明朝体 日本史授業に役立つ小話・小技 13
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。
近年は生徒もパソコンを授業で使うためか、「明朝体」という言葉を知らない生徒はまずいません。ところが「明るい朝」と読めるからなのでしょうか、その意味を正しく説明できる生徒は極めて少ないのです。中には「明るい朝の体操」というギャグを言う生徒もいて、大笑いしたことです。「明朝」は明の王朝の木版印刷で用いられていた書体のことで、宋代の書体ならば宋朝体と呼ばれます。明朝体の特徴は、縦画と横画はそれぞれ垂直・水平であり、縦画は太く、横画は細くなっていますが、漢字は概して平行する横画の数が多いので、画数の多い文字には適しています。また横画の末尾は三角形になっています。そして全体の形が正方形の枠に収まるため、文字が均等に配置されて整っている印象があります。このような特徴があるため、印刷物の書体として現代もなお普通に用いられているわけです。宋朝体は横画がやや右肩上がりで、字形も縦長であり、筆文字の楷書のような印象があります。それはそれで美しい書体ですが、活字で版を組むには正方形に収まる明朝体の方が適していると思います。
さてこの明朝体が日本に伝えられた時期は日明貿易の頃かと思ったのですが、どうもそうではなく、明朝末期の17世紀半ばのようです。1654年(承応3)に明僧隠元が長崎に住む明人の要請に応じて渡来しました。隠元の名声は大禅師として日本にも知れ渡っていましたから、道を求めて多くの日本人禅僧が参禅しました。初めは3年で帰国するはずだったのですが、幕府は山城国の宇治に万福寺を建立し、開山として招聘したのです。この時伝えられた禅宗は、黄檗宗と呼ばれています。この黄檗宗の日本人僧侶である鉄眼は、仏典大全集とも言うべき『大蔵経』の刊行を発願し、ついに1678年(延宝6年)に完成させました。この大蔵経は黄檗版大蔵経または鉄眼版と呼ばれています。その版木は京都府宇治市の黄檗山宝蔵院に今もなお収蔵されていて、重要文化財に指定されています。
この大蔵経の書体が明朝体なのです。私は縁あって現代に摺った1枚を入手したのですが、B4の大きさの紙を半分に折ると、右片面が縦20字、横10行、左片面も同じですから、400字詰め原稿用紙と同じ書式です。というよりは原稿用紙の書式は鉄眼の大蔵経に倣ったものということです。何と、原稿用紙の書式に隠元が隠れているとは。その秘密を知ってから、隠元の渡来について語る授業が待ち遠しくてなりませんでした。もちろん隠元が伝えたとされる隠元豆も持って行きました。
ついでのことですが、紙の規格には、一般にはA判とB判があります。A判はドイツ発祥で、後に国際規格となったものであり、B判にも一応国際規格があります。しかし日本では独自規格のB判を使っていて、これが江戸時代の規格だということです。そう言えば江戸時代の和本をコピーして教材用に複製を作ろうとすると、ちょうどB4かB5でぴったり収まるのです。初めは偶然かと思っていたのですが、後でその理由を知り、妙に納得したことでした。
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。
近年は生徒もパソコンを授業で使うためか、「明朝体」という言葉を知らない生徒はまずいません。ところが「明るい朝」と読めるからなのでしょうか、その意味を正しく説明できる生徒は極めて少ないのです。中には「明るい朝の体操」というギャグを言う生徒もいて、大笑いしたことです。「明朝」は明の王朝の木版印刷で用いられていた書体のことで、宋代の書体ならば宋朝体と呼ばれます。明朝体の特徴は、縦画と横画はそれぞれ垂直・水平であり、縦画は太く、横画は細くなっていますが、漢字は概して平行する横画の数が多いので、画数の多い文字には適しています。また横画の末尾は三角形になっています。そして全体の形が正方形の枠に収まるため、文字が均等に配置されて整っている印象があります。このような特徴があるため、印刷物の書体として現代もなお普通に用いられているわけです。宋朝体は横画がやや右肩上がりで、字形も縦長であり、筆文字の楷書のような印象があります。それはそれで美しい書体ですが、活字で版を組むには正方形に収まる明朝体の方が適していると思います。
さてこの明朝体が日本に伝えられた時期は日明貿易の頃かと思ったのですが、どうもそうではなく、明朝末期の17世紀半ばのようです。1654年(承応3)に明僧隠元が長崎に住む明人の要請に応じて渡来しました。隠元の名声は大禅師として日本にも知れ渡っていましたから、道を求めて多くの日本人禅僧が参禅しました。初めは3年で帰国するはずだったのですが、幕府は山城国の宇治に万福寺を建立し、開山として招聘したのです。この時伝えられた禅宗は、黄檗宗と呼ばれています。この黄檗宗の日本人僧侶である鉄眼は、仏典大全集とも言うべき『大蔵経』の刊行を発願し、ついに1678年(延宝6年)に完成させました。この大蔵経は黄檗版大蔵経または鉄眼版と呼ばれています。その版木は京都府宇治市の黄檗山宝蔵院に今もなお収蔵されていて、重要文化財に指定されています。
この大蔵経の書体が明朝体なのです。私は縁あって現代に摺った1枚を入手したのですが、B4の大きさの紙を半分に折ると、右片面が縦20字、横10行、左片面も同じですから、400字詰め原稿用紙と同じ書式です。というよりは原稿用紙の書式は鉄眼の大蔵経に倣ったものということです。何と、原稿用紙の書式に隠元が隠れているとは。その秘密を知ってから、隠元の渡来について語る授業が待ち遠しくてなりませんでした。もちろん隠元が伝えたとされる隠元豆も持って行きました。
ついでのことですが、紙の規格には、一般にはA判とB判があります。A判はドイツ発祥で、後に国際規格となったものであり、B判にも一応国際規格があります。しかし日本では独自規格のB判を使っていて、これが江戸時代の規格だということです。そう言えば江戸時代の和本をコピーして教材用に複製を作ろうとすると、ちょうどB4かB5でぴったり収まるのです。初めは偶然かと思っていたのですが、後でその理由を知り、妙に納得したことでした。