一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

打楽器音楽を楽しむ

2010-08-20 22:10:17 | 活動内容


打楽器音楽を楽しむ

高橋藍城

 

 「知と文明のフォーラム」主催になる、さまざまな催しに気の向くままに参加させていただいている。食物や環境、医療問題など、常に現代社会の直面する課題に、適任のパネリストを呼んでのセミナーには毎回、大いに刺激を受けたものだ。しかし、なんといっても4度にわたるレクチャーコンサートは、自分の音楽観を大きく変えてくれた素晴らしい経験だった。

 熱烈なクラシック愛好家には程遠い私は、めったに演奏会に足を運ばないし、指揮者や演奏家に関する知識もない。ただ、いろいろなジャンルの音楽を聴くことは好きなので、家の中にはCDやDVDが所狭しと積み上げられている。それこそ、美空ひばりの演歌から、ワールドミュージック、シャンソン、ジャズなどなんでもござれである。クラシック音楽もバロックから現代音楽まで、かなり溜まってしまった。ナクソスレーベルから「日本作曲家選輯」というシリーズが発売されていて、伊福部昭や橋本國彦、山田耕作、武満徹らを始め、最近まであまり知られていなかった作曲家の作品も比較的安い値段で購入することができた。これによって、あらためて邦人作曲家に関心が向かい始めたのだが、ちょうどその頃、「世界音楽入門&西村朗の夕べ」の案内が届いたのだった。

 西村氏は、いまやN響アワー司会者として、その該博な知識と軽妙な語り口でクラシックファンに広く知られるようになったが、作品がポピュラーになったとは言えないだろう。かく言う私にとっても未知の音楽家であった。コンサートでは、ドビュッシーとバルトークの作品と一緒に西村作品6曲が演奏されたのだが、あまりの衝撃で西洋の2作曲家の印象が薄くなってしまったほどだった。ふだん、スピーカーを通しての電気音しか聴きなれていなかったせいか、上野信一とフォニックス・レフレクションのメンバーの打楽器の音は、耳からというより、皮膚を直撃するように響いた。

 ヒンドゥー教やバリ島の舞踊音楽を基にしたという作品は、言葉の本当の意味で瞑想的・宗教的であった。音は、出された瞬時にして消えていくという単純な事実をあらためて実感させてくれる打楽器の様々な音色。どんなに大音響がなり響いても、つねに静寂の世界と相対している音楽。武満徹が「音、沈黙と測りあえるほどに」と語っていた音の世界とはこういうものだったのか。西欧の音楽とは基本的に異なる世界観を西村氏はヘテロフォニーと呼ぶらしいが、難しい言葉の概念は知らなくても、アジア音楽のスピリチュアルな世界を体験できたと思う。

 そして、昨年の「新実徳英の世界」である。このときは、ピアノやヴァイオリンのための曲も演奏されたが、やはり私にとっては打楽器のための作品が好ましかった。「風のかたち――ヴィブラフォンのための」は、自然界の音そのものを音楽にしたという作品で、何度も繰り返し聴きたくなる作品である。およそ数ある世界中の楽器のなかで、打楽器こそ人類最古の楽器なのだろう。単純に物を叩いてみることによって作り出される様々な音色とリズム感。両手を叩く拍手が、音を出す始まりだったのかもしれない。考えてみれば、日本人の生活習慣のなかにも打楽器は深いかかわりがあった。祭礼や盆踊りの太鼓、鉦や拍子木、能楽の鼓、楽器とは言えないだろうが、仏具のリンや木魚、風鈴、除夜の鐘の音など数え上げればきりがない。だから打楽器の音を聴くと、何となく懐かしくなったり、血が騒いだりするのだろう。

 西洋音楽の歴史でも打楽器は、オーケストラには欠かせない存在だが、打楽器のための作品が作曲されるようになったのは近年のことらしい。上野信一ファンとなった私は、セルビア出身の現代音楽作曲家である「ネボーシャ・ジヴコヴィッチ作品展」というコンサートも聴いた。ここでも、タイゴングやムチなど、珍しい打楽器の音を楽しんだが、テーブルの上の食器をひっくり返すシーンがある作品には驚いた。打楽器のための音楽は、緊張感のなかにも、人をワクワクさせる要素があるようだ。  

 西村・新実両氏が、ともにアジアの音楽に触発されて打楽器のための作品を手掛けていることに興味が尽きないし、これからは、尺八や箏、琵琶など邦楽器による作品も生演奏を聴いてみたい。二人と同世代で、同様に東洋思想、音楽に造詣の深い佐藤聡明氏は「音は、沈黙から生まれいで、生涯を送り、やがて終焉を迎え沈黙のかなたに飛び去る」と語っている。今後このフォーラムで、ぜひ取り上げてもらいたい作曲家である。

 今年6月の「青木やよひ追悼コンサート」に触れる余裕がなくなってしまった。青木先生の「ベートーヴェンの生涯」は刊行されてすぐに読了し、その真実をきわめようとする学者としてのひたむきさが感動的であった。ゲーテとの交友や読書から、アジアの宗教・哲学に関心を向けていたというベートーヴェンは、第九交響曲ののちにどんな音楽世界をめざしていたのだろうか。西欧音楽を超えた世界音楽を想像してみるのも面白いだろう。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。