機の本社です。私の目には、大体、明石の川崎重工業の2倍以上の面積があるように思えました。



さて、市販車を紹介しましょう。こんな感じで展示されています。



次期愛車候補であるTMAX530です。しかもお気に入りのマッドグレーです。艶消しですので、写真で見ると表面はザラっとしているのかと思いきや、触って見るとツルツルでした。



幅広のベルトですね。



輸出向けのグランドマジェスティです。先ほどのTMAX530より気に入ってしまいました。



マイナーチェンジ後ですが、私の乗っているマジェも展示されていました。自分の乗っているバイクが展示されているのは嬉しいものです。う~ん、やっぱり慣れたマジェで十分かな~ですね。



YAMAHAバイクの原点であるYA-1です。1955年ということは、昭和30年ですね。2st単気筒で123ccです。



DX250(手前)とXS-1。DXは後のRDシリーズの前モデルです。RDシリーズは排気量を問わずよく走りました。特に400モデルは強力でしたね。XS-1は、KAWASAKIのW650に対抗するために発売されたYAMAHA初の4stバーチカル2気筒650です。高校の時、同級生が後モデルであるTX650に乗っていたのが思い出されます。



GX750。YAMAHA初の750モデルですね。CB750もZ2も4気筒なのに3気筒・・・何でやねん!というYAMAHAファンからの嘆きがあったそうです。(笑)



XS1100。先ほどのGX750を4気筒にしたリッターバイクです。XSイレブンなんて呼ばれていました。GX750もそうですが、当時としては珍しいシャフトドライブです。YAMAHAの「こだわり」を感じます。



RZ250(手前)とXV750です。RZ250は後のレプリカマシン・ブームの門戸を開きました。XV750はYAMAHA空冷Vツインのはしりでしょうか。現在のDS400・250のご先祖様ですね。



今まで発売された究極のYAMAHA市販車と思うRZV500Rです。水冷2st500ccV型4気筒にアルミフレーム・・・こんなバイクは二度と販売されることはないでしょう。



SRX600。400版もありました。SR400も魅力ですが、セル付チューブレスタイヤというのが嬉しいですね。SRX400を再販して欲しいです。



最後に現行車種であるWR250Xです。現在、Ninja250やGSR250など250クラスが人気ですが、WR250Xこそが最速250でしょう。但し、高いシート高さと高価なガソリン代(ハイオク仕様)をクリアしなければいけません。



次回は往年のレーシングマシンを紹介しましょう。
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