日本史授業に役立つ小話・小技 11
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。
11、四神思想
四神とは古代中国の神話に由来する四方の方角を司る霊獣のことで、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武(亀と蛇が合体)のことです。五行思想に基づいて、中央の黄竜を合わせて五神とされることもあります。五神は五方(方角))の他に、五時(四季と土用)・五色(青赤白黒黄)・五行(木火土金水)に配され、青龍は東・春・青(緑)・木に、朱雀は南・夏・赤(朱)・火に、白虎は西・秋・白・金に、玄武は北・冬・黒(玄)・水に、黄龍は中央・土用・黄・土に対応するものとされています。
これらの四神(五神)は、歴史の色々な場面に痕跡を残しています。まずすぐに思い付くのは、白鳳文化の高松塚古墳の壁画でしょう、被葬者を守護するために、石室の壁の四面に、四神像が描かれていました。南壁の朱雀は盗掘により破壊されていました。同じくキトラ古墳の朱雀像は美事なものです。そもそも「キトラ」は「亀虎」であるならば、四神像に由来する呼称かもしれません。他には薬師寺の薬師如来像の台座にも、四神のレリーフがあります。
次に思い当たるのは、『続日本紀』に記された平城遷都の詔で、「方今(いままさに)平城の地は、四禽図(と)に叶ひ、三山鎮を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ひぬ。宜しく都邑を建つべし」と記されています。この「四禽」が四神のことなのですが、青龍は川に、朱雀は沢・池・湖に、白虎は道に、玄武は山に擬えられ、それらの地形が都の周囲に位置していることが、四神が守護していることの顕れであると考えられていたと説かれることがありますが、この詔にはそこまで具体的に記されているわけではありません。『日本紀略』に記された平安遷都の詔には、「山勢実に前聞に合(かな)ふ。云々。此の国は山河襟帯して、自然に城を作(な)す。斯の形勝に因りて新号を制すべし。宜しく山背国を改めて山城国と為すべし」と記されていて、四神が意識されていた確かな形跡はありません。ただし『平家物語』巻五「新都」には、「此の地の体を見候ふに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」と記されていますから、鎌倉時代には平安京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できます。またかなり後の時代、会津の白虎隊の悲劇が有名ですが、青龍隊・朱雀隊・玄武隊もありました。
その後、四神思想は高校で学習する範囲には登場しませんが、現代にも痕跡が残っています。それは大相撲の土俵です。土俵では東西の方角が極めて重要です。前の取り組みで汚れた土俵を浄めるために、塩を撒くくらいですから、土俵は聖域でなければなりません。それで方角の重要な土俵は、方角を司る四神によって守護されるものと考えられていました。それは現在では国技館の天井から吊り下げられる屋根の色房に痕跡があります。ただし江戸時代の絵画史料を見ると、房ではなく屋根を支える柱になっています。青房・赤房・白房・黒房の4色の房が下げられているのは、テレビ中継では画面に映りませんが、「赤房下」「白房下」という表現は、実況中継でよく耳にします。見落とされがちですが、中央にある土俵が「土」であることも、五神の黄龍 に基づいています。また四神というよりは五行思想の痕跡と言うべきなのですが、五色の短冊や吹き流し、五目寿司なども全く無関係というわけではなさそうです。
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。
11、四神思想
四神とは古代中国の神話に由来する四方の方角を司る霊獣のことで、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武(亀と蛇が合体)のことです。五行思想に基づいて、中央の黄竜を合わせて五神とされることもあります。五神は五方(方角))の他に、五時(四季と土用)・五色(青赤白黒黄)・五行(木火土金水)に配され、青龍は東・春・青(緑)・木に、朱雀は南・夏・赤(朱)・火に、白虎は西・秋・白・金に、玄武は北・冬・黒(玄)・水に、黄龍は中央・土用・黄・土に対応するものとされています。
これらの四神(五神)は、歴史の色々な場面に痕跡を残しています。まずすぐに思い付くのは、白鳳文化の高松塚古墳の壁画でしょう、被葬者を守護するために、石室の壁の四面に、四神像が描かれていました。南壁の朱雀は盗掘により破壊されていました。同じくキトラ古墳の朱雀像は美事なものです。そもそも「キトラ」は「亀虎」であるならば、四神像に由来する呼称かもしれません。他には薬師寺の薬師如来像の台座にも、四神のレリーフがあります。
次に思い当たるのは、『続日本紀』に記された平城遷都の詔で、「方今(いままさに)平城の地は、四禽図(と)に叶ひ、三山鎮を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ひぬ。宜しく都邑を建つべし」と記されています。この「四禽」が四神のことなのですが、青龍は川に、朱雀は沢・池・湖に、白虎は道に、玄武は山に擬えられ、それらの地形が都の周囲に位置していることが、四神が守護していることの顕れであると考えられていたと説かれることがありますが、この詔にはそこまで具体的に記されているわけではありません。『日本紀略』に記された平安遷都の詔には、「山勢実に前聞に合(かな)ふ。云々。此の国は山河襟帯して、自然に城を作(な)す。斯の形勝に因りて新号を制すべし。宜しく山背国を改めて山城国と為すべし」と記されていて、四神が意識されていた確かな形跡はありません。ただし『平家物語』巻五「新都」には、「此の地の体を見候ふに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」と記されていますから、鎌倉時代には平安京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できます。またかなり後の時代、会津の白虎隊の悲劇が有名ですが、青龍隊・朱雀隊・玄武隊もありました。
その後、四神思想は高校で学習する範囲には登場しませんが、現代にも痕跡が残っています。それは大相撲の土俵です。土俵では東西の方角が極めて重要です。前の取り組みで汚れた土俵を浄めるために、塩を撒くくらいですから、土俵は聖域でなければなりません。それで方角の重要な土俵は、方角を司る四神によって守護されるものと考えられていました。それは現在では国技館の天井から吊り下げられる屋根の色房に痕跡があります。ただし江戸時代の絵画史料を見ると、房ではなく屋根を支える柱になっています。青房・赤房・白房・黒房の4色の房が下げられているのは、テレビ中継では画面に映りませんが、「赤房下」「白房下」という表現は、実況中継でよく耳にします。見落とされがちですが、中央にある土俵が「土」であることも、五神の黄龍 に基づいています。また四神というよりは五行思想の痕跡と言うべきなのですが、五色の短冊や吹き流し、五目寿司なども全く無関係というわけではなさそうです。
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