月は現代人にとっては天体の一つであり、また美しさや風情を鑑賞したり楽しむ対象です。古人にとっても同じことなのですが、それに留まることなく、宗教性を感じさせる神秘的で神聖な存在でもありました。
①かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな (拾遺集 雑 435)
①には「法師にならんと思ひたち侍りける頃、月を見侍りて」という詞書きが添えられています。憂き世に耐え難く、出家を思い立った作者が、澄みきって空に住んでいる月を眺めて詠んだ歌なのでしょう。月を憂き世の外の聖なる存在と見ています。このように澄みきった月に宗教性を感じ取る歌は『古今和歌集』の頃には見当たりませんが、平安中期になると次第に増してきます。
②ながむるに物思ふことのなぐさむは月は憂き世の外よりやゆく (拾遺集 雑 434)
③水草(みくさ)ゐし朧の清水底澄みて心に月の影は浮かぶや (後拾遺 雑 1036)
④いかで我心の月をあらはして闇に惑へる人を照らさん (詞花集 雑 414)
⑤月の色に心を清く染めましや都を出でぬ我が身なりせば (新古今 雑 1534)
②には「妻におくれて侍りける頃、月を見侍りて」という詞書きが添えられています。妻と死別した作者が、月を見て心慰められるのは、月が憂き世の外の物だから、というのです。③には詞書きによれば、ある僧侶が大原に籠もったことを聞いて、友人の僧侶がおくった歌です。煩悩の水草が茂っていた大原の朧の清水も、水が澄み、あなたの心には悟りの月が映っていますか、という意味で、悟りを月に譬えているわけです。④は、何とかして悟りに至った仏の心を現して、煩悩の闇夜に惑う衆生を照らしたいものだ、という。仏の心を清らかに澄みきっている月に譬えているわけです。⑤は西行の歌で、月の色に心を清らかに染めることができたであろうか。都に留まったままの私であったならば、という意味です。西行は鳥羽院の北面武士として活躍していましたが、突然23歳で出家して隠棲し、諸国を巡る漂泊の旅に出ました。ですから彼の歌にはもともと宗教性があるのですが、ここでも月を清浄な悟りの境地の象徴として理解しているわけです。
月に神秘性を感じ取る歌は、『万葉集』にも見られます。特に、欠けてもまた回復することから、不死の霊力を持つものという理解がありました。しかし平安中期以降の宗教的な月の歌は、これらの歌のように仏教的な視点によるものであることが相異しています。
この仏教的要素は、多分に平安中期以降に流行し始めた浄土信仰によるものと言えるでしょう。阿弥陀如来のおいでになる極楽浄土は、「西方極楽浄土」と言われるように西の彼方にあるとされています。そして月が西の山の端に沈むことは、極楽浄土に往生することを連想させたのです。
そのような月が西に行くことを詠んだ歌を並べてみましょう。
⑥ 諸共に同じ憂き世にすむ月のうらやましくも西へゆくかな (後拾遺 雑 868)
⑦西へゆく心は我もあるものをひとりな入りそ秋の夜の月 (金葉集 雑 580)
⑧阿弥陀仏(あみだぶ)ととなふる声に夢さめて西へ流るる月をこそ見れ (金葉集 雑 630)
⑨闇はれて心の空にすむ月は西の山辺や近くなるらん (新古今 雑 1978) ⑩教へおきて入りにし月のなかりせば西に心をいかでかけまし (新古今 雑 1995)
⑥は、私と同じ憂き世に住んでいるのに、月は羨ましいことに西の方に行くのだなあ、という意味です。⑦は、私にも西方極楽浄土を求める心はあるけれど、私を置いて一人で先に西の山の端に入ってしまうなよと、月に呼びかけているわけです。⑧は、念仏の声を聞いて迷いの夢も覚め、西の方に流れて行く月を見ることである、という意味です。⑨は西行の歌で、煩悩の闇が晴れて、心の中に澄みきって住んでいる月は、西の山の端に近くなっているのだろうか、という意味です。清浄な仏性を月に譬えているわけで、自分自身の往生が近くなっているのだろうかと思ったのでしょう。⑩は、教えを遺し置いて入滅された釈尊がいなかったならば、どうして西方極楽浄土を心に掛けることがあったでしょうか、という意味です。ここでは月は涅槃に入った釈尊の譬えとなっているわけです。
このような歌は『後拾遺和歌集』以後に急増します。『後拾遺和歌集』は白河天皇の勅撰で、11世紀末の成立ですから、すでに浄土信仰が盛んになっていました。当時の人々の信仰的関心事は、如何にして西方極楽浄土に往生するかということでしたから、西の山の端に沈むように西に流れて行く月を、西方極楽浄土に往生することの象徴として理解したのです。現代人はこのような信仰をほとんど失ってしまっています。ですから月を見てもそのような心は湧いてきません。しかしもし古歌を深く理解しようと思うならば、信仰的視点を欠いては本当の意味で理解できない歌もあることを知らなければなりません。特に西行の歌などはそうです。信仰するか否かはともかくとして、解釈に当たっては、信仰的視点を失ってはならないのです。
①かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな (拾遺集 雑 435)
①には「法師にならんと思ひたち侍りける頃、月を見侍りて」という詞書きが添えられています。憂き世に耐え難く、出家を思い立った作者が、澄みきって空に住んでいる月を眺めて詠んだ歌なのでしょう。月を憂き世の外の聖なる存在と見ています。このように澄みきった月に宗教性を感じ取る歌は『古今和歌集』の頃には見当たりませんが、平安中期になると次第に増してきます。
②ながむるに物思ふことのなぐさむは月は憂き世の外よりやゆく (拾遺集 雑 434)
③水草(みくさ)ゐし朧の清水底澄みて心に月の影は浮かぶや (後拾遺 雑 1036)
④いかで我心の月をあらはして闇に惑へる人を照らさん (詞花集 雑 414)
⑤月の色に心を清く染めましや都を出でぬ我が身なりせば (新古今 雑 1534)
②には「妻におくれて侍りける頃、月を見侍りて」という詞書きが添えられています。妻と死別した作者が、月を見て心慰められるのは、月が憂き世の外の物だから、というのです。③には詞書きによれば、ある僧侶が大原に籠もったことを聞いて、友人の僧侶がおくった歌です。煩悩の水草が茂っていた大原の朧の清水も、水が澄み、あなたの心には悟りの月が映っていますか、という意味で、悟りを月に譬えているわけです。④は、何とかして悟りに至った仏の心を現して、煩悩の闇夜に惑う衆生を照らしたいものだ、という。仏の心を清らかに澄みきっている月に譬えているわけです。⑤は西行の歌で、月の色に心を清らかに染めることができたであろうか。都に留まったままの私であったならば、という意味です。西行は鳥羽院の北面武士として活躍していましたが、突然23歳で出家して隠棲し、諸国を巡る漂泊の旅に出ました。ですから彼の歌にはもともと宗教性があるのですが、ここでも月を清浄な悟りの境地の象徴として理解しているわけです。
月に神秘性を感じ取る歌は、『万葉集』にも見られます。特に、欠けてもまた回復することから、不死の霊力を持つものという理解がありました。しかし平安中期以降の宗教的な月の歌は、これらの歌のように仏教的な視点によるものであることが相異しています。
この仏教的要素は、多分に平安中期以降に流行し始めた浄土信仰によるものと言えるでしょう。阿弥陀如来のおいでになる極楽浄土は、「西方極楽浄土」と言われるように西の彼方にあるとされています。そして月が西の山の端に沈むことは、極楽浄土に往生することを連想させたのです。
そのような月が西に行くことを詠んだ歌を並べてみましょう。
⑥ 諸共に同じ憂き世にすむ月のうらやましくも西へゆくかな (後拾遺 雑 868)
⑦西へゆく心は我もあるものをひとりな入りそ秋の夜の月 (金葉集 雑 580)
⑧阿弥陀仏(あみだぶ)ととなふる声に夢さめて西へ流るる月をこそ見れ (金葉集 雑 630)
⑨闇はれて心の空にすむ月は西の山辺や近くなるらん (新古今 雑 1978) ⑩教へおきて入りにし月のなかりせば西に心をいかでかけまし (新古今 雑 1995)
⑥は、私と同じ憂き世に住んでいるのに、月は羨ましいことに西の方に行くのだなあ、という意味です。⑦は、私にも西方極楽浄土を求める心はあるけれど、私を置いて一人で先に西の山の端に入ってしまうなよと、月に呼びかけているわけです。⑧は、念仏の声を聞いて迷いの夢も覚め、西の方に流れて行く月を見ることである、という意味です。⑨は西行の歌で、煩悩の闇が晴れて、心の中に澄みきって住んでいる月は、西の山の端に近くなっているのだろうか、という意味です。清浄な仏性を月に譬えているわけで、自分自身の往生が近くなっているのだろうかと思ったのでしょう。⑩は、教えを遺し置いて入滅された釈尊がいなかったならば、どうして西方極楽浄土を心に掛けることがあったでしょうか、という意味です。ここでは月は涅槃に入った釈尊の譬えとなっているわけです。
このような歌は『後拾遺和歌集』以後に急増します。『後拾遺和歌集』は白河天皇の勅撰で、11世紀末の成立ですから、すでに浄土信仰が盛んになっていました。当時の人々の信仰的関心事は、如何にして西方極楽浄土に往生するかということでしたから、西の山の端に沈むように西に流れて行く月を、西方極楽浄土に往生することの象徴として理解したのです。現代人はこのような信仰をほとんど失ってしまっています。ですから月を見てもそのような心は湧いてきません。しかしもし古歌を深く理解しようと思うならば、信仰的視点を欠いては本当の意味で理解できない歌もあることを知らなければなりません。特に西行の歌などはそうです。信仰するか否かはともかくとして、解釈に当たっては、信仰的視点を失ってはならないのです。