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聖徳太子と留学生

2015-12-01 09:24:01 | 歴史
最近の歴史の教科書では、聖徳太子という表現を避け、厩戸皇子としているようですが、私のような骨董品にとっては、聖徳太子は聖徳太子。他の言い方はどうもピンと来ません。まあここは厳密な学術的文章でもなく、まして教科書でもないのですから、大目に見ていただきましょう。
 推古天皇の16年、西暦608年、小野妹子は前年に引き続いて再び隋に派遣されました。その時、8人の留学生・学問僧が随行しました。 608年に遣隋使小野妹子が派遣された時には,高向玄理や南淵請安,旻など8人の留学生・学問僧が随行しました。『日本書紀』は留学生たちについて次のように記しています。
  是の時に唐(中国の一般的名称であって、王朝としての唐ではない)の国に遣はすは、学生倭漢直福因  (やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)・高向漢人玄理(たかむくの  あやひとげんり)・新漢人大圀(いまきのあやひとおおくに)・学問僧新漢人日文(いまきのあやひとに  ちもん)・南淵漢人請う安(みなみぶちのあやひとしょうあん)・志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)  ・新漢人広済(いまきのあやひとこうさい)等并(あわせ)て八人なり。
 多くの留学生に共通している「漢人」「新漢人」とはいったい何でしょうか。5世紀初めの応仁朝には、王仁・阿知使主・阿直岐・弓月君ら多くの渡来人がやって来ました。そしてさらに6~7世紀には継体朝・欽明朝の頃、五経博士、易・暦・医博士が渡来。仏教も伝えられました。漢人とは、これらの多くの渡来人の中で、早い段階で渡来した人々のこと。新漢人とは、少し遅れて渡来した人々を指すものと理解してよいでしょう。特に「新漢人」は「今来漢人」とも記され、新参であることを意味しています。
 留学生として「漢人」や「新漢人」が選抜されたということは、高校の教科書ではそこまでは触れられていないのですが、とても重要なことだと思います。留学という以上、言葉の問題があります。私自身、大学を卒業してから1年間、イスラエルという、一般的には留学する人の多くはない国に行きましたので、言葉の問題は身にしみて理解できます。もちろん彼らは優秀な若者だったに違いありません。言葉の習得も早かったことでしょう。しかし彼らはみな渡来人の子孫であったと思われるのです。彼らの親か祖父の代に、渡来してきたのでしょうか。そうだとすると、彼らはある程度は祖先の言葉や文字を理解する力を持っていたと考えるのが自然でしょう。このことは、高校の授業で、もっと触れてよいことだと思います。
 さてそこで聖徳太子の登場です。遣隋使の話が持ち上がったとき、当然、優秀な若者を留学させようという話も出たはずです。その選抜には当然のことながら、聖徳太子も関わったはずです。聖徳太子が選ばれた若者たちに何を語ったか、若者たちがどのようなことを考えたかについて、史料は何も語ってくれません。しかし彼らとて私達と同じ感情をもった人間ですから、もし私がその立場に置かれたら考えそうなこと、言いそうなことを彼らも考えたことでしょう。
 聖徳太子は、きっとこんなことを話したに違いありません。「あなたたちを遠く唐(もろこし)に送るに当たり、お話ししておきたいことがあります。まずあなたたちは自分の個人的な願いで行くわけではありません。あなたたちが彼の地で学ぶことが、将来の我が国の国作りに役に立つよう、国家的使命を帯びて行くのです。隋の国には、律令という法律が整えられ、均田制という田地を農民に分け与えて税を集める制度が整えられるなど、着々と国作りが進んでいると聞き及んでいます。一方我が国はというと、あらゆることでまだまだ遅れをとっています。あなたたちは彼の地で鋭意それらを学び、いつの日にか帰国して、役に立つように活躍してくれるよう、心から願っています。しかし言うのはたやすいのですが、現実は大変な困難を伴うでしょう。そもそも無事に船が着くかどうかもわかりません。あるいは海の藻屑と消えるかもしれないのです。無事に着いたとしても、帰国がいつになるのか、全く見当も着きません。生活習慣の全く異なる所で学ぶことは、言葉の習得から始まって、困難の連続でしょう。彼の地で病に倒れ、ついには彼の地の土となるかもしれません。親の死に目にも遭えない可能性があります。また結婚どころではないでしょう。そのような困難な中に行くことを敢えて志願したあなたたちは、実に頼もしい存在です。どうぞ健康に留意しつつ、所期の目的を達して、いつの日か無事に帰国することが出来ますよう、仏様がお守り下さいますよう祈念しています。」こんな話をした証拠は何もないのですが、その程度のことはきっと話したことと思います。
 一方、若者たちは何を考えたでしょうか。皇子様のお話に、身震いするような感動を覚え、決意を新たにしたことと思います。親や肉親や親しい人達と、涙の抱擁があったことでしょう。これが最後になる可能性があったのですから。そして渡来人の子孫として、祖先の国に行くことに、特別の感慨も持ったことでしょう。私の祖先の国は、いったいどのような国なのだろうかと。また、親や祖父から聞かされていたことを見ることが出来るのですから。
 彼らは無事に隋に到着し、早速研修を始めたことでしょう。ところが隋に渡って10年もした頃、618年、大変なことになってしまいました。隋が滅亡してしまったのです。日本人留学生たちは、どうしたものかと相談し合ったに違いありません。もう10年間も学んだのだから、帰国してもよいのではと思ったはずです。しかし政情は大混乱しているため、帰国の船の目処も立ちません。しかしあれよあれよと言う間に、隋に替わって唐が建国されました。そして隋に優る律令制などの政治制度を整え、計画的に造営された長安の都は、国際都市として発展して行きます。留学生たちは、帰国したいという気持ちは吹き飛んでしまったに違いありません。隋もすばらしかったけれど、唐はさらに優れている。これを学ばずして、いったい何を学ぶというのだろうか。そう思うと彼らの意欲はますます盛んになったに違いありません。
 しかし故郷を離れてから相当の年月が流れてしまいました。自分たちに期待を寄せて送り出してくれた聖徳太子が既に亡くなったことは、風の噂で聞いたことでしょう。学んだことを帰国して新しい国作りに役立ててこそ、長年異国で学んだ意味があります。彼らは何とかして帰国しようと焦ったに違いありません。結局、旻は26年ぶりに632年,高向玄理と南淵請安は32年ぶりに640年に帰国しました。20歳で日本を出たと仮定しても、40歳・50歳を越えています。
 帰国後,南淵請安は中大兄皇子(後の天智天皇)の学問上の師となり、政治の表舞台に立つことはありませんでした。『日本書紀』の皇極天皇3年には、「中臣鎌子連(鎌足)・・・・(中大兄皇子と)倶に手に黄巻(書物のこと)をとりて、自ら周孔の教(儒教のこと)わ南淵先生の所に学ぶる遂に路上、往還(かよ)ふ間に、肩を並べて潜(ひそか)に図る。」と記しています。孔子の教えを学ぶというのは、表向きの口実だったでしょう。実際には、唐の律令制などを手本として、如何にして我が国の国作りをしたらよいか、助言を求めたに違いありません。
 そしていよいよ645年の乙巳の変とはなるのです。高向玄理と旻は645年の乙巳の変の後の大化改新政府では、政治顧問役として国博士となります。いよいよ彼らが学んできたことが活かせる時が来ました。具体的に彼らがどのような活躍をしたかはわかりません。しかしその後の日本の律令制確立を見れば、彼らの助言亡くして実現は不可能だったことは疑う余地はありません。聖徳太子が播いた種は、こうして見事に花開いたのでした。