お月見にお供えするものは、江戸時代以来現在もあまりかわっていないようです。主役は月見団子で、その他には里芋やすすき(芒、薄)を供えるのが最も一般的です。1803年に出版された『俳諧歳時記』には、「芋と枝豆とを盛り、并に神酒・尾花を月に供し、或は互に相贈る」と記されているように、里芋・枝豆・神酒・尾花(すすき)を供えることが記されています。
秋に「芋」といえば、現代では薩摩芋も含まれますが、江戸時代には一般には里芋を指していました。小さな里芋の皮を剥かずに茹でると、皮がつるりと剥けるので、これに味噌などをつけて食べるのですが、一般には「衣かつぎ」と呼ばれています。しかし語源的にはこれは誤りで、本来は「衣かづき」と言うべきものです。「衣かづき」は「衣被き」と書き、貴婦人が外出する際に、顔を隠すために被り物として用いた単衣(ひとえ)のことです。里芋の皮をこれに見立てたものですから、「衣かづき」でなければならないのに、いつの頃からか「衣かつぎ」になってしまいました。「衣担ぎ」では意味が全く異なってしまいます。しかし誤用がもう定着してしまっていますから、今さらどうしようもありません。目くじらを立てて訂正するのも大人気ないと思います。それでももし「衣かづき」と正しく用いて、それを誤用だと指摘されることがあれば、本来は正しい呼称であると説明してもよいでしょう。ただ「絹かつぎ」だけはどうしても頂けません。「衣」は古来「きぬ」と読まれてきました。「絹」は同音でも、意味が全く異なります。
1838年に出版された『東都歳事記』には、家々に団子・造酒・すすきを供えると記されています。大坂町奉行所に在職した久須美祐雋(すけとし)という人が、安政三年(1856)から文久三年(1863)年にかけて書いた随筆『浪花の風』には、大坂でも江戸と同じように団子を作ること、そして団子にきなこかあんを付けて食べること、また芋を食べるので芋名月というと記されています。三宝に供える最初からきな粉や餡を付けておくのではなく、おそらくは後で食べる時に付けたのでしょう。
喜田川守貞という人が1837年から30年をかけて書き続けた『守貞漫稿』という書物には、江戸・京・大坂の月見の様子が詳細に記されています。江戸では、机上に据えた三方に団子を盛り、また花瓶に必ずすすきを生ける。京・大坂ではすすきもその他の花も供えない。机の上の三方に団子を盛るには江戸と同じだが、団子の形が小芋のように少し尖らせるようにこしらえる。そして豆粉(きな粉?)に砂糖を加えて団子にまぶし、醤油で煮た小芋と一緒に、12個を盛って三方にに載せる。閏月のある年には13個を盛る、ということです。上方ではすすきは供えないとされています。また団子の数をその年の月の数だけ供えるとしていることは注目されます。現代では十五夜に因んで、15個供えることが一般的だからです。団子の形は里芋のように少し尖らせるというのも、なかなか面白いですね。現代では、葬儀用の枕団子と同じようにならないように、真丸ではなく少し押し潰すというやり方もあるそうですが、満月なのですから、私なら真丸がいいですね。まあ好き好きでよいのでしょう。
江戸時代にもすすき(芒、薄)を供えていたというのは、嬉しいことですね。「すすき」を知らない日本人はまずいないでしょうが、実はこれが少々怪しいのです。本人はすすきと思っていても、そっくりのおぎ(荻)である場合がとても多いからです。荻という字は荻野・荻原・荻窪・荻島など、人名にはよく見られるのですが、植物としての「おぎ」を知っている人は少ないのではないでしょうか。「すすき」なら知っているという人でも、正確に「おぎ」と区別して知っているかと言えば、それもいささか怪しいのです。
まず「おぎ」は河川敷や水田の近くなど、湿地に近いところに群生しています。しかし「すすき」はそれより乾燥気味の所に株立ちして生育します。河川堤防の上部には「すすき」が、下部には「おぎ」がという程度に、両者の生育場所が近接することはありますが、完全に混生することは普通はありません。また「おぎ」は長い地下茎を縦横に伸ばし、その節ごとに茎が伸びてくるので、あたり一面に群生しています。それに対して「すすき」にはそのような発達した地下茎がなく、株を作って繁茂します。一面に生えているように見えても、株ごとに独立しているのです。そう言うわけで、生えている場所と、株立ちするか否かで、100m離れた所からでも区別ができます。
ところがそれぞれの穂を採ってきて見せられると、生育場所や株立ちしているかどうかはわからないので、別の方法で区別しなければなりません。しかしこれも区別は簡単です。穂は長さ1㎝にも満たない毛針のような小花が連なってできていますが、それをルーペで拡大して見ると、「すすき」には1本だけ長いのぎ(禾)があるのに対して、「おぎ」にはそれがありません。「おぎにのぎなし、すすきにのぎあり」と覚えておきましょう。すすきと間違えておぎを供えてもまあ同じようなものですが、この際に区別も覚えておきましょう。水田や沼地など水辺に近い所で採って来た場合は、荻である場合があるものです。
ネット上には、すすきを供える理由について、諸説が説かれています。曰く、月の神を招くため、収穫感謝のため稲穂が実る前なので稲穂に見立てて、月の神の依り代として、茎が中空のため神の宿り場になると信じられていたので、すすきの鋭い切り口が魔除けとしてなど、いろいろありました。中には供えるススキは1本が正式であるなどというのもありました。しかし史料的根拠を示している解説は皆無です。少なくとも古代から中世にかけて、月の神を招き下ろして祀るという信仰は、普遍的にはありません。収穫感謝なら新嘗祭がありますし、中空に神が宿るという信仰も普遍的にはありません。「・・・・と言われています」では根拠になりません。そのような伝承があったという確かな根拠が必要です。地域の高齢者がそう言っていたということはあるかもしれませんが、それがどこまで遡るのかわからない以上、その地域ではそうであっても、普遍性があるものとは言えないからです。なぜすすきを供えるのかということについては、残念ですが不明としか言えません。
中秋の名月のほぼ一カ月後、旧暦10月13日の月を「十三夜」と称して愛でる風習があります。これについては別にお話しするつもりですが、豆(大豆)や栗を供えるため、「豆名月」とか「栗名月」とも呼ばれます。つまり秋の名月には豆や栗も供えることがあったということです。前掲の『俳諧歳時記』にも、8月15日ではありますが、「枝豆」を供えるものとされていました。こうして見ると、お月見の供え物は、それ程種類が多くはなさそうです。しかしそれは歴史的にというだけのことであって、団子と里芋と豆とすすきの他に、季節のものをいろいろ供えたらよいのでしょう。
秋に「芋」といえば、現代では薩摩芋も含まれますが、江戸時代には一般には里芋を指していました。小さな里芋の皮を剥かずに茹でると、皮がつるりと剥けるので、これに味噌などをつけて食べるのですが、一般には「衣かつぎ」と呼ばれています。しかし語源的にはこれは誤りで、本来は「衣かづき」と言うべきものです。「衣かづき」は「衣被き」と書き、貴婦人が外出する際に、顔を隠すために被り物として用いた単衣(ひとえ)のことです。里芋の皮をこれに見立てたものですから、「衣かづき」でなければならないのに、いつの頃からか「衣かつぎ」になってしまいました。「衣担ぎ」では意味が全く異なってしまいます。しかし誤用がもう定着してしまっていますから、今さらどうしようもありません。目くじらを立てて訂正するのも大人気ないと思います。それでももし「衣かづき」と正しく用いて、それを誤用だと指摘されることがあれば、本来は正しい呼称であると説明してもよいでしょう。ただ「絹かつぎ」だけはどうしても頂けません。「衣」は古来「きぬ」と読まれてきました。「絹」は同音でも、意味が全く異なります。
1838年に出版された『東都歳事記』には、家々に団子・造酒・すすきを供えると記されています。大坂町奉行所に在職した久須美祐雋(すけとし)という人が、安政三年(1856)から文久三年(1863)年にかけて書いた随筆『浪花の風』には、大坂でも江戸と同じように団子を作ること、そして団子にきなこかあんを付けて食べること、また芋を食べるので芋名月というと記されています。三宝に供える最初からきな粉や餡を付けておくのではなく、おそらくは後で食べる時に付けたのでしょう。
喜田川守貞という人が1837年から30年をかけて書き続けた『守貞漫稿』という書物には、江戸・京・大坂の月見の様子が詳細に記されています。江戸では、机上に据えた三方に団子を盛り、また花瓶に必ずすすきを生ける。京・大坂ではすすきもその他の花も供えない。机の上の三方に団子を盛るには江戸と同じだが、団子の形が小芋のように少し尖らせるようにこしらえる。そして豆粉(きな粉?)に砂糖を加えて団子にまぶし、醤油で煮た小芋と一緒に、12個を盛って三方にに載せる。閏月のある年には13個を盛る、ということです。上方ではすすきは供えないとされています。また団子の数をその年の月の数だけ供えるとしていることは注目されます。現代では十五夜に因んで、15個供えることが一般的だからです。団子の形は里芋のように少し尖らせるというのも、なかなか面白いですね。現代では、葬儀用の枕団子と同じようにならないように、真丸ではなく少し押し潰すというやり方もあるそうですが、満月なのですから、私なら真丸がいいですね。まあ好き好きでよいのでしょう。
江戸時代にもすすき(芒、薄)を供えていたというのは、嬉しいことですね。「すすき」を知らない日本人はまずいないでしょうが、実はこれが少々怪しいのです。本人はすすきと思っていても、そっくりのおぎ(荻)である場合がとても多いからです。荻という字は荻野・荻原・荻窪・荻島など、人名にはよく見られるのですが、植物としての「おぎ」を知っている人は少ないのではないでしょうか。「すすき」なら知っているという人でも、正確に「おぎ」と区別して知っているかと言えば、それもいささか怪しいのです。
まず「おぎ」は河川敷や水田の近くなど、湿地に近いところに群生しています。しかし「すすき」はそれより乾燥気味の所に株立ちして生育します。河川堤防の上部には「すすき」が、下部には「おぎ」がという程度に、両者の生育場所が近接することはありますが、完全に混生することは普通はありません。また「おぎ」は長い地下茎を縦横に伸ばし、その節ごとに茎が伸びてくるので、あたり一面に群生しています。それに対して「すすき」にはそのような発達した地下茎がなく、株を作って繁茂します。一面に生えているように見えても、株ごとに独立しているのです。そう言うわけで、生えている場所と、株立ちするか否かで、100m離れた所からでも区別ができます。
ところがそれぞれの穂を採ってきて見せられると、生育場所や株立ちしているかどうかはわからないので、別の方法で区別しなければなりません。しかしこれも区別は簡単です。穂は長さ1㎝にも満たない毛針のような小花が連なってできていますが、それをルーペで拡大して見ると、「すすき」には1本だけ長いのぎ(禾)があるのに対して、「おぎ」にはそれがありません。「おぎにのぎなし、すすきにのぎあり」と覚えておきましょう。すすきと間違えておぎを供えてもまあ同じようなものですが、この際に区別も覚えておきましょう。水田や沼地など水辺に近い所で採って来た場合は、荻である場合があるものです。
ネット上には、すすきを供える理由について、諸説が説かれています。曰く、月の神を招くため、収穫感謝のため稲穂が実る前なので稲穂に見立てて、月の神の依り代として、茎が中空のため神の宿り場になると信じられていたので、すすきの鋭い切り口が魔除けとしてなど、いろいろありました。中には供えるススキは1本が正式であるなどというのもありました。しかし史料的根拠を示している解説は皆無です。少なくとも古代から中世にかけて、月の神を招き下ろして祀るという信仰は、普遍的にはありません。収穫感謝なら新嘗祭がありますし、中空に神が宿るという信仰も普遍的にはありません。「・・・・と言われています」では根拠になりません。そのような伝承があったという確かな根拠が必要です。地域の高齢者がそう言っていたということはあるかもしれませんが、それがどこまで遡るのかわからない以上、その地域ではそうであっても、普遍性があるものとは言えないからです。なぜすすきを供えるのかということについては、残念ですが不明としか言えません。
中秋の名月のほぼ一カ月後、旧暦10月13日の月を「十三夜」と称して愛でる風習があります。これについては別にお話しするつもりですが、豆(大豆)や栗を供えるため、「豆名月」とか「栗名月」とも呼ばれます。つまり秋の名月には豆や栗も供えることがあったということです。前掲の『俳諧歳時記』にも、8月15日ではありますが、「枝豆」を供えるものとされていました。こうして見ると、お月見の供え物は、それ程種類が多くはなさそうです。しかしそれは歴史的にというだけのことであって、団子と里芋と豆とすすきの他に、季節のものをいろいろ供えたらよいのでしょう。
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