私のブログである「歌ことば歳時記」に『盂蘭盆(お盆)の起原の誤解』という小論を載せておきましたので、まだそちらをお読みになっていない方は、まずはそちらを御覧下さい。
近現代の盂蘭盆(お盆)の行事は、地域により大きな差異がありますので、比較的多くの地域に共通して当てはまることについてお話ししましょう。まずその期間ですが、7月13日から16日までというのが一般的です。もちろん一月遅れのこともあり、その場合は8月13日から16日というわけです。
江戸時代には 7月12日の夜から 13日の朝にかけて、「草市」と称して供養に必要な物を売る店が立ちました。盆提灯、盆灯籠、籬垣(ませがき)、線香、盆棚用の菰(こも)、迎火・送火用の麻幹(おがら)や焙烙(ほうろく),先祖や精霊の乗物とされる茄子や胡瓜、真菰馬,鬼灯(ほおずき)、供え物を盛る蓮の葉などの他に、各種の一般的な仏具なども売られていました。現在では東京都中央区月島の草市が特によく知られています。京阪方面については、よく知らないので御免なさい。
盆棚の設えは、仏壇とは別に経机や小机などを置き、真菰を編んだ敷物を敷きます。そして四隅に結界を表す竹を立て、菰縄を結んで囲います。その縄には、鬼灯(ほおずき)をぶら下げます。棚の側面の周囲を杉の葉で覆う場合もあります。棚の上には真菰筵(まこもむしろ)を敷き、中央の奥には位牌を安置します。そしてさまざまな供物や茄子の牛・胡瓜の馬なども供えます。また水の子(茄子や胡瓜を賽の目に刻み、洗った米を混ぜたもの)を供え、法要で水を精霊にふりかけるために用いるみそはぎの花を飾ります。そして盆棚の脇には盆提灯を置きます。素麺を供えることがありますが、これは七夕の行事食ですから、七夕と盂蘭盆が接近していて、一連の行事と考えられていたことを示唆しています。真菰の馬は七夕に飾る地域もあり、これも素麺と同様で、七夕に飾ることもあります。その他細かいことは宗派や地域によってまちまちですから、それぞれの地域のお寺に尋ねたり、ネットで検索してみて下さい。『守貞漫稿』には「四隅ニ青竹ヲ立テ、菰縄繩ヲ張リ、下ニハ真菰筵ヲ敷キ、棚ノ周リニハ、青杉葉ニテ造リタル籬ト云ヲ以テ、棚ノ如クニス、此棚上ニ、常ニハ仏檀ニ置ル位牌ヲ取出シ祭ル、」と記されています。現在の設えは、江戸時代の様式と基本的には同じようです。
盆棚の設えができたら、祖先の霊、つまり精霊を迎えなければなりません。そのためには13日の夕方に墓に詣で、そこで麻幹・苧殻(おがら、麻の表皮を剥がして残った茎)を燃やし、その火を提灯の蝋燭に移して持ち帰ります。つまり精霊は火に象徴され、火と共に懐かしいかつての我が家に帰るのです。墓が遠い場合はわざわざ行くことができませんので、屋敷の入り口に焙烙(土鍋のような形をした素焼きの器)を置き、そこで苧殻を燃やして精霊を迎えることもあります。その火を灯明や盆灯籠などに移し、盂蘭盆の期間は原則として火を消しません。火は精霊がやって来る目印という理解がありますが、盆棚に火を移して消さないことを考えると、目印というよりは、私は、精霊その物と理解した方がよいと思っています。この辺りのことになると、事実かどうかというよりは、解釈の問題でしょう。地域によって、また宗派・宗教によって、いろいろな解釈があってよいことです。その際に盆棚の茄子や胡瓜の牛馬は、精霊の乗り物ということで、内向きに置きます。盂蘭盆の期間には一族親戚が集まり、祖霊を供養しつつ再会を喜んだり楽しく食事をしたりして、一族の結合を再確認するのです。新盆の場合は僧侶を招いて法要をお願いすることもあります。
実家に帰って十分に供養された精霊は、15日か16日の夕方にはまた霊界に帰ることになります。その際にはまず茄子や胡瓜の精霊牛馬は、外向きに置きます。そして今度は送り火を焚くのですが、迎え火の逆になるわけで、屋敷の入り口に置いた焙烙の上で苧殻を燃やしたり、火の点いている提灯を墓まで持っていって、そこで火を消したり、火の点いたままの灯籠を川に流したりします。これはいわゆる精霊流しと呼ばれるもので、近年では河川環境の悪化の原因となるので、禁止されることもありますが、やむを得ないことなのでしょう。毎年京都で8月16日に行われる「大文字」「左大文字」「妙・法」「舟形」「鳥居形」の五山送り火は観光化されていますが、本来は盂蘭盆の送り火が大規模に行われていることになります。元治元年(1864年)に出版された『花洛名勝図会』には、8月16日の夜に京の賀茂川原で大文字の送り火を見ながら、それとは別に足元で送り火を燃やす人々で混雑している様子が描かれています。東山の山の端には十六夜の月が姿を見せたばかりですから、およその時刻が察せられます。同図はネットで「花洛名勝図会送り火」の画像を検索すると、すぐに見ることができますから、是非御覧下さい。
送り火と共に、精霊の乗り物と理解された茄子や胡瓜の牛馬、その他に盆棚に供えたものは川や海に流されました。この風習はひょっとしたら、室町時代まで遡れるかもしれません。『華實年浪草』とう書物に一休宗純の「山城の瓜や茄子をそのまヽに手向となれや賀茂川のみづ」という歌が引用されているのですが、京の市民が茄子や瓜を賀茂川に流したようです。しばしば引用されている『守貞漫稿』にも、そのように記されています。また『翁草』という書物には、以下のような話が記されています。江戸の豪商として知られる河村瑞賢が極貧の生活に絶望していた時、彼は品川の海岸でそれを見て、あることが閃きました。彼は「乞食」たちに銭をやってそれを拾い集めさせ、漬物にして売り出し、大もうけをしたのです。この話は明治30年代には修身の教材ともなり、一昔前まではよく知られていました。
盂蘭盆の最中には、よく海や川に行くなと言われることがあります。「お盆の最中は、地獄の釜のふたがあくから、川や海で絶対に泳いだらいけない」と言われたことのある人もいることでしょう。その根拠ははっきりとはわかりませんが、貞享五年(1688年)に出版された『日本歳時記』には、「十五日、又今日、世俗山海の漁獵をせず、もろこしにもかヽるにや、唐の百官志に、中元日、供祠ニ非ザレバ魚ヲ採ラズと見えたり」という記述があります。江戸時代の初期には、唐の仕来りに倣って、7月15日には殺生をしないという暗黙の了解があったようです。それが仏事の最中であるから殺生は相応しくないからなのか、あるいは他に理由があるのかはわかりません。海や川に近寄るなという風習と、おそらく何らかの関係があると思います。また後付けの理屈ですが、15日は満月ですから大潮にあたり、潮の満ち干の差が大きく、潮の流れが海水浴に向いていないことは確かでしょう。また台風が接近するため、波が高くなることも多いはずです。予期せぬ事故が起きれば、それ見たことか。お盆に泳いだりするからだということになりがちです。
なおついでのことですが、最近はお盆でも牡丹餅(お萩)を食べることがあるようです。本来は彼岸の行事食ですから、お盆には食べる風習はありませんでした。最近は仏事の行事食として理解されるようになっているのでしょう。春は牡丹餅、秋はお萩と名前を使い分けるという定説に基づけば、新暦のお盆は夏であり、旧暦のお盆は秋であり、何と言えばよいのでしょうか。まあ月遅れの8月15日ならもう秋ですから、お萩という人が多いのでしょうね。しかし「春は牡丹餅、秋はお萩」ということになっていますが、実はこれが誤りなのです。そんなはずはないという人は、私のブログ「うたことば歳時記 牡丹餅とお萩(流布説の誤り)」に史料的根拠を上げて説明してありますから、そちらを御覧下さい。
盂蘭盆が終わると、いよいよ秋ですね。新暦の7月半ばでは真夏ですが、旧暦ならば8月の中~下旬ですから、残暑は厳しいものの、時折吹く風に秋を感じられることでしょう。「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」
近現代の盂蘭盆(お盆)の行事は、地域により大きな差異がありますので、比較的多くの地域に共通して当てはまることについてお話ししましょう。まずその期間ですが、7月13日から16日までというのが一般的です。もちろん一月遅れのこともあり、その場合は8月13日から16日というわけです。
江戸時代には 7月12日の夜から 13日の朝にかけて、「草市」と称して供養に必要な物を売る店が立ちました。盆提灯、盆灯籠、籬垣(ませがき)、線香、盆棚用の菰(こも)、迎火・送火用の麻幹(おがら)や焙烙(ほうろく),先祖や精霊の乗物とされる茄子や胡瓜、真菰馬,鬼灯(ほおずき)、供え物を盛る蓮の葉などの他に、各種の一般的な仏具なども売られていました。現在では東京都中央区月島の草市が特によく知られています。京阪方面については、よく知らないので御免なさい。
盆棚の設えは、仏壇とは別に経机や小机などを置き、真菰を編んだ敷物を敷きます。そして四隅に結界を表す竹を立て、菰縄を結んで囲います。その縄には、鬼灯(ほおずき)をぶら下げます。棚の側面の周囲を杉の葉で覆う場合もあります。棚の上には真菰筵(まこもむしろ)を敷き、中央の奥には位牌を安置します。そしてさまざまな供物や茄子の牛・胡瓜の馬なども供えます。また水の子(茄子や胡瓜を賽の目に刻み、洗った米を混ぜたもの)を供え、法要で水を精霊にふりかけるために用いるみそはぎの花を飾ります。そして盆棚の脇には盆提灯を置きます。素麺を供えることがありますが、これは七夕の行事食ですから、七夕と盂蘭盆が接近していて、一連の行事と考えられていたことを示唆しています。真菰の馬は七夕に飾る地域もあり、これも素麺と同様で、七夕に飾ることもあります。その他細かいことは宗派や地域によってまちまちですから、それぞれの地域のお寺に尋ねたり、ネットで検索してみて下さい。『守貞漫稿』には「四隅ニ青竹ヲ立テ、菰縄繩ヲ張リ、下ニハ真菰筵ヲ敷キ、棚ノ周リニハ、青杉葉ニテ造リタル籬ト云ヲ以テ、棚ノ如クニス、此棚上ニ、常ニハ仏檀ニ置ル位牌ヲ取出シ祭ル、」と記されています。現在の設えは、江戸時代の様式と基本的には同じようです。
盆棚の設えができたら、祖先の霊、つまり精霊を迎えなければなりません。そのためには13日の夕方に墓に詣で、そこで麻幹・苧殻(おがら、麻の表皮を剥がして残った茎)を燃やし、その火を提灯の蝋燭に移して持ち帰ります。つまり精霊は火に象徴され、火と共に懐かしいかつての我が家に帰るのです。墓が遠い場合はわざわざ行くことができませんので、屋敷の入り口に焙烙(土鍋のような形をした素焼きの器)を置き、そこで苧殻を燃やして精霊を迎えることもあります。その火を灯明や盆灯籠などに移し、盂蘭盆の期間は原則として火を消しません。火は精霊がやって来る目印という理解がありますが、盆棚に火を移して消さないことを考えると、目印というよりは、私は、精霊その物と理解した方がよいと思っています。この辺りのことになると、事実かどうかというよりは、解釈の問題でしょう。地域によって、また宗派・宗教によって、いろいろな解釈があってよいことです。その際に盆棚の茄子や胡瓜の牛馬は、精霊の乗り物ということで、内向きに置きます。盂蘭盆の期間には一族親戚が集まり、祖霊を供養しつつ再会を喜んだり楽しく食事をしたりして、一族の結合を再確認するのです。新盆の場合は僧侶を招いて法要をお願いすることもあります。
実家に帰って十分に供養された精霊は、15日か16日の夕方にはまた霊界に帰ることになります。その際にはまず茄子や胡瓜の精霊牛馬は、外向きに置きます。そして今度は送り火を焚くのですが、迎え火の逆になるわけで、屋敷の入り口に置いた焙烙の上で苧殻を燃やしたり、火の点いている提灯を墓まで持っていって、そこで火を消したり、火の点いたままの灯籠を川に流したりします。これはいわゆる精霊流しと呼ばれるもので、近年では河川環境の悪化の原因となるので、禁止されることもありますが、やむを得ないことなのでしょう。毎年京都で8月16日に行われる「大文字」「左大文字」「妙・法」「舟形」「鳥居形」の五山送り火は観光化されていますが、本来は盂蘭盆の送り火が大規模に行われていることになります。元治元年(1864年)に出版された『花洛名勝図会』には、8月16日の夜に京の賀茂川原で大文字の送り火を見ながら、それとは別に足元で送り火を燃やす人々で混雑している様子が描かれています。東山の山の端には十六夜の月が姿を見せたばかりですから、およその時刻が察せられます。同図はネットで「花洛名勝図会送り火」の画像を検索すると、すぐに見ることができますから、是非御覧下さい。
送り火と共に、精霊の乗り物と理解された茄子や胡瓜の牛馬、その他に盆棚に供えたものは川や海に流されました。この風習はひょっとしたら、室町時代まで遡れるかもしれません。『華實年浪草』とう書物に一休宗純の「山城の瓜や茄子をそのまヽに手向となれや賀茂川のみづ」という歌が引用されているのですが、京の市民が茄子や瓜を賀茂川に流したようです。しばしば引用されている『守貞漫稿』にも、そのように記されています。また『翁草』という書物には、以下のような話が記されています。江戸の豪商として知られる河村瑞賢が極貧の生活に絶望していた時、彼は品川の海岸でそれを見て、あることが閃きました。彼は「乞食」たちに銭をやってそれを拾い集めさせ、漬物にして売り出し、大もうけをしたのです。この話は明治30年代には修身の教材ともなり、一昔前まではよく知られていました。
盂蘭盆の最中には、よく海や川に行くなと言われることがあります。「お盆の最中は、地獄の釜のふたがあくから、川や海で絶対に泳いだらいけない」と言われたことのある人もいることでしょう。その根拠ははっきりとはわかりませんが、貞享五年(1688年)に出版された『日本歳時記』には、「十五日、又今日、世俗山海の漁獵をせず、もろこしにもかヽるにや、唐の百官志に、中元日、供祠ニ非ザレバ魚ヲ採ラズと見えたり」という記述があります。江戸時代の初期には、唐の仕来りに倣って、7月15日には殺生をしないという暗黙の了解があったようです。それが仏事の最中であるから殺生は相応しくないからなのか、あるいは他に理由があるのかはわかりません。海や川に近寄るなという風習と、おそらく何らかの関係があると思います。また後付けの理屈ですが、15日は満月ですから大潮にあたり、潮の満ち干の差が大きく、潮の流れが海水浴に向いていないことは確かでしょう。また台風が接近するため、波が高くなることも多いはずです。予期せぬ事故が起きれば、それ見たことか。お盆に泳いだりするからだということになりがちです。
なおついでのことですが、最近はお盆でも牡丹餅(お萩)を食べることがあるようです。本来は彼岸の行事食ですから、お盆には食べる風習はありませんでした。最近は仏事の行事食として理解されるようになっているのでしょう。春は牡丹餅、秋はお萩と名前を使い分けるという定説に基づけば、新暦のお盆は夏であり、旧暦のお盆は秋であり、何と言えばよいのでしょうか。まあ月遅れの8月15日ならもう秋ですから、お萩という人が多いのでしょうね。しかし「春は牡丹餅、秋はお萩」ということになっていますが、実はこれが誤りなのです。そんなはずはないという人は、私のブログ「うたことば歳時記 牡丹餅とお萩(流布説の誤り)」に史料的根拠を上げて説明してありますから、そちらを御覧下さい。
盂蘭盆が終わると、いよいよ秋ですね。新暦の7月半ばでは真夏ですが、旧暦ならば8月の中~下旬ですから、残暑は厳しいものの、時折吹く風に秋を感じられることでしょう。「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」
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