一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

東アジアを超える「東アジア共同体」の構想を④

2010-03-23 20:28:39 | 「東アジア」共同体構想



   本稿は、2009年9月にソウルで開かれた国際シンポジウム『二一世紀の東アジアを構想する』
  での基調講演に加筆したもので、すでに月刊誌『世界』2010年1月号に掲載されています。
     ここでは、4回にわけて掲載します。本稿の
コピーや転載を禁じます(知と文明のフォーラム)。
    
    

     見出し一覧 
           導入 ●二一
世紀の挑戦・・・・・・・(その1)
     ●東北アジア共同体の条件 ●非核共同体 ●不戦共同体・・・・・・(その2)
      ●安全保障のイニシアティヴ ●体制改革のイニシアティヴ・・・・・・・(その3)
   
  ●国家の境界を超える「共同体」・・・・・・・・・・・その4
     ●東アジアのアイデンティティ ●東アジアを超える「東アジア」



  国家の境界を超える「共同体」

 以上、私は「東アジア共同体」という言葉や観念に、いかに虚構や歪曲があるかを、今日の東アジアの危機の中心である北朝鮮問題に光を当てて、日韓の協力を主題として指摘してきた。だが私が、日本と韓国の協力連帯を論じてきたのは、この両国の協力だけを考えるという趣旨ではない。それに、百年前の決定的植民地化、また戦時の「従軍慰安婦」や強制連行労働者に対する、これまでの日本政府の歴史問題への真摯な反省の欠如一つをとっても、日本は日韓連帯のためになすべきことを曖昧のまま残している。しかし私があえて日韓の未来に焦点をすえてきたのは、もし先ず日韓二国だけでも「共同体」的関係を創ることができれば、それは、更に北朝鮮をはじめとする二国以外の東アジアの国々に、日韓を中核として「共同体」を広げることができるかどうかの、重要な試金石となるからである。北朝鮮との和解を日韓共同で促進し、北朝鮮を東アジア共同体に包摂することこそ、日韓共同体の紐帯に他ならない。もちろん、例えば中国の場合、日韓とは異なった条件があるから、日韓の共同体を平面的に広げるだけではすまないことは明らかである。しかし、日韓の共同体が先ず中核をなさなければ、共同体の拡大はおよそ不可能であろう。

 ここで留意すべきことは、およそ「地域共同体」の創造は、国家という単位を超え、国家の境界線を超える協力行動が必要かつ可能であるという前提の上に初めて成り立つということである。何らかの形で国家の枠を超えられなければ、新たな「東アジア共同体」の形成は不可能である。ここで私が「共同体」というのは、平和、福祉、正義など、人間としての基本的な価値観を共有して、一国を超えた共同行動をする主体を指す。

 だが、国家は本来的に境界を持つことを特質としており、生死を賭して境界線(国境)を守る組織である。だとすれば、国家の枠を超えることは、国家だけでは本来的に限界があり、国を構成する市民が、国境を超えた協力と連帯の担い手となることなしには不可能である。現に、今日のアジアや世界では、国家の枠を超えた市民の交流や協力が、日常的に増している。市民社会の自立性が困難だと言われる中国でも、環境汚染をめぐる市民社会的な自発的活動は、すでに根強く定着しており、また最近の地震災害を契機に市民の自発的協力行動は大きく盛り上がった。

                                       (その5へ続く)



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