うたことば歳時記

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富山県のおにぎり 日本史授業に役立つ小話・小技 14

2024-01-13 06:46:46 | 私の授業
富山県のおにぎり  日本史授業に役立つ小話・小技 14

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

 埼玉県に住んでいる私にとっておにぎりとは、様々な具材を白い飯でくるんで、海苔で表面を巻いた物です。全国同じ様な物ばかりと思っていたのですが、富山県のおにぎりを見て大層驚きました。コンビニに行けばもちろん同じ様な物もあるのですが、富山県民はとろろ昆布を巻き付けたおにぎりが大好きなのだそうです。富山県民のソウルフードと表現する人もいました。
 昆布が都まで運ばれていたことは文献史料に記述があり、『続日本紀』には、「霊亀元年…冬十月…丁丑。・・・・蝦夷須賀君古麻比留等言、先祖以来貢献昆布」と記されています。ただし商品としての大量な流通は、江戸時代まで下ることでしょう。授業では西回り航路や北前船について学習し、蝦夷地の産物が日本海沿岸の航路によって西国に運ばれたことまで話します。その時に必ず触れるのが、西国各地で北海道の水産物を見た、私の個人的経験です。岡山や大阪への修学旅行で買った昆布の加工品、京都で食べたにしん蕎麦、同じく昆布の載った鯖鮨、京都の錦市場で買った棒鱈、同じく昆布の専門店の若狭屋で買った長さ数メートル・幅30㎝の昆布などがあります。店の看板代わりに展示されていた物を、教材にしたいからと無理に頼んで買ってきました。「若狭屋」という屋号は、若狭で陸揚げされた昆布が、若狭街道・琵琶湖経由で京に運ばれていたことの名残でしょうし、岡山や大阪の昆布は、下関経由で瀬戸内海を運ばれたことの名残でしょう。これらの経験をしていましたから、 富山県では昆布はとれないのになぜとろろ昆布なのか、すぐにその理由はわかりました。そこには江戸時代以来の商品流通の歴史が隠れているわけです。そこでもう少し調べてみると、富山県は昆布の消費量が、日本で最も多いそうです。
 ついでのことですが、昆布が全くとれない沖縄県も昆布の消費量が大変多く、出汁用ではなく、主菜としてモリモリ食べていました。それは沖縄修学旅行で確認したことです。何故沖縄なのか歴史的理由があるのですが、それはまた別の機会に譲ります。

明朝体 日本史授業に役立つ小話・小技 13

2024-01-09 18:41:46 | 私の授業
明朝体 日本史授業に役立つ小話・小技 13

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

近年は生徒もパソコンを授業で使うためか、「明朝体」という言葉を知らない生徒はまずいません。ところが「明るい朝」と読めるからなのでしょうか、その意味を正しく説明できる生徒は極めて少ないのです。中には「明るい朝の体操」というギャグを言う生徒もいて、大笑いしたことです。「明朝」は明の王朝の木版印刷で用いられていた書体のことで、宋代の書体ならば宋朝体と呼ばれます。明朝体の特徴は、縦画と横画はそれぞれ垂直・水平であり、縦画は太く、横画は細くなっていますが、漢字は概して平行する横画の数が多いので、画数の多い文字には適しています。また横画の末尾は三角形になっています。そして全体の形が正方形の枠に収まるため、文字が均等に配置されて整っている印象があります。このような特徴があるため、印刷物の書体として現代もなお普通に用いられているわけです。宋朝体は横画がやや右肩上がりで、字形も縦長であり、筆文字の楷書のような印象があります。それはそれで美しい書体ですが、活字で版を組むには正方形に収まる明朝体の方が適していると思います。
 さてこの明朝体が日本に伝えられた時期は日明貿易の頃かと思ったのですが、どうもそうではなく、明朝末期の17世紀半ばのようです。1654年(承応3)に明僧隠元が長崎に住む明人の要請に応じて渡来しました。隠元の名声は大禅師として日本にも知れ渡っていましたから、道を求めて多くの日本人禅僧が参禅しました。初めは3年で帰国するはずだったのですが、幕府は山城国の宇治に万福寺を建立し、開山として招聘したのです。この時伝えられた禅宗は、黄檗宗と呼ばれています。この黄檗宗の日本人僧侶である鉄眼は、仏典大全集とも言うべき『大蔵経』の刊行を発願し、ついに1678年(延宝6年)に完成させました。この大蔵経は黄檗版大蔵経または鉄眼版と呼ばれています。その版木は京都府宇治市の黄檗山宝蔵院に今もなお収蔵されていて、重要文化財に指定されています。
 この大蔵経の書体が明朝体なのです。私は縁あって現代に摺った1枚を入手したのですが、B4の大きさの紙を半分に折ると、右片面が縦20字、横10行、左片面も同じですから、400字詰め原稿用紙と同じ書式です。というよりは原稿用紙の書式は鉄眼の大蔵経に倣ったものということです。何と、原稿用紙の書式に隠元が隠れているとは。その秘密を知ってから、隠元の渡来について語る授業が待ち遠しくてなりませんでした。もちろん隠元が伝えたとされる隠元豆も持って行きました。
 ついでのことですが、紙の規格には、一般にはA判とB判があります。A判はドイツ発祥で、後に国際規格となったものであり、B判にも一応国際規格があります。しかし日本では独自規格のB判を使っていて、これが江戸時代の規格だということです。そう言えば江戸時代の和本をコピーして教材用に複製を作ろうとすると、ちょうどB4かB5でぴったり収まるのです。初めは偶然かと思っていたのですが、後でその理由を知り、妙に納得したことでした。

漆器 日本史授業に役立つ小話・小技12

2024-01-07 16:01:03 | 私の授業
     

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

12、漆器
漆器の材料である漆については、江戸時代の農業で学習します。代表的な商品作物である「四木三草」(茶・漆・桑・楮・藍・麻・紅花)の一つなのですが、馴れていない人が触るとかぶれてしまいますから、漆の枝を教室に持ち込むことはできません。漆器については、縄文時代の遺跡から、漆塗りの装飾品が発掘されていたり、多賀城の漆紙文書を学習することがあるかもしれません。また法隆寺の玉虫の厨子台座の漆絵や、正倉院宝物の漆胡瓶(しっこべい)や螺鈿紫檀五絃琵琶を写真では見るでしょうが、漆が使用されていることはあまり意識されません。天平彫刻には乾漆像という技法があることは必ず学習しますが、これも同様です。古代以来中国への輸出品となり、南蛮貿易や長崎貿易でも同様であることもさらっと触れる程度には学習します。また桃山時代には高台寺蒔絵、江戸時代には本阿弥光悦や尾形光琳によって名品が作られたことを学習します。また江戸時代の産業で、春慶塗・輪島塗・会津塗・南部塗などを地方特産物の地図の中から探し出せます。
 まあざっとこの程度なのですが、漆器は英語ではjapanであり、日本の国名で表される程の日本の特産物として国際的に認知されているのですから、もっと積極的に取り上げてもよいと思います。Japaneseがjapanを知らないようでは、外国人に笑われてしまうでしょう。毎年尋ねるのですが、ほとんどの生徒がjapanが漆器であることを知りませんでした。因みにchinaといえば磁器のことです。ただしいずれも普通名詞ですから、頭文字は小文字です。
 そこで漆器を見せたいのですが、特産物とはいえ、現在では本物の漆器は大層高価なものになってしまいました。最近は漆器と称していても、合成樹脂製の器にウレタン樹脂を塗った偽物が出回っています。100円ショップにあるものは、100%偽物です。ただし合成樹脂製の器に漆を塗ったものもあり、こちらは偽物と言うよりは、安物の漆器と言えるかもしれません。しかしよくよく考みれば。「合成樹脂」という言葉そのものが、漆が樹脂であることを際立たせていることに気づくことは少ないのではないでしょうか。
 生徒に見せる物は、特別高価な美術品である必要はありません。むしろ日常生活の中から取り出して見せられることの方に意味があります。高価とは言っても、汁椀くらいなら何とかなるでしょうし、螺鈿細工の箸も買えるでしょう。骨董市に行けば、戦前まで使われていた本物の日用食器がいくらでも入手できます。また骨董品でよければ、漆塗のお盆や重箱もそれ程高価ではありません。日本人はもっと漆器の素晴らしさを再認識しなければなりません。それがよき伝統を継承することにつながってゆくことと思いますから。私は若い頃海外に旅行に行く時、日本土産として漆器をもって行きました。外国人は漆が日本の国名で呼ばれる特産物であることを知っていますから、JapaneseがJapanからjapanを持ってきてくれたと、殊更に喜んでくれたものです。


四神思想 日本史授業に役立つ小話・小技11

2024-01-05 09:51:12 | 私の授業
     日本史授業に役立つ小話・小技 11

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

11、四神思想
 四神とは古代中国の神話に由来する四方の方角を司る霊獣のことで、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武(亀と蛇が合体)のことです。五行思想に基づいて、中央の黄竜を合わせて五神とされることもあります。五神は五方(方角))の他に、五時(四季と土用)・五色(青赤白黒黄)・五行(木火土金水)に配され、青龍は東・春・青(緑)・木に、朱雀は南・夏・赤(朱)・火に、白虎は西・秋・白・金に、玄武は北・冬・黒(玄)・水に、黄龍は中央・土用・黄・土に対応するものとされています。
 これらの四神(五神)は、歴史の色々な場面に痕跡を残しています。まずすぐに思い付くのは、白鳳文化の高松塚古墳の壁画でしょう、被葬者を守護するために、石室の壁の四面に、四神像が描かれていました。南壁の朱雀は盗掘により破壊されていました。同じくキトラ古墳の朱雀像は美事なものです。そもそも「キトラ」は「亀虎」であるならば、四神像に由来する呼称かもしれません。他には薬師寺の薬師如来像の台座にも、四神のレリーフがあります。
 次に思い当たるのは、『続日本紀』に記された平城遷都の詔で、「方今(いままさに)平城の地は、四禽図(と)に叶ひ、三山鎮を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ひぬ。宜しく都邑を建つべし」と記されています。この「四禽」が四神のことなのですが、青龍は川に、朱雀は沢・池・湖に、白虎は道に、玄武は山に擬えられ、それらの地形が都の周囲に位置していることが、四神が守護していることの顕れであると考えられていたと説かれることがありますが、この詔にはそこまで具体的に記されているわけではありません。『日本紀略』に記された平安遷都の詔には、「山勢実に前聞に合(かな)ふ。云々。此の国は山河襟帯して、自然に城を作(な)す。斯の形勝に因りて新号を制すべし。宜しく山背国を改めて山城国と為すべし」と記されていて、四神が意識されていた確かな形跡はありません。ただし『平家物語』巻五「新都」には、「此の地の体を見候ふに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」と記されていますから、鎌倉時代には平安京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できます。またかなり後の時代、会津の白虎隊の悲劇が有名ですが、青龍隊・朱雀隊・玄武隊もありました。
 その後、四神思想は高校で学習する範囲には登場しませんが、現代にも痕跡が残っています。それは大相撲の土俵です。土俵では東西の方角が極めて重要です。前の取り組みで汚れた土俵を浄めるために、塩を撒くくらいですから、土俵は聖域でなければなりません。それで方角の重要な土俵は、方角を司る四神によって守護されるものと考えられていました。それは現在では国技館の天井から吊り下げられる屋根の色房に痕跡があります。ただし江戸時代の絵画史料を見ると、房ではなく屋根を支える柱になっています。青房・赤房・白房・黒房の4色の房が下げられているのは、テレビ中継では画面に映りませんが、「赤房下」「白房下」という表現は、実況中継でよく耳にします。見落とされがちですが、中央にある土俵が「土」であることも、五神の黄龍 に基づいています。また四神というよりは五行思想の痕跡と言うべきなのですが、五色の短冊や吹き流し、五目寿司なども全く無関係というわけではなさそうです。


製糸と紡績 日本史授業に役立つ小話・小技 10

2024-01-03 06:02:15 | 私の授業
    日本史授業に役立つ小話・小技 10

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

10、製糸と紡績
 製糸業と紡績業は、明治期の産業革命で同時に学習します。ところが生徒にはその区別がつかないことが多いのです。どちらも糸を作ることなのに、どこが違うのだろうというのでしょう。製糸と紡績の工程を実際に見たことがあれば、一目瞭然で説明は不要なのですが、見る機会はまずありませんから、無理もありません。
 まず製糸は蚕の繭を湯煎してほぐれやすくし、糸の端末を探し当て、後はそれを手繰ってゆくだけです。もっとも繭一つの超微細な糸一本では生糸としては細すぎるので、数個の繭から同時に糸を引き出します。糸の表面には糊状の蛋白質があり、数本を一緒に引き出せば、撚りを掛けなくても自然に1本の糸にまとまってしまいます。小学生の頃に蚕を飼っていて、繭の糸の長さを計測しようとしたことがありました。円周10㎝の筒を用意して、10回巻き取れば1メートルということで、長さを測ろうとしたのです。しかしそれが小学生には不可能であることがわかるのに、それ程時間はかかりませんでした。先の見えない絶望的な作業だったからです。後に横浜の博物館に尋ねたのですが、千数百メートルあるそうです。要するに製糸とは生糸を作ることなのです。
 紡績は紡ぐ(つむぐ)と績む(うむ)から成っていて、紡ぐとは綿状のものから短い繊維に撚りを掛けながら長い糸にすること。績むとは麻や苧麻の皮から採った長い繊維を結びながら長い糸にしてゆくことです。ですから綿花から綿糸を作ることは紡ぐ、麻の糸は績むと言います。しかし明治期の産業革命で学習する「紡績」は、事実上、綿糸を作ることと理解してよいでしょう。ただし厳密には毛糸も紡績するものであり、紬(つむぎ)という織物がくず繭を綿状にして紡いだ糸で織るように、繭の繊維を紡ぐこともありますから、実際には綿糸だけではありませんが・・・・。
 そこで製糸と紡績の違いを視覚的に理解させたいのですが、その工程の仕掛けを教室に持ち込むことはできません。しかし簡単な小道具でその違いを理解させられます。私は以下のようにやって来ました。まずは製糸から。用意する物は毛糸を巻き取った玉状の物を数個だけです。それを洗面器のような器に入れて、糸の端を同時に引っぱるだけです。そうして実際には自然に糸が1本に接着することを話してやればよいのです。紡績は少し手間がかかります。綿花からまず種を一粒取り出して、繊維を左右に引っ張り、繊維の長さが2~3㎝しかないことを示します。そして数粒の種から繊維だけをむしり取り、綿状にします。それを机上に置き、その綿に伸ばした輪ゴムが触れるようにして弾くと、ゴムの震動により綿はふわふわの状態になります。年配の人ならこれが布団の綿の打ち直しの原理であることはすぐに気が付くことでしょう。昔は弓の弦を用いたのですが、取り敢えずは輪ゴムで用が足ります。そうしておいて綿を左手でそっと持ち、右手で綿の繊維を少しずつ引き出しながら、撚りをかけつつ真下に引くのです。そのとき糸が途切れないようにするには、少し練習が必要かもしれません。もちろん撚りの回転数が全く足りませんから、糸の強度はありませんが、紡ぐという工程の原理を見せることができます。
 両方やって見せても、1~2分あれば十分です。もちろん市販されている視聴覚資料を見せてもよいのですが、家庭にある小道具だけで簡単にできてしまうことの方が面白いと思います。こういうことは一斉講義式だからできることです。アクティブラーニングでは不可能でしょう。
 ついでのことに一つおまけの話もしています。綿花からむしった綿を水につけても、繊維に微かな脂分があるため、水を吸い取りません。それで脂分を除去するため、水酸化ナトリウムを溶かした液体で煮てやると、脂分が抜けて、水をよく吸い取るようになります。これが脱脂綿なのですが、「脱脂」の意味を知っている生徒は一人もいませんでした。説明してやると、妙に感心しています。祖父は満州にいた時、古い布団を買い取って苛性ソーダて煮て、大量の脱脂綿を作って売ったという話をよくしていました。