一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

東アジアを超える「東アジア共同体」の構想を③

2010-02-25 21:29:17 | 「東アジア」共同体構想



     本稿は、2009年9月にソウルで開かれた国際シンポジウム『二一世紀の東アジアを構想する』
     での基調講演に加筆したもので、すでに月刊誌『世界』2010年1月号に掲載されています。
     ここでは、4回にわけて掲載します。本稿の
コピーや転載を禁じます(知と文明のフォーラム)。
    
   見出し一覧 
    導入 ●二一
世紀の挑戦・・・・・・・(その1)
     ●東北アジア共同体の条件 ●非核共同体 ●不戦共同体・・・・・・(その2)
    ●安全保障のイニシアティヴ ●体制改革のイニシアティヴ・・・・・・・・その3
    ●国家の境界を超える「共同体」
    ●東アジアのアイデンティティ ●東アジアを超える「東アジア」

 
  安全保障のイニシアティヴ

 しかし現実には、この半世紀、北朝鮮は圧倒的に軍事的優位に立つ米国が、その同盟国である韓国と日本に軍事基地を設けて敵対する体制によって、「封じ込め」られてきており、この非対称的な劣勢から少しでも脱却して、対北朝鮮攻撃の公算を減らす道として、核武装をするに至った。その目的は、米国や日韓の脅威に対して、北朝鮮の「国家の安全保障」と「体制の安全保障」とを、より確実にすることにあると考えられる。その点では、圧倒的な人口をかかえるアラブ諸国によって「地中海に蹴おとされる」恐怖から抜けきれない、イスラエルの「孤塁死守」のメンタリティに似ている。

 したがって北朝鮮の側での戦争への恐怖を和らげ、朝鮮半島での戦争の危険を最小限にまで減らすためには、非対称的な優位に立つ米国と韓日とが、先ず緊張緩和のイニシアティヴをとることが不可欠である。およそ非対称的な対立関係では、弱者は屈従するか、狡猾で不法な手段に訴えるか以外の選択肢はないのであって、関係改善のイニシアティヴは先ず強者がとるのが当然である。具体的には、現在米国は、「先ず北朝鮮が非核化を実行せよ。そうすれば、休戦協定の平和協定への格上げや経済支援などを積み重ねて、究極的には米朝関係正常化に進む」と公式に主張しているようだが、それは優先順位が逆であって、先ず米国が米朝正常化や平和協定締結を確実に行うことによって、北朝鮮の非核化を容易にし、朝鮮半島での相互の軍縮を進めるという道をとるべきである。また戦争を想定して年中行事のように行っている、米韓合同軍事演習は、早急に縮小していくべきである。

 そして日韓両国は、米国がこのような政策をとるようにはたらきかけるだけでなく、北朝鮮との武力衝突の可能性を少しでも減らすために、日韓共同して緊張緩和と平和共存の努力を真剣に行うかどうか、それが「東北アジア共同体」を創る意思があるかどうかを示す、第二の試金石である。

  体制改革のイニシアティヴ

 しかし、それは北朝鮮の現在の体制の安全保障を目的とするものではない。なぜなら、政治体制の安全保障は、エドマンド・バーク以来の「保守するために改革する」という知恵、つまり体制を維持するためにこそ改革を積み重ねるという、政権指導者の自己改革の英知なしには困難だからである。それは、基本的に内発的に行われなければならないことである。

 しかし日本や韓国が、北朝鮮のそうした改革を促進し助成するために、また日韓自身の改革のためになすべきこともある。それは、二○世紀に経済発展の指導原理とされた自由市場経済主義と国家社会主義とのいずれもが破綻したところから出発した二一世紀に、いかなるオールタナティヴを創出していくかという課題について、まず日本と韓国が協力しつつ新たな構想を打ち出していくことである。その詳細について、ここで述べることはできないが、基本的なことは次の二点であると言えよう。

 第一に、日韓のそれぞれが、社会経済的な格差を最小限にした社会を創ることである。それは「共産主義」のような機械的平等を指向するのではなく、ロールズ(John Rawls)の「格差原理(difference principle)」に倣って言えば、社会的・経済的不平等の完全除去は不可能だとしても、そこに生じる最底辺の人々の生活水準を、できるだけ引き上げることである。現に、日韓両国のどちらも、また世界の多くの国が、失業やワーキング・プアの問題をかかえ、医療、老人介護、教育費などの分野での弱者保護の切実な課題に当面している。もちろんこれらは、それぞれの国家が取り組むべき課題であるし、社会によって事情や条件が同じではないが、しかし現在では、一国単位では対処できない問題が増えているだけに、日韓が協力体制をつくって格差なき社会の構想を打ち出すことは、「東北アジア共同体」の創造と結束に不可欠である。

 また、実際これまでの歴史において、どの国も、通商・通信などを通じて他の国の経験や制度を、直接・間接に参考にし、導入し、相互に影響し合ってきた(例えばアメリカ・モデルや日本モデルの失敗から、現在では北欧モデルなどが注目されている)のであるから、日韓が協力して格差・不平等を最小限にした社会を創り出す過程は、中・長期的に北朝鮮の政府や国民にも影響を与えるに違いない。

 第二は、こうした弱者救済を、それぞれの国内においてだけでなく、北朝鮮への「人道支援」という形で、韓日共同で行うことである。この点で、日本のこれまでの行動は「共同体」創造に最もふさわしくないものであった。○二年の日朝ピョンヤン宣言で、日朝正常化後に実施する「経済協力」の具体的内容について「誠実な協議」を開始すると約束しながら、全く行っていない。また、○七年に六者協議で韓米中露四国が重油支援に合意したにも関わらず、日本だけは拉致問題未解決を理由に拒否した。もちろん、これは純粋な人道支援ではなく、北朝鮮の核開発を防ぐための代替エネルギー支援であるが、重油が北朝鮮の軍事的のみならず民生用の生産に必要なエネルギー資源であることはいうまでもない。

 さらに、より純粋な人道支援について言えば、日本の「拉致家族団体」が、北朝鮮へのコメ支援は軍用にまわされるだけだという理由で、中止を政府に要求したとき、私が「自分の子どもが拉致されたのを非人道的だと怒るのであれば、飢えている北朝鮮の子どもに、日本の余剰米を送るのさえ拒否するのは非人道的ではないか」という批判を新聞に書いたところ、激しい非難の「公開書簡」を送ってきた。そこで私は、「仮に送った米が軍にまわされるとしても、北朝鮮に米を送らなければ、軍以外の子どもや民間人へまわされる米が、一層減るだけではないか」と述べたのに対して、反論はなかった。

 この事例は、日本に「普遍的なヒューマニティ」の観念が極めて乏しいことを示している。この重要な点については更に後述したいが、確かに環境問題により、日本人の間に「地球的」関心が増えてきた結果、「エコ・カー、エコ・バッグ、エコ・ポイント・・・」など、「エコ」という言葉が、プラスのシンボルとして流行していることは好ましい風潮と言えよう。他方、北朝鮮でも、豪雨・土砂崩壊、旱魃などの環境変動や、資源の枯渇やエネルギー資源不足などが、深刻な問題として認識されていることは明らかである、したがって、東北アジアの環境保全の分野でも日韓両国の協力および北朝鮮との協力は欠かせないはずである。

 しかし、日本の場合、エコロジカルな関心は、地球温暖化規制に対する各国の自国中心の反応と同じく、環境破壊が自分にもたらす利害の如何を重視する姿勢が顕著であることは否めない。もちろん環境破壊は、こうした近視眼的な受け取り方だけをされているわけではない。例えば。中国で発生する酸性雨や砂漠化を抑制するために、日本の官民の援助がなされてきている。しかし、それも、日本人自身に悪影響を及ぼすからであって、北朝鮮の洪水や旱魃には全く関心を示さない。ここには「東アジア共同体」としての連帯意識は存在していない。  

                      (その4へ続く)



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