うたことば歳時記

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西にゆく月

2015-12-17 22:03:22 | うたことば歳時記
月は現代人にとっては天体の一つであり、また美しさや風情を鑑賞したり楽しむ対象です。古人にとっても同じことなのですが、それに留まることなく、宗教性を感じさせる神秘的で神聖な存在でもありました。
  ①かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな  (拾遺集 雑 435)
①には「法師にならんと思ひたち侍りける頃、月を見侍りて」という詞書きが添えられています。憂き世に耐え難く、出家を思い立った作者が、澄みきって空に住んでいる月を眺めて詠んだ歌なのでしょう。月を憂き世の外の聖なる存在と見ています。このように澄みきった月に宗教性を感じ取る歌は『古今和歌集』の頃には見当たりませんが、平安中期になると次第に増してきます。
  ②ながむるに物思ふことのなぐさむは月は憂き世の外よりやゆく    (拾遺集 雑 434)
  ③水草(みくさ)ゐし朧の清水底澄みて心に月の影は浮かぶや     (後拾遺 雑 1036)
  ④いかで我心の月をあらはして闇に惑へる人を照らさん        (詞花集 雑 414)
  ⑤月の色に心を清く染めましや都を出でぬ我が身なりせば       (新古今 雑 1534)
②には「妻におくれて侍りける頃、月を見侍りて」という詞書きが添えられています。妻と死別した作者が、月を見て心慰められるのは、月が憂き世の外の物だから、というのです。③には詞書きによれば、ある僧侶が大原に籠もったことを聞いて、友人の僧侶がおくった歌です。煩悩の水草が茂っていた大原の朧の清水も、水が澄み、あなたの心には悟りの月が映っていますか、という意味で、悟りを月に譬えているわけです。④は、何とかして悟りに至った仏の心を現して、煩悩の闇夜に惑う衆生を照らしたいものだ、という。仏の心を清らかに澄みきっている月に譬えているわけです。⑤は西行の歌で、月の色に心を清らかに染めることができたであろうか。都に留まったままの私であったならば、という意味です。西行は鳥羽院の北面武士として活躍していましたが、突然23歳で出家して隠棲し、諸国を巡る漂泊の旅に出ました。ですから彼の歌にはもともと宗教性があるのですが、ここでも月を清浄な悟りの境地の象徴として理解しているわけです。
 月に神秘性を感じ取る歌は、『万葉集』にも見られます。特に、欠けてもまた回復することから、不死の霊力を持つものという理解がありました。しかし平安中期以降の宗教的な月の歌は、これらの歌のように仏教的な視点によるものであることが相異しています。
 この仏教的要素は、多分に平安中期以降に流行し始めた浄土信仰によるものと言えるでしょう。阿弥陀如来のおいでになる極楽浄土は、「西方極楽浄土」と言われるように西の彼方にあるとされています。そして月が西の山の端に沈むことは、極楽浄土に往生することを連想させたのです。
 そのような月が西に行くことを詠んだ歌を並べてみましょう。
  ⑥ 諸共に同じ憂き世にすむ月のうらやましくも西へゆくかな       (後拾遺 雑 868)
  ⑦西へゆく心は我もあるものをひとりな入りそ秋の夜の月        (金葉集 雑 580)
  ⑧阿弥陀仏(あみだぶ)ととなふる声に夢さめて西へ流るる月をこそ見れ (金葉集 雑 630)
  ⑨闇はれて心の空にすむ月は西の山辺や近くなるらん          (新古今 雑 1978)  ⑩教へおきて入りにし月のなかりせば西に心をいかでかけまし      (新古今 雑 1995)
⑥は、私と同じ憂き世に住んでいるのに、月は羨ましいことに西の方に行くのだなあ、という意味です。⑦は、私にも西方極楽浄土を求める心はあるけれど、私を置いて一人で先に西の山の端に入ってしまうなよと、月に呼びかけているわけです。⑧は、念仏の声を聞いて迷いの夢も覚め、西の方に流れて行く月を見ることである、という意味です。⑨は西行の歌で、煩悩の闇が晴れて、心の中に澄みきって住んでいる月は、西の山の端に近くなっているのだろうか、という意味です。清浄な仏性を月に譬えているわけで、自分自身の往生が近くなっているのだろうかと思ったのでしょう。⑩は、教えを遺し置いて入滅された釈尊がいなかったならば、どうして西方極楽浄土を心に掛けることがあったでしょうか、という意味です。ここでは月は涅槃に入った釈尊の譬えとなっているわけです。
 このような歌は『後拾遺和歌集』以後に急増します。『後拾遺和歌集』は白河天皇の勅撰で、11世紀末の成立ですから、すでに浄土信仰が盛んになっていました。当時の人々の信仰的関心事は、如何にして西方極楽浄土に往生するかということでしたから、西の山の端に沈むように西に流れて行く月を、西方極楽浄土に往生することの象徴として理解したのです。現代人はこのような信仰をほとんど失ってしまっています。ですから月を見てもそのような心は湧いてきません。しかしもし古歌を深く理解しようと思うならば、信仰的視点を欠いては本当の意味で理解できない歌もあることを知らなければなりません。特に西行の歌などはそうです。信仰するか否かはともかくとして、解釈に当たっては、信仰的視点を失ってはならないのです。

クリスマスの違和感

2015-12-16 14:16:45 | 年中行事
 クリスマスが近づいてきます。しかしキリスト教徒のはしくれである私は、次第に憂鬱になってくるのです。日本中がキリスト教国になったような馬鹿騒ぎで盛り上がり、その心に触れようとする人が極めて少ないからです。サンタクロース、ケーキ、パーティー、プレゼント、ディナー、セール、等々、クリスマスにこと寄せて、狂騒の12月後半が過ぎて行きます。それが悪いとまでは言いませんが、主(あるじ)のいないクリスマスにふと虚しさをおぼえるのです。
 また前日の24日をクリスマス・イヴと称して、クリスマス当日よりも大騒ぎをします。否、それどころか25日にはもうクリスマス関連の行事の大半は終了してしまい、残りの一週間は正月を迎える準備一色に染まってしまうのです。イエス・キリストは何所においでになるのでしょうか。
 そもそもクリスマスとは、「キリストのミサ」に由来する言葉で、「キリストにささげられたミサ」、つまりキリストの誕生を祝ってささげられた礼拝を意味しています。ですから降誕を記念する祭日ではあっても、イエスの誕生日というわけではありません。第一、新約聖書にはイエスが生まれた時季や日について、一切記されていないのです。
 12月25日にイエスの誕生を祝う祭が行われるようになったのは、確実な史料によれば、遅くとも西暦345年にローマの教会で始まったとされています。実際の降誕から約300年も後の話です。12月25日という日付については、ローマ帝国で盛行していたミトラ教の冬至祭に由来すると考えられています。ミトラ教とは、太陽神ミトラを主神とする宗教で、ヘレニズムの文化交流によってインドやペルシャからローマ帝国に伝えられ、紀元前1世紀から5世紀にかけて盛行しました。まだまだよくわからないことが多いのですが、ミトラ教には冬至の頃に太陽の復活を祝う習慣がありました。冬至は太陽が最も弱くなるように見えますが、しかしこの日を境にして太陽は生まれ変わり、再び力を回復します。ミトラ教では、12月25日に「絶対不敗の太陽の誕生日」を祝う祭が行われていたのです。
 一方、旧約聖書の最後の巻であるマラキ書4章には、メシア(ヘブライ語でキリストに相当する言葉)が「義の太陽」と記されています。キリスト教が迫害されながらも次第にローマ帝国内に浸透し、西暦313年にはコンスタンティヌス大帝によって公認されるに至ると、ミトラ教は次第に衰退して行きますが、その過程で、ミトラ教の太陽神の祭がキリストを太陽に譬えるキリスト教と習合し、12月25日がイエスの降誕を祝う祭にすり替わっていったと考えられています。キリスト教徒の側で、信仰の浸透を図るために、意図的にミトラ教の祭日を利用したという可能性もあるでしょう。しかしその習合の過程で、初期のキリスト教徒の中には、ミトラ教の狂騒的な祭と混同されるのを嫌い、敢えて12月25日の祭日を祝うことを避けようとする心ある人達もいたそうです。私などはこの考えに近いと言えるでしょう。まあ家内がケーキを食べたいと言うので、一日遅れの値下げされた売れ残りを買ってくる程度のことはしますが。
 生徒にクリスマスはいつかと尋ねると、12月24日という答えがかなりありました。イヴと混同しているのでしょう。そもそも「イブ」とはどういうことでしょうか。ユダヤ教やローマ帝国の暦を受け継いだ教会の暦では、日没から一日が始まると考えられていました。ですからクリスマスは24日の日没から25日の日没までであります。イヴとは、eveningと同義語の古語であるevenの末尾の音が消失したものですから、クリスマス・イヴを強いて訳せばクリスマスの夕べという意味になります。一般に理解されているようなクリスマスの前夜祭ではないのです。
 

月天心(冬の月の高度)

2015-12-13 21:48:12 | その他
 もうすぐ冬至を迎えます。冬至といえば、柚子湯や南瓜やこんにゃくのことが話題になるでしょう。また昼間の長さが最も短いことや、太陽高度が最も低いことを改めて確認することでしょう。しかし月の高度が高いことにまで思いを馳せる人は少ないのではないでしょうか。

 太陽の高度は直接気候や気温に大きな影響を与えます。夏至の頃の南中時の太陽高度は約80度もあり、真上に近い角度からがっと照らすので暑くなるということを、誰もが体験的に理屈抜きで理解しています。(逆に冬至の頃では約30度しかありません。)しかし月の高度については、実生活に取り立てて影響もないので、関心を持つ人はあまりいません。難しい天文学的な説明は私には自信がないので省きますが、太陽の高度が高い時期の月の高度は低く、反対に太陽の高度が低い時期の月の高度が高いのです。

 2012年の国立天文台のデータによれば、春分の日に近い4月7日の満月の南中高度は39.3度、夏至に近い7月4日の満月の南中高度は36.3度、秋分の日に近い9月30日の満月の南中高度は65.4度、冬至に近い12月28日の満月の南中高度は73.6度だそうです。詳しい説明が必要ならば、「月の高度」と検索すれば、いくらでも見つかるので、調べてみて下さい。

 現代人は中秋の頃の月を愛でることはあっても、冬至の頃の高度の高い寒月を特に注目することはありません。確かに高度の高い月を眺めるには真上を見上げなければならないので、縁側に坐って眺めるには首が疲れてしまいます。また月の光が部屋の中まで入ってくることもほとんどありません。かと言って夏至の頃の月では高度が低すぎて、空を見上げるという感じになりません。秋分の頃の月の高度が、空を見上げて愛でるには、ちょうどよい角度なのかもしれません。しかし古歌の中には、冬の月を詠んだ歌がたくさんあります。特に『新古今和歌集』にまとまっています。古人は高度の高い冬の月も、それなりに愛でていたのです。冬の月、つまり寒月の和歌については、いずれお話をするつもりですが、もう少々時間を下さい。

 月が空の真中から照らしていることを「月天心」と言います。「天心」とは空(天)の真中という意味ですから、この場合の月は冬の月が最も相応しいと思います。「月天心」という表現がいつ頃から表れるのか、勉強不足でよくわからないのですが、宋の邵康節(しようこうせつ)の「清夜吟」という詩に「月天心に到る処、風水面に来る時、一般の清意の味、料り得たり人の知ること少なるを」と詠まれていました。どちらにしても和歌のうたことばではなさそうです。

 日本の文芸では、与謝蕪村が「月天心 貧しき町を 通りけり」と俳諧に詠んでいます。句を解説したものを読んでみると、月は秋の季語であり、秋の句であるとのこと。蕪村の一周忌に弟子の几薫が編集した『蕪村句集』に載せられていて、明和5年8月2日に詠まれたとのことです。もしそれが事実ならば三日月に近い形ですから、見上げるような月ではないことになります。また天球の中央に見える月ではありません。本来の月天心とはかけ離れた月としか言えません。蕪村はなぜそのような月を天心の月と表現したのか、何かわけがあるのでしょう。

 私の感想に過ぎませんが、「天心」という表現や、「貧しき町」という個性的な表現に相応しいのは、私は冬の高度の高い月の方がよいのではないかと感じてしまいます。実際には明和5年の秋に詠んだのかもしれませんが、文芸作品というものは、作者の手を離れたら、観賞する人の心次第で受け取り方もいろいろあってよいと思います。

 蕪村には『夜色楼台図』という国宝の絵画があります。家々が並ぶ京都の町にしんしんと雪が降り積もる光景が描かれているのですが、私にはこの絵と「月天心 貧しき町を 通りけり」という句が重なって見えてしまうのです。もしご覧になったことがない方は、インターネットで見られますから、是非とも検索してみて下さい。

 「月天心」と検索すると、一青窈という歌手の「月天心」という歌に関わる情報や、和菓子のことばかりが載っています。歌の歌詞を読んでみましたが、なかなか解釈の難しい歌ですね。今時の歌を聞くことはほとんどないため、その歌のことは全く知りませんでしたので、とても驚きました。もちろんとてもよい歌だとは思いましたが、その歌があまりにも有名なため、「月天心」の本来の意味が知られなくなってしまうことがあってはならないと思います。

 冬の月には「孤高」の印象があります。それは寒さによることもあるのでしょうが、やはりその高度によるところが大きいのではないでしょうか。また月の色は光の波長により拡散に差があることから、高度が低いと赤っぽく見え、中くらいだと黄色に、高いと白っぽく見えます。やはり白っぽい色の方が、「孤高」の印象が強くなるでしょう。平成27年12月の満月は、ちょうどクリスマスの25日です。クリスマスと言えば星が気になるところでしょうが、今年は是非満月の高度をお楽しみ下さい。





氏姓制度の名残の苗字

2015-12-12 21:05:03 | 歴史
氏姓制度の学習は、何回やっても手こずる。教えている自分自身でも自信がない。まして生徒には退屈だったと思う。ただ一つ生徒が面白がったのは、部民制による苗字である。職業部民や伴造の中には、職掌をそのまま氏の名としているものがあり、身近にそのような苗字を見かけるからである。
 そもそも部とは、大王家や豪族に隷属する労働集団のことで、その集団に属する者が部民である。部には、大王家の生活の資を貢納する子代・名代、屯倉を耕作する田部、豪族に隷属する部曲、また特定の職掌によって代々大王家に奉仕する品部などがあった。その品部を統率する官人の集団を伴といい、その伴の首長を伴造という。部の呼称は、律令制の下で戸籍が造られるようになると、単なる個人の姓に過ぎなくなり、苗字として現代に伝えられたわけである。
 部の呼称には職掌を示すものが多く、それがそのまま苗字となって残っているものがあるので、職掌に起源をもつ苗字を拾い出してみよう。

○矢を作る      矢作・矢部

○弓を作る      弓削・弓下・弓部

○衣服を作る     服部・服部・服

○土師器を作る    土師

○陶器を作る     陶部・陶

○狩猟・漁労・飼育  犬養・犬飼・鳥飼・鳥養・鵜飼・猪飼・馬飼・池部

○田の耕作      田部・田辺・田名部・田野辺・多辺

○海産物の貢納    海部・磯部・磯・安住・安曇

○山林での業務    山部・山辺 

○料理を作る     膳・柏・柏葉

○川を渡す      渡・渡部・渡辺

○錦を織る      錦織

○神を祀る      神部・忌部・卜部・占部・中臣

○軍事や警備     物部・大伴・大友・久米          

 個人的なことであるが、私の住んでいた町の駅前に、「はとり屋」という服屋があった。また「服部」と書いて「はっとり」と読む友人がいた。何の脈絡もないことであったが、高校の授業で服をつくる職業部民を「服部」(はとりべ)ということを学んだとき、両者が漸く結びついて納得した思い出がある。大和言葉で「服」を「はとり」と称したのに(「はとり」とは本来は「機(はた)織(おり)」のこと)、「服部」と書いて「はとり・はっとり」と読むのは、「べ」の音が省略されても、「部」の文字が残ったものであることに気づいたのである。これは私にとって新鮮な歴史的感動であった。何しろ苗字の種類がやたらに多い日本のことであるから、上記の苗字を持つ生徒が必ず教室にいるとは限らない。しかし身近なところにそれらの苗字を持つ人を知っていることであろうから、同様な経験をさせることは可能である。そこから難解な氏姓制度も、少しは身近になるのではなかろうか。

日本史の最初の授業

2015-12-10 14:54:49 | 歴史
 さあて、これから一年間日本史の授業をするに当たって、少し話しておきたいことがある。まず日本史を好きか嫌いかきいてみよう。いいかい、必ずどちらかに手を挙げるんだよ。それじゃあ、まずは好きな人は?、えっ、これしかいないの。びっくりしたなあ。それじゃあ、嫌いな人は?、むむ、こんなにいるの。参ったなあ。でもまあいいでしょう。嫌いな理由をきいてみようか。はいAくん。「覚えることが多すぎるから」。成る程ねえ。確かに多いね。次はBさん。「興味ないし、関係ないし」。確かにそりゃそうだ。その時、頼朝が何をしようと、家康がどうしようと、君に直接の関係はないよね。みんなが興味があるのは、彼氏・彼女のこと、食べること、進路のことなど、まあ当然のことだね。でもね、歴史ってとっても大事なことなんだよ。日本史の授業が嫌いというなら、私の責任も大きいけれど、それはそれでいい。でもね、「歴史なんてどうでもいい」と言うなら、それは絶対に認めるわけにはいかないのだ。それはこういう訳だ。
 私たちは今薄っぺらな「現在」という時間のうえに立っている。こうしてお話しているうちに、一分前は現在であったものが、既に過去になってしまう。それ程に現在というものは、薄っぺらなものなのだ。その下には「過去」という祖先の積み重ねてきた「歴史」が隠れている。「現在」という薄皮が覆っているので、一寸見渡しただけでは「過去」の「歴史」は見えないけれど、もし「歴史」がなかったら、「過去」の蓄積がなかったら、「現在」というものは存在できない。薄皮一枚の「現在」は、「歴史」という「過去」の上にあって、初めて存在できるわけだ。もし「歴史」なんてどうでもよいと突っ張るならば、私たちの祖先が残してくれた物の恩恵に一切頼らずに、「現在」を生きてごらんなさい。早い話が、漢字も平仮名も、みな祖先が残してくれた文化の積み重ねだ。身の回りの一切の道具もすべてそうだ。
 もうわかったでしょう。私たちは誰一人として「歴史」の恩恵に依らないでは生きて行けないのだ。繰り返して言う。日本史の授業は嫌いでもよろしい。しかし日本人として、「日本の歴史なんかどうでもよい」ということは、絶対に言ってはならないのだ。「現在」という薄皮に覆われているため、日常生活の中では「歴史」というものをを実感することはあまりない。しかし「現在」は本当に一瞬の薄い膜のようなものだから、よくよく目をこらして見ると、その陰に「歴史」を見て取ることができるのだ。
 例えば、私たちは漢字を使っている。しかし「漢字」という文字をよくよく見てごらん。「中国の字」という意味だ。私たちは外国の文字で日本語を書いている。もちろん平仮名も片仮名も使っているけれど、それさえも漢字がもとになっている。日本人がいつから漢字を使うようになったか、大いに議論のあることだが、とにかく大和時代の初め頃、渡来人が日本に来て、「文字」とその読み方を伝えた。しかし日本人はすでに大和言葉とも言うべき言葉を持っていたから、それぞれの漢字にその大和言葉を当てはめ、それが訓読みになった。そして同時に渡来人から伝えられた読み方も受け入れ、それが音読みになった。原則として漢字に音読みと訓読みがあるのは、そういうわけだ。もっとも正確に言えば、もっと後の遣唐使の頃や、鎌倉時代に伝えられた音もあるので、すべての音読みが大和時代の大陸文化を採り入れたことに由来するとは言い切れないけれど・・・・・。
 いいかい、よく考えてごらん。漢字・音読み・訓読みということに普段は歴史を感じることはまずないだろうが、あらためて考えてみれば、これはすばらしい文化遺産なのだ。何しろ外国の文字と発音を受け容れ、民族独自の言葉と融合させてしまったのだから。
 もう一つ例を挙げてみよう。教科書の文字をよく見てごらん。このような書体を何と言うか。ほら、ゴシック体とかポップ体とか言うように。「明朝体」。そうだな、明朝体。パソコンの授業で習ったはずだから、名前を知らない人はいないはずだ。ところで「明朝体」とはどのような意味だろうか。「明るい朝」。なるほどね、確かにそういう意味がありそうにも見える。ところが「明るい朝」は全く関係ない。そもそも「明るい朝」と「書体」には、何の脈絡もないではないか。これは中国の「明朝で用いられた書体」という意味なんだ。江戸時代の初期に、明から隠元という禅僧が渡来し、黄檗宗という新しい禅宗を伝えてくれた。そして多くの経文が版木に彫られて出版されたのだが、その書体が明朝体だ。特徴は、横画が細くて、その右端が三角形に少し盛り上がっている。そして縦画はやや太いことにある。漢字は概して縦画より横画が多いため、画数が多い字でも余白があって読みやすい。新聞に用いられるような小さな文字には、打って付けというわけた。
 漢字の音読みをするたびに、明朝体の漢字を見るたびに、大陸文化の受容や隠元・黄檗宗を連想する人はいない。さすがの日本史大好きな私でもそうだ。しかし改めて振り返ってみると、現代生活の中に、歴史の痕跡が隠れていることに気が付くだろう。このように現代の私たちの生活は、全て祖先が残してくれた歴史の積み重ねの上に成り立っていることがわかるだろう。こういうことに心を留めながら、一年間話をするつもりだ。君たちはきっと、歴史はどうでもよいものではなく、現代を支えている大切なものであることがわかってくれることと思う。そしていずれ私も君たちもその歴史の一部になって行く。また、現代の生活の中には、身近なところに歴史の痕跡がたくさんあることに気が付くことと思う。それに気が付きはじめると、きっと歴史の勉強が楽しいものになってくると思う。