日常生活にありふれた存在であるだけに、日本史の授業で陶器と磁器について触れる場面は少なくはありません。まず最初は古墳文化の須恵器があげられます。須恵器は陶器なのと質問が出そうですが、厳島の戦いで毛利元就に討たれた陶晴賢の名前でもわかるように、「須恵」とは「陶」の和訓です。万葉仮名的に表記しているのでピンときませんが、須恵器は立派に陶器というわけです。須恵器の窯があった周辺では、大量の破片が遺棄されたため、窯跡の周辺では破片を拾うことは容易です。私の家に近い鳩山町には沢山の窯跡があり、窯の手前が水田になっているような場所では、耕作の邪魔になるために、畦道に大量の須恵器片が、まるで砂利のように放置されています。盗掘するわけではありませんから、それらを拾って授業で生徒に見せる程度のことは許されるでしょう。
次いで曹洞宗の宗祖道元の従者として宋に渡った加藤景正が、宋から伝えた製陶技術による瀬戸焼が上げられるでしょう。帰国の後、尾張国の瀬戸で窯を開いたとされていますが、鎌倉前期には瀬戸で釉薬を用いた陶器が開始されていたという発掘調査報告もあり、加藤景正は瀬戸焼創始者としての象徴的存在であるかもしれません。そのあたりのことは専門の学者に委せるとして、加藤景正は現在も瀬戸焼の陶祖として、瀬戸地方では畏敬されています。私は瀬戸地方の窯跡を歩いたことはありませんが、骨董市では古瀬戸の破片を時々見かけます。破片が並んでいるからには、それを欲しいという人もいるのでしょう。古瀬戸独特の朽葉色の釉薬が掛は、破片といえどもなかなか美しいものです。また鎌倉時代に常滑や猿投の窯で大量に焼かれたいわゆる「山茶碗」は、広い意味で瀬戸焼と理解してもよいと思います。これはもちろん骨董市でも買えますが、ネットオークションで簡単に入手できます。それほど高価なものではありませんから、普段は液体ではないものを容れる小鉢として趣味的に使用し、一年に一度、教材として使っていました。
磁器はまず、鎌倉から室町期の中国からの輸入品として登場します。ところが生徒には陶器と磁器の区別が難しいようです。磁器の原料になるのは、石英や長石をなどを多量に含む石を、微細な粒子になるまで粉砕して精製された粘土です。本焼きには1300度ほどの高温を必要とし、ガラス質化するために吸水性がありません。また薄い部分では光を透すこともあり、軽く叩くと金属音がします。磁器の技術が確立したのは北宋の時代で、中国発祥の器です。ですから英和辞書でchinaを引いてみると、「磁器」と記されています。ただし固有名詞ではありませんから、頭文字は小文字です。中国の景徳鎮は、現在も磁器の生産地として知られています。中国物産展には必ず景徳鎮の磁器がありますから、裏に「景徳鎮」と記された磁器があれば、教材として一つは求めておきましょう。ついでのことですが、japanと書けば漆器を表します。
磁器については、青・白磁と染付けの二つに分けると理解しやすいでしょう。青磁の器を日常的に使っている家庭は少ないでしょうが、染付けならどの家にもあるでしょう。もちろん現代の大量生産品でしょうから骨董的価値は皆無ですが、磁器がどのようなものであるか、また現在でも日常的に使われていることを理解させるためには、かえって家庭の食器棚から教材として持ち出すことに大いに意味があると思います。たとえ破片であっても、断面を見ることは磁器の特徴をかえってよく理解できますから、捨てずにとっておきます。
陶器については、その素地が多孔性であるため、つまり水を吸い込むため、水を吸わないように表面に釉薬を施すのが普通です。この多孔性のために、叩いても磁器のような金属音はしません。一口に陶器といっても陶土の組成や焼成の仕方によって、焼き上がりにはかなりの差ができます。ガラスの原料でもある長石の含有量が多ければ、磁器に近い硬質の仕上がりになり、鉄分が多い陶土で酸化焼成すれば赤褐色になり、還元焼成すれば灰色になったりします。見かけや感触だけで陶器を定義するのはなかなか難しいものです。よく陶器は粘土で成形し、磁器は石を粉末に精製した粘土で成形した物という説明を見かけますが、これは正しくはありません。かなり乱暴な説明ではありますが、家庭で使う器で磁器以外のものは、まず陶器と思って間違いはないでしょう。陶器は磁器に比べて厚手であり、叩いても金属音はせず、素地は真っ白ではありません。色も手触りも、磁器と比べて素朴な暖かさがあります。そこが陶器の魅力であり、全国各地で個性豊かな陶器が生産されています。
透明感のある青緑色の釉薬を施した青磁は、東アジアを中心として世界各地に輸出されました。独特の色は、釉薬に含まれる酸化第二鉄が、還元焼成によって酸化第一鉄になることによって発色します。日本にも日宋貿易・日明貿易によって磁器がもたらされ、日本各地の中世の遺跡から青磁片が発掘されています。特に冊封関係にあった琉球王国には大量の青磁がもたらされ、沖縄各地の城跡から夥しい青磁片が発掘されています。私は修学旅行の引率で沖縄に行った際、那覇の骨董店で、戦前の好事家が拾い集めたという青磁片を沢山買ったことがあります。また鎌倉の海岸では鎌倉期の青・白磁片を拾うことができます。ただしそれを集めている人がいて、目の利く人が一通り探してしまった後や満潮の時は、なかなか見つかりません。今までに十数回拾いに行き、手ぶらで帰ったことは一度もありませんが、2~3センチの破片が数個拾えれば満足できるという程度でした。ただしその頃の青磁の断面は灰色をしています。青磁は断面が白であると思い込んでいると、近現代の青磁片を拾ってしまうことになります。ただ捨てるのはいつでもできますから、念のため怪しい物も全て拾っ来る方がよいでしょう。鎌倉の小町通りにある骨董店の御主人は、青磁片をたくさん拾い集めているので、いつもその場で鑑定していただきました。
染付けは、素焼きされた白磁に酸化コバルトを主成分とする呉須によって下絵を付け、その上に透明の釉薬をかけ、1300度ほどの高温で還元焼成したものです。藍色に発色するため、「青花」とも呼ばれます。呉須は元代に西アジアから顔料として中国に伝えられました。この染付けの磁器は、青色を好むイスラム文化圏でもてはやされただけでなく、後にはヨーロッパの王侯貴族たちから宝石並みの扱いを受け、羨望の的となります。
日本の染付けは、朝鮮出兵の際に連行された朝鮮人陶工の一人である李参平に始まるとされています。彼は肥前の大名である鍋島直茂によって連れて来られ、日本名を「金ヶ江三兵衛」と称しました。1616年、彼は有田の泉山で白磁に適した良質の石を発見し、そこで日本で初めて白磁を焼いたのですが、これが有田焼の起源であり、のちに酒井田柿右衛門の色絵や伊万里焼の輸出に発展することになります。伊万里焼は、有田焼が近くの伊万里港から船積みされて運ばれたためにそう呼ばれたのですが、佐賀藩が贈答用の高級品として御用窯で焼かせた鍋島焼と共に江戸期の産業の学習の際に、必ず触れられることでしょう。
青磁の実物を生徒の身の回りから探すことは難しいことですが、染付けならば、古い物でも何とかなりそうです。もちろん中国産の骨董品である必要はありません。日本の染付けでも、古伊万里などの骨董品は高価ですが、ひびが入っていたり疵のある物ならば一桁安く、千円単位で購入できます。明治以降の物なら百円単位で買えます。現代の物でも教材として利用価値は大きいものです。先ほどもお話ししましたが、日常生活の中に歴史の痕跡があるということに、気付かせたいからです。太陽にかざせば光が透ることや、軽く叩くと金属音がすることや、断面が白く緻密であることなどを確認させましょう。「なぁんだ、これが磁器なら、家にもたくさんあるよ」と、言わせたいのです。私は「磁器は内側が白いので、お茶の色がきれいに見え、接客用に適しているけれど、薄手のものが多く、熱いお茶を注ぐと火傷するかもしれないので、お湯の温度には気を付けなさいよ」という、「おもてなし」の気配りまで話しています。
色絵については、少々説明が要るかもしれません。呉須で青色の絵付けをする場合は、施釉前に行うため二次焼成の必要がありません。しかし顔料によって青以外の色絵付けをする場合は、一回目の本焼き、つまり一次焼成後に絵付けを施し、800度程度で二次焼成をする。それで呉須による絵付けを「下絵付け」というのに対して、これを「上絵付け」といいます。「酒井田柿右衛門が上絵付の技法を工夫し・・・・云々」については必ず学習することでしょうから、カラフルな有田焼を一つ用意しておきましょう。現代の物でも、いわゆる「作家物」や色鍋島はとても高価で、簡単に手の出る品ではありません。しかし現代の雑器なら安価で、リサイクルショップでは特に安価で買えます。器の表面をよく観察すると、青い染付けは透明の釉薬の下に、色絵は釉薬の上になっているのがよくわかるので、是非とも「上絵付け」であることを実際に理解させたいのです。
朝鮮出兵によって日本に連れてこられた朝鮮陶工により、西国各地で「お国焼き」と称される各種の陶磁器が焼かれるようになります。江戸期の焼き物が全て朝鮮人陶工の技術による物とは限りませんが、大きく影響されたことは確かです。有田焼(伊万里焼)を初めとして、薩摩焼・唐津焼はその代表でしょう。
ずいぶん長くなってしまいました。陶磁器は身近にあると同時に、古い歴史を持っています。歴史を身近に感じさせる教材として、陶磁器はなかなか面白いものだと思っています。
次いで曹洞宗の宗祖道元の従者として宋に渡った加藤景正が、宋から伝えた製陶技術による瀬戸焼が上げられるでしょう。帰国の後、尾張国の瀬戸で窯を開いたとされていますが、鎌倉前期には瀬戸で釉薬を用いた陶器が開始されていたという発掘調査報告もあり、加藤景正は瀬戸焼創始者としての象徴的存在であるかもしれません。そのあたりのことは専門の学者に委せるとして、加藤景正は現在も瀬戸焼の陶祖として、瀬戸地方では畏敬されています。私は瀬戸地方の窯跡を歩いたことはありませんが、骨董市では古瀬戸の破片を時々見かけます。破片が並んでいるからには、それを欲しいという人もいるのでしょう。古瀬戸独特の朽葉色の釉薬が掛は、破片といえどもなかなか美しいものです。また鎌倉時代に常滑や猿投の窯で大量に焼かれたいわゆる「山茶碗」は、広い意味で瀬戸焼と理解してもよいと思います。これはもちろん骨董市でも買えますが、ネットオークションで簡単に入手できます。それほど高価なものではありませんから、普段は液体ではないものを容れる小鉢として趣味的に使用し、一年に一度、教材として使っていました。
磁器はまず、鎌倉から室町期の中国からの輸入品として登場します。ところが生徒には陶器と磁器の区別が難しいようです。磁器の原料になるのは、石英や長石をなどを多量に含む石を、微細な粒子になるまで粉砕して精製された粘土です。本焼きには1300度ほどの高温を必要とし、ガラス質化するために吸水性がありません。また薄い部分では光を透すこともあり、軽く叩くと金属音がします。磁器の技術が確立したのは北宋の時代で、中国発祥の器です。ですから英和辞書でchinaを引いてみると、「磁器」と記されています。ただし固有名詞ではありませんから、頭文字は小文字です。中国の景徳鎮は、現在も磁器の生産地として知られています。中国物産展には必ず景徳鎮の磁器がありますから、裏に「景徳鎮」と記された磁器があれば、教材として一つは求めておきましょう。ついでのことですが、japanと書けば漆器を表します。
磁器については、青・白磁と染付けの二つに分けると理解しやすいでしょう。青磁の器を日常的に使っている家庭は少ないでしょうが、染付けならどの家にもあるでしょう。もちろん現代の大量生産品でしょうから骨董的価値は皆無ですが、磁器がどのようなものであるか、また現在でも日常的に使われていることを理解させるためには、かえって家庭の食器棚から教材として持ち出すことに大いに意味があると思います。たとえ破片であっても、断面を見ることは磁器の特徴をかえってよく理解できますから、捨てずにとっておきます。
陶器については、その素地が多孔性であるため、つまり水を吸い込むため、水を吸わないように表面に釉薬を施すのが普通です。この多孔性のために、叩いても磁器のような金属音はしません。一口に陶器といっても陶土の組成や焼成の仕方によって、焼き上がりにはかなりの差ができます。ガラスの原料でもある長石の含有量が多ければ、磁器に近い硬質の仕上がりになり、鉄分が多い陶土で酸化焼成すれば赤褐色になり、還元焼成すれば灰色になったりします。見かけや感触だけで陶器を定義するのはなかなか難しいものです。よく陶器は粘土で成形し、磁器は石を粉末に精製した粘土で成形した物という説明を見かけますが、これは正しくはありません。かなり乱暴な説明ではありますが、家庭で使う器で磁器以外のものは、まず陶器と思って間違いはないでしょう。陶器は磁器に比べて厚手であり、叩いても金属音はせず、素地は真っ白ではありません。色も手触りも、磁器と比べて素朴な暖かさがあります。そこが陶器の魅力であり、全国各地で個性豊かな陶器が生産されています。
透明感のある青緑色の釉薬を施した青磁は、東アジアを中心として世界各地に輸出されました。独特の色は、釉薬に含まれる酸化第二鉄が、還元焼成によって酸化第一鉄になることによって発色します。日本にも日宋貿易・日明貿易によって磁器がもたらされ、日本各地の中世の遺跡から青磁片が発掘されています。特に冊封関係にあった琉球王国には大量の青磁がもたらされ、沖縄各地の城跡から夥しい青磁片が発掘されています。私は修学旅行の引率で沖縄に行った際、那覇の骨董店で、戦前の好事家が拾い集めたという青磁片を沢山買ったことがあります。また鎌倉の海岸では鎌倉期の青・白磁片を拾うことができます。ただしそれを集めている人がいて、目の利く人が一通り探してしまった後や満潮の時は、なかなか見つかりません。今までに十数回拾いに行き、手ぶらで帰ったことは一度もありませんが、2~3センチの破片が数個拾えれば満足できるという程度でした。ただしその頃の青磁の断面は灰色をしています。青磁は断面が白であると思い込んでいると、近現代の青磁片を拾ってしまうことになります。ただ捨てるのはいつでもできますから、念のため怪しい物も全て拾っ来る方がよいでしょう。鎌倉の小町通りにある骨董店の御主人は、青磁片をたくさん拾い集めているので、いつもその場で鑑定していただきました。
染付けは、素焼きされた白磁に酸化コバルトを主成分とする呉須によって下絵を付け、その上に透明の釉薬をかけ、1300度ほどの高温で還元焼成したものです。藍色に発色するため、「青花」とも呼ばれます。呉須は元代に西アジアから顔料として中国に伝えられました。この染付けの磁器は、青色を好むイスラム文化圏でもてはやされただけでなく、後にはヨーロッパの王侯貴族たちから宝石並みの扱いを受け、羨望の的となります。
日本の染付けは、朝鮮出兵の際に連行された朝鮮人陶工の一人である李参平に始まるとされています。彼は肥前の大名である鍋島直茂によって連れて来られ、日本名を「金ヶ江三兵衛」と称しました。1616年、彼は有田の泉山で白磁に適した良質の石を発見し、そこで日本で初めて白磁を焼いたのですが、これが有田焼の起源であり、のちに酒井田柿右衛門の色絵や伊万里焼の輸出に発展することになります。伊万里焼は、有田焼が近くの伊万里港から船積みされて運ばれたためにそう呼ばれたのですが、佐賀藩が贈答用の高級品として御用窯で焼かせた鍋島焼と共に江戸期の産業の学習の際に、必ず触れられることでしょう。
青磁の実物を生徒の身の回りから探すことは難しいことですが、染付けならば、古い物でも何とかなりそうです。もちろん中国産の骨董品である必要はありません。日本の染付けでも、古伊万里などの骨董品は高価ですが、ひびが入っていたり疵のある物ならば一桁安く、千円単位で購入できます。明治以降の物なら百円単位で買えます。現代の物でも教材として利用価値は大きいものです。先ほどもお話ししましたが、日常生活の中に歴史の痕跡があるということに、気付かせたいからです。太陽にかざせば光が透ることや、軽く叩くと金属音がすることや、断面が白く緻密であることなどを確認させましょう。「なぁんだ、これが磁器なら、家にもたくさんあるよ」と、言わせたいのです。私は「磁器は内側が白いので、お茶の色がきれいに見え、接客用に適しているけれど、薄手のものが多く、熱いお茶を注ぐと火傷するかもしれないので、お湯の温度には気を付けなさいよ」という、「おもてなし」の気配りまで話しています。
色絵については、少々説明が要るかもしれません。呉須で青色の絵付けをする場合は、施釉前に行うため二次焼成の必要がありません。しかし顔料によって青以外の色絵付けをする場合は、一回目の本焼き、つまり一次焼成後に絵付けを施し、800度程度で二次焼成をする。それで呉須による絵付けを「下絵付け」というのに対して、これを「上絵付け」といいます。「酒井田柿右衛門が上絵付の技法を工夫し・・・・云々」については必ず学習することでしょうから、カラフルな有田焼を一つ用意しておきましょう。現代の物でも、いわゆる「作家物」や色鍋島はとても高価で、簡単に手の出る品ではありません。しかし現代の雑器なら安価で、リサイクルショップでは特に安価で買えます。器の表面をよく観察すると、青い染付けは透明の釉薬の下に、色絵は釉薬の上になっているのがよくわかるので、是非とも「上絵付け」であることを実際に理解させたいのです。
朝鮮出兵によって日本に連れてこられた朝鮮陶工により、西国各地で「お国焼き」と称される各種の陶磁器が焼かれるようになります。江戸期の焼き物が全て朝鮮人陶工の技術による物とは限りませんが、大きく影響されたことは確かです。有田焼(伊万里焼)を初めとして、薩摩焼・唐津焼はその代表でしょう。
ずいぶん長くなってしまいました。陶磁器は身近にあると同時に、古い歴史を持っています。歴史を身近に感じさせる教材として、陶磁器はなかなか面白いものだと思っています。