なぜ七草粥を食べるの?
現在一般には一月七日の朝、七草を入れた粥を食べる風習が行われています。この風習はもともとは中国から伝えられたもので、6世紀の中国の伝統行事の風習を記録した『荊楚歳時記』(けいそさいじき)という書物には、「正月七日・・・・七種の菜を以て羮(あつもの)と為(な)す」と記されています。羮とは熱い汁物のことで、要するに七草のスープというわけです。『荊楚歳時記』は奈良時代には日本に伝えられ、朝廷の年中行事に大きな影響を与えました。日本の文献では、伊勢神宮の行事や儀式について記述した『皇太神宮儀式帳』(こうたいじんぐうぎしきちょう、804年)に、若菜の羹を神前に供えることが記されていますから、おそらく奈良時代末には始まっていたことでしょう。11世紀の『枕草子』には、6日に人々が大騒ぎをしながら、雪に埋もれた若菜を摘むことが記されています。
現在では羹ではなく粥になっていますが、室町時代にはまだ羹でした。ただし江戸時代の初めに長崎で出版された日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(にっぽじしょ、1604年)には、「Nanacusa(七草)、正月に使う七種の野菜であって、それをつぶしてMiso(味噌)と共に煮込み、新年の祝いとして食べるもの」と記されていますから、粥ではなく羹です。これは都から遠い長崎地方には、古くからの羹が残ったのかもしれません。羹から粥に変わった時期ははっきりとはわかりませんが、江戸時代初期の歳時記である『日次記事』(ひなみきじ、1676年)には既に粥になっていますから、室町時代の末期には粥に変わっていた可能性もあります。
それならなぜ七草を調理して食べるのでしょう。現在では七草粥を食べる目的は、無病息災を祈願するためと理解されていますが、本来の目的は長寿を祈願することでした。無病息災であれば結果として長生きしますから、同じようなものではあるのですが、微妙に異なります。平安時代には、若々しい生命力の宿る若菜を摘んで食べると、長生きできると信じられていたのです。そして自分が食べるだけではなく、長寿を祈願する歌を添えて、親しい人に贈る風習がありました。古い和歌集には、そのような若菜摘みの歌がたくさんあります。百人一首に収められてよく知られている「きみがため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ」(『古今和歌集』春 21)という歌は、そのような歌の一つです。
それなら若菜を摘むことが、なぜ長生きを願うことになるのでしょうか。それは「葉を摘む」と「年の端(は)を積む」(「年の端」とは年齢のこと)の「は」の音、また「摘む」と「積む」の音が共通するため、葉を摘むことに年を積み重ねて長生きをすることを掛けているからなのです。現代人はこのような理解を「駄洒落」の一言で片付けてしまいそうですが、古い和歌では、同音異義語によって二つの意味を持たせることは、しばしば見られることでした。
それでは長寿を祈願して若菜を摘む歌の例を、一つ読んでみましょう。「春の野の若菜ならねど君がため年の数をもつまんとぞ思ふ」(『拾遺和歌集』賀 285)。これは「春の野の若菜の葉を摘むように、あなたのために、年の端を積み上げて長生きできるようにと思ったことです」という意味で、このように長寿を祈願したり祝福する歌を添えて、若菜を贈り合ったのです。また『源氏物語』の「若菜上」の巻には、源氏が四十歳となったことを祝うために、若菜が献上されたことが記されています。
このように七草の本来の目的は長寿の祈願でしたが、鎌倉時代末期から室町時代にかけて記述された、生活便覧的百科事典である『拾芥抄』(しゅうかいしょう)という書物には、「万病無きなり」と記されていて、無病息災を祈願することが目的となっていることを確認できます。春の七草にはみな消化を助ける薬功があり、お節料理を食べたりお神酒を飲み過ぎて疲れた胃腸を、身体に優しい粥を食べて回復させるためと説明されることもあります。しかしこれは結果的にはその様な効果もあるので、現代人が後で取って付けた理屈に過ぎません。
さて七草の種類は、今日では一般に芹(せり)・薺(なずな)・御形(おぎょう)・繁縷(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・鈴菜(すずな、蕪)・清白(すずしろ、大根)と言われていますが、平安時代にはまだ一定していませんでした。鎌倉時代の『年中行事秘抄』という書物には、現在の七草がそろっていますから、平安から鎌倉時代にかけて、次第に整ったのでしょう。七草の種類は、「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草」という歌に詠まれていますが、この歌は江戸時代初期の文献で確認できます。ただし下の句が「これは七草」となっているそっくりな歌は、室町時代に確認できます。
現在一般には一月七日の朝、七草を入れた粥を食べる風習が行われています。この風習はもともとは中国から伝えられたもので、6世紀の中国の伝統行事の風習を記録した『荊楚歳時記』(けいそさいじき)という書物には、「正月七日・・・・七種の菜を以て羮(あつもの)と為(な)す」と記されています。羮とは熱い汁物のことで、要するに七草のスープというわけです。『荊楚歳時記』は奈良時代には日本に伝えられ、朝廷の年中行事に大きな影響を与えました。日本の文献では、伊勢神宮の行事や儀式について記述した『皇太神宮儀式帳』(こうたいじんぐうぎしきちょう、804年)に、若菜の羹を神前に供えることが記されていますから、おそらく奈良時代末には始まっていたことでしょう。11世紀の『枕草子』には、6日に人々が大騒ぎをしながら、雪に埋もれた若菜を摘むことが記されています。
現在では羹ではなく粥になっていますが、室町時代にはまだ羹でした。ただし江戸時代の初めに長崎で出版された日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(にっぽじしょ、1604年)には、「Nanacusa(七草)、正月に使う七種の野菜であって、それをつぶしてMiso(味噌)と共に煮込み、新年の祝いとして食べるもの」と記されていますから、粥ではなく羹です。これは都から遠い長崎地方には、古くからの羹が残ったのかもしれません。羹から粥に変わった時期ははっきりとはわかりませんが、江戸時代初期の歳時記である『日次記事』(ひなみきじ、1676年)には既に粥になっていますから、室町時代の末期には粥に変わっていた可能性もあります。
それならなぜ七草を調理して食べるのでしょう。現在では七草粥を食べる目的は、無病息災を祈願するためと理解されていますが、本来の目的は長寿を祈願することでした。無病息災であれば結果として長生きしますから、同じようなものではあるのですが、微妙に異なります。平安時代には、若々しい生命力の宿る若菜を摘んで食べると、長生きできると信じられていたのです。そして自分が食べるだけではなく、長寿を祈願する歌を添えて、親しい人に贈る風習がありました。古い和歌集には、そのような若菜摘みの歌がたくさんあります。百人一首に収められてよく知られている「きみがため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ」(『古今和歌集』春 21)という歌は、そのような歌の一つです。
それなら若菜を摘むことが、なぜ長生きを願うことになるのでしょうか。それは「葉を摘む」と「年の端(は)を積む」(「年の端」とは年齢のこと)の「は」の音、また「摘む」と「積む」の音が共通するため、葉を摘むことに年を積み重ねて長生きをすることを掛けているからなのです。現代人はこのような理解を「駄洒落」の一言で片付けてしまいそうですが、古い和歌では、同音異義語によって二つの意味を持たせることは、しばしば見られることでした。
それでは長寿を祈願して若菜を摘む歌の例を、一つ読んでみましょう。「春の野の若菜ならねど君がため年の数をもつまんとぞ思ふ」(『拾遺和歌集』賀 285)。これは「春の野の若菜の葉を摘むように、あなたのために、年の端を積み上げて長生きできるようにと思ったことです」という意味で、このように長寿を祈願したり祝福する歌を添えて、若菜を贈り合ったのです。また『源氏物語』の「若菜上」の巻には、源氏が四十歳となったことを祝うために、若菜が献上されたことが記されています。
このように七草の本来の目的は長寿の祈願でしたが、鎌倉時代末期から室町時代にかけて記述された、生活便覧的百科事典である『拾芥抄』(しゅうかいしょう)という書物には、「万病無きなり」と記されていて、無病息災を祈願することが目的となっていることを確認できます。春の七草にはみな消化を助ける薬功があり、お節料理を食べたりお神酒を飲み過ぎて疲れた胃腸を、身体に優しい粥を食べて回復させるためと説明されることもあります。しかしこれは結果的にはその様な効果もあるので、現代人が後で取って付けた理屈に過ぎません。
さて七草の種類は、今日では一般に芹(せり)・薺(なずな)・御形(おぎょう)・繁縷(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・鈴菜(すずな、蕪)・清白(すずしろ、大根)と言われていますが、平安時代にはまだ一定していませんでした。鎌倉時代の『年中行事秘抄』という書物には、現在の七草がそろっていますから、平安から鎌倉時代にかけて、次第に整ったのでしょう。七草の種類は、「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草」という歌に詠まれていますが、この歌は江戸時代初期の文献で確認できます。ただし下の句が「これは七草」となっているそっくりな歌は、室町時代に確認できます。
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