うたことば歳時記

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源実朝の歌(はたして万葉調か?) 日本史授業に役立つ小話・小技 9

2024-01-01 08:45:47 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

9、源実朝の歌(はたして万葉調か?)
 教科書には、源実朝は万葉調の歌を詠んだと記されていています。教科書の内容に疑問をもつことはまずないでしょうから、誰もがその様に指導することでしょう。しかし定説についてもすぐに疑いを持つ癖のある私は、『金槐和歌集』を片端から読んでいて、「本当かいな?」と疑問に思ったのです。私は古歌を読み、古歌風の和歌を詠むことが唯一の趣味らしい趣味としているので、人並み以上に古歌を知っていましたから、『金槐和歌集』には、『古今集』や『新古今集』の影響をまともに受けた、つまり本歌取りをした歌が大層多いことに気付いていました。
 それならまず万葉調とはどの様な歌風を言うのでしょうか。一般的には、おおらか・素朴・雄大・明朗で、賀茂真淵は「ますらおぶり」と表現しています。また枕詞を用いたり、五七調が多いことも挙げられるでしょう。要するに技巧を用いずに、心を素直に表した歌が多いのです。
 実朝の歌を万葉調であるとして高く評価したのは、『万葉集』に拠って古語の研究をした賀茂真淵に始まります。その後は上田秋成や正岡子規・斎藤茂吉等に継承され、今は動かしがたい定説となっています。しかし私はそれにどうしても承服できません。結論から言えば、『万葉集』を初めとして、『古今集』『新古今集』そのたの勅撰和歌集から、手当たり次第に本歌取をしていて、「万葉調の歌を詠んだ」と言う説明は、実際とは異なっていると思います。
 実朝は14歳で歌を詠み、その年に披露前の『新古今集』を定家から贈られています。17歳で『古今集』を入手し、18歳で定家に30首を送って指導を受け、22歳で定家の歌論書や『万葉集』を贈られて大喜びしたことが、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に記されています。実朝は28歳(満26歳)で殺されていますから、最も長く手元に置かれていたのは憧れていた後鳥羽上皇勅撰の『新古今集』でした。
 松原多仁子氏の「実朝の本歌取の歌」という論文(慶応大学学術情報リポジトリ)に拠れば、『金槐和歌集』716首中、195首、27%の歌が本歌取と認められるそうです。そして本歌を数えてみると圧倒的に『新古今集』と『古今集』が多く、『万葉集』は大変に少ないのです。この事実をどの様に理解すればよいのでしょうか。
 弟子の本居宣長が古今調の歌を詠むと、破門せんばかりに激怒した賀茂真淵。『歌よみに与ふる書』で紀貫之を「下手な歌よみ」、『古今集』を「くだらぬ集」とこき下ろし、実朝を「第一流の歌人」と評価した正岡子規。彼等が実朝の歌を「万葉調」と評価したのは、まあ自然なことでした。しかしだからこそその評価は客観的とは言えないのです。客観的に見た時に、実朝を「万葉調の歌を詠んだ」と説明することが果たして正しいのでしょうか。
 当時の鎌倉には実朝に都仕込みの歌を指導できる歌人はいませんでしたから、実朝は贈られた三歌集を手本に、パクリと思われる程、定家の過剰な本歌取を注意される程に真似をしていたのが実際なのです。ですから万葉調の歌を詠んでいますし、それ以上に八代集の歌からその何倍にも及ぶ本歌取をしているのです。当時は本歌取が大層盛んであったという背景もあったのでしょう。本歌取は『新古今集』の特徴の一つで、その視点から見るならば、実朝の歌は新古今調でもあるのです。「万葉調の歌を詠んだ」という説明が誤りというのではありません。教科書の文にするにはこなれていませんが、「指導者がいない東国で、三歌集から学び取ろうとしていたが、それまであまり注目されていなかった万葉調の歌も詠んだ」と言うべきではないかと思うわけです。
 実朝が『新古今集』を高く評価をしていたことは、『金槐和歌集』の末尾が、後鳥羽上皇に対する敬慕と忠誠の心を詠んだ歌で締めくくられていることによく現れています。
「山は裂け海はあせなむ(干上がる)世なりとも君に二心わがあらめやも」