彼岸には牡丹餅・お萩を食べる風習は、江戸時代からのものですが、最近はお盆にも店頭に並び、仏事の行事食となっています。もっとも店頭では牡丹餅よりお萩という表記が多いようですが。これは江戸時代後期に始まった風習で、滝沢馬琴の『馬琴日記』に記述があります。彼は甘いものが大好きだったと見えて、日記には菓子の記述がしばしば見られます。
彼岸に牡丹餅やお萩を食べる理由として、ネット情報には、「小豆の赤い色には魔除けの効果があると古くから信じられており、邪気を払う食べ物としてご先祖様にお供えされてきた」とか、「もち米とあんこの二つの物を合わせることが、ご先祖様の心と自分たちの心を合わせるという意味があるから」などと説明されていました。小豆が邪気を退ける呪力を持つと理解されてきたことは事実で、奈良時代の初め頃に中国から伝えられた『荊楚歳時記』という書物によって、日本の風習に採り入れられました。ですからそれ以来、慶事・凶事・節供などに際して、小豆粥や赤飯を食べる風習が現在まで伝えられています。凶事にも食べたことなど信じてもらえないかもしれませんが、江戸時代の書物にはそのように記されています。凶事を慶事に転じたいからこそ、南天を難を転ずると理解して添えていたわけです。
話を元に戻しましょう。小豆が魔除けであったことは事実ですが、それによって先祖に供えたことなどあるはずがありません。なぜなら、江戸時代には彼岸は参詣する日ではあっても、墓参をするという風習はまだなかったからです。また先祖に牡丹餅を供えることを記述した史料など、未だかつて見たことがありません。これがライフワークですから、相当な量の文献を探索していますが、その私も見たことがないのです。もっとも見落としがあるかもしれませんから、絶対とまでは言いませんが・・・・。
また「二つの物を合わせる」とういう説に到っては、出鱈目もこれ程までとはと、ただただ呆れるばかりです。二つの物からなる食物など、無制限にあるではありませんか。そのように書いている人は、その目で根拠となる史料を確認したことがあるのでしょうか。あるというなら示してもらいたいものです。仮にあったとしても、広く共有されていなかったことは動きそうもありません。
牡丹餅ではありませんが、彼岸に菓子を供える風習は江戸時代の初期からありました。『日次紀事』(1676年)という詳細な歳時記には、京の風習として、彼岸の最中に親戚に法要があれば茶菓を供え、また互いに贈り合うことが記されています。このように彼岸に供えたり相互に贈る菓子の一つとして、後に牡丹餅が流行るようになったものなのです。その史料を載せておきますので御覧下さい。
史料「彼岸に供える茶菓」
「凡(およそ)京師(けいし)の俗、彼岸の中、偶々(たまたま)親戚の忌日に逢はば、則ち茶菓を供してこれを祭る。その祭余の菓を以て互に相贈る。或は親戚朋友を請て茶菓を饗す。彼岸の中、菓子を称して茶子(ちやのこ)といふ。茶を点ずるを茶を立るといふ。麩(ふ)の焼(やき)を食ふを経を読むといふ。倭俗彼岸の中、専(もつぱら)仏事を作(な)す。」(『日次紀事』二月)
麩(ふ)の焼(やき)とは、水で溶いた小麦粉を薄く焼き、表面に味噌を塗って経巻の形に仕上げた物でその形により、これを食べることを「経を読む」といいました。千利休の茶会にもしばしば登場する京の銘菓です。
ついでのことですが、春の彼岸は牡丹餅、秋の彼岸はお萩というように、季節によって呼称を使い分けていたと思っている人が多いことでしょう。実はこれがとんでもない出鱈目なのです。私は長年歳時記の研究をしていますが、現在流布している歳時記などの理解には、とんでもない出鱈目な説が多いものですが、その中でも最たるものがこの牡丹餅とお萩の季節による呼称の使い分けです。出鱈目と言われて腹が立つなら、文献史料の根拠を示して欲しいものです。それが確かなものなら、潔く降参します。しかしそれを示せないなら、出鱈目の垂れ流しは止めてもらいたい。自分では何も調べもせず、食物史事典やウィキペディア程度の情報を検証もせずに摘まみ食いするのでその様なことになってしまうのです。
まずはブログ「うたことば歳時記 牡丹餅とお萩 流布説の誤り」を御覧下さい。流布説がいかにいい加減なものであるか、よく理解できるはずです。ネット情報は玉石混淆です。利用する側の力量も試されているわけです。
彼岸に牡丹餅やお萩を食べる理由として、ネット情報には、「小豆の赤い色には魔除けの効果があると古くから信じられており、邪気を払う食べ物としてご先祖様にお供えされてきた」とか、「もち米とあんこの二つの物を合わせることが、ご先祖様の心と自分たちの心を合わせるという意味があるから」などと説明されていました。小豆が邪気を退ける呪力を持つと理解されてきたことは事実で、奈良時代の初め頃に中国から伝えられた『荊楚歳時記』という書物によって、日本の風習に採り入れられました。ですからそれ以来、慶事・凶事・節供などに際して、小豆粥や赤飯を食べる風習が現在まで伝えられています。凶事にも食べたことなど信じてもらえないかもしれませんが、江戸時代の書物にはそのように記されています。凶事を慶事に転じたいからこそ、南天を難を転ずると理解して添えていたわけです。
話を元に戻しましょう。小豆が魔除けであったことは事実ですが、それによって先祖に供えたことなどあるはずがありません。なぜなら、江戸時代には彼岸は参詣する日ではあっても、墓参をするという風習はまだなかったからです。また先祖に牡丹餅を供えることを記述した史料など、未だかつて見たことがありません。これがライフワークですから、相当な量の文献を探索していますが、その私も見たことがないのです。もっとも見落としがあるかもしれませんから、絶対とまでは言いませんが・・・・。
また「二つの物を合わせる」とういう説に到っては、出鱈目もこれ程までとはと、ただただ呆れるばかりです。二つの物からなる食物など、無制限にあるではありませんか。そのように書いている人は、その目で根拠となる史料を確認したことがあるのでしょうか。あるというなら示してもらいたいものです。仮にあったとしても、広く共有されていなかったことは動きそうもありません。
牡丹餅ではありませんが、彼岸に菓子を供える風習は江戸時代の初期からありました。『日次紀事』(1676年)という詳細な歳時記には、京の風習として、彼岸の最中に親戚に法要があれば茶菓を供え、また互いに贈り合うことが記されています。このように彼岸に供えたり相互に贈る菓子の一つとして、後に牡丹餅が流行るようになったものなのです。その史料を載せておきますので御覧下さい。
史料「彼岸に供える茶菓」
「凡(およそ)京師(けいし)の俗、彼岸の中、偶々(たまたま)親戚の忌日に逢はば、則ち茶菓を供してこれを祭る。その祭余の菓を以て互に相贈る。或は親戚朋友を請て茶菓を饗す。彼岸の中、菓子を称して茶子(ちやのこ)といふ。茶を点ずるを茶を立るといふ。麩(ふ)の焼(やき)を食ふを経を読むといふ。倭俗彼岸の中、専(もつぱら)仏事を作(な)す。」(『日次紀事』二月)
麩(ふ)の焼(やき)とは、水で溶いた小麦粉を薄く焼き、表面に味噌を塗って経巻の形に仕上げた物でその形により、これを食べることを「経を読む」といいました。千利休の茶会にもしばしば登場する京の銘菓です。
ついでのことですが、春の彼岸は牡丹餅、秋の彼岸はお萩というように、季節によって呼称を使い分けていたと思っている人が多いことでしょう。実はこれがとんでもない出鱈目なのです。私は長年歳時記の研究をしていますが、現在流布している歳時記などの理解には、とんでもない出鱈目な説が多いものですが、その中でも最たるものがこの牡丹餅とお萩の季節による呼称の使い分けです。出鱈目と言われて腹が立つなら、文献史料の根拠を示して欲しいものです。それが確かなものなら、潔く降参します。しかしそれを示せないなら、出鱈目の垂れ流しは止めてもらいたい。自分では何も調べもせず、食物史事典やウィキペディア程度の情報を検証もせずに摘まみ食いするのでその様なことになってしまうのです。
まずはブログ「うたことば歳時記 牡丹餅とお萩 流布説の誤り」を御覧下さい。流布説がいかにいい加減なものであるか、よく理解できるはずです。ネット情報は玉石混淆です。利用する側の力量も試されているわけです。
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