一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【123】

2012-04-17 08:57:14 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【123】
Kitazawa, Masakuni  

 駆け足でやってきた春、まだ白い山桜が散らず、濃い淡紅色の八重桜も咲かないというのに、紅のツツジが花開きはじめ、樹々の新緑がまだ淡い色で風景を彩る。ウグイスがあちらこちらで精一杯鳴き競っている。夜、今年はじめてフクロウの神秘な鳴き声を聴く。

今井哲昭さんのホピ  

 ホピに15年も住みこんでいる今井哲昭さんが、伯母上の危篤で来日されたのを機会に、フォーラムで話していただくことになり、急遽4月14・15日にヴィラ・マーヤにメンバーや新しい参加者などが集まった。  

 今井さんにはこの日記にもしばしばご登場いただいたが、大学卒業後、土木エンジニアとしてアメリカの建設会社に勤めていたりしたが、ヒッピーとなり、映画「イジ―・ライダー」そのままにハレー・デヴィドスンを乗り回し、また日本で大野一夫の弟子となり舞踏家になったひとである。喜多郎のシンセサイザーに乗って伊勢内宮で踊ったこともある。たまたまホピのキコツモヴィ村でキクモングウィ(村の長)をしていたパルマー・ジェンキンズさん一家と親しくなり、晩年のジェンキンズさんの介護をして村人たちに信頼され、そのまま居着いてしまったという、多彩な経歴のひとである。異邦人は絶対に入れない秘密の儀礼にさえも参加を許されているという、もうほとんど日系ホピ人といっていい。容貌も、日焼けした顔に銀髪をホピの銀細工で束ねて背に垂らし、といった具合で、見るからにもうホピの長老であり、かつて日本にやってきた自称長老たちよりもはるかに品格がある。  

 それはさておき、私や青木やよひの本で多少の知識はあったとしても、ホピの思考体系や生活の仕方などについての今井さんの生々しくリアリティのある話は、皆さんをたいそう感動させたようだ。たとえば母系社会で女性がもっとも強い社会だといっても、観念では理解しても実感はわかない。だが妻が夫を離婚させたいときは、留守中に夫の荷物をまとめ、玄関先に放り出しておけば、帰ってきた夫は、それを担ってすごすごと「実家」に帰るしかない(私もホテヴィラ村のジェームズ・クーツホングシエの家に厄介になっていたとき、奥さんのヘレンさんが彼の格子縞のシャツを、夕立ちでまだぬかるんでいた玄関先に放り出し、帰ってきたジェームズが平身低頭でいいわけをしていたのを覚えている。こんなことをしていると離婚だよ、という手厳しいお叱りだったのだ)。あるいはセックスは厳しい近親相姦タブー(その範囲は広い)以外は自由で、婚姻とはまったく関係ない(婚姻は制度の問題であり、氏族間の重大な儀礼である)。子供ができても父親が誰であるかはまったく問題にならないなど、母系社会の現実を実感できたようだ。  

 楽しく有益な二日間であった。

ホピの祖先たちの文明  

 翌日午前は、今井さんからお土産にと戴いた、彼のホピの友人で考古学者のフィリップ・トゥワレツティワさんが参加し、かなりのメンバーがプエブロ諸族出身の学者たちで構成されるプロジェクト・チームが調査したDVD「チャコ・キャニオンの秘密」(The Mystery of Chaco Canyon)を鑑賞した。  

 チャコ・キャニオンとはニューメキシコ州北西部の山中にある紀元後900年から1100年頃に建設され使用された遺跡群で、中心となるプエブロ・ボニート遺跡が南西部最大の遺跡(石造4階建て、30数個の円形キヴァ、崩れているので推定約8百の部屋)として知られている。私も行きたかったのだが、4輪駆動車でしか行かれない百キロ以上の悪路であることと、国立モニュメントの保護遺跡で手続きと規制の厳しさで結局あきらめたサイトである。  

 このDVDは、プロジェクト・チームの調査によって、これらの遺跡が居住区ではなく宗教儀礼のための大規模遺跡であること、しかも現代の測定器具をもってしても正確な方位測定によって、太陽の運行と月の運行の正確な方位に合わせて建設されていることが明らかとなった。たとえば各遺跡は半円形に設計されているが、その直線部分は春分・秋分の太陽の昇降線に一致し、またその一部は月の一年の運行を観測可能にしている。石組で造られた太陽運行の観測装置もあるし、月のそれもある。壁に刻まれた岩絵は、光を受けて天体がどの位置に来たかを告知する。  

 見終わった印象は、アナサジと呼ばれるホピやプエブロ諸族の祖先たちが造ったこれらの遺跡の、建築術や天文学的知識のすごさであり、マヤやインカの文明に匹敵する「文明」がここに実在したのだという強烈なものであった。  

 この地域には紀元前8000年以降の石器などが発掘されているが、こうした石造の大遺跡はほぼこの時期のものである。だが12世紀にこの地方を襲った大旱魃で、ひとびとはこれらの遺跡を放棄し、水を求めて現在のプエブロ各地に散っていった。だがこうした文明の驚くべき遺跡を残したひとびとの子孫を「未開」と呼んだ近代人の愚かさを、われわれは厳しく反省しなくてはならない。
 



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1 コメント

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Unknown (山田さやか)
2012-04-26 22:20:25
大阪へは燕が来ています!もう単の着物を先取りしたいくらい暑く感じる日もありますね、北沢さんお元気ですか。 私は昨日の新聞で、江戸時代の徳川家女性親族が、鉛汚染にさらされていたという記事を見たんです。原因は鉛おしろいや陶器などの上薬などらしいです。 私はロックが好きなんですが、ロックの人は男子でもメイクしてる人が多いのです。もしかして、ベートーベンも、毛髪から鉛が出たんだったら、鉛白粉でメイクしていたかもしれない!彼はやっぱりあの時代でロックしてたのか?とか…やよひさんに手紙を書きたくなってしまいました!
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