一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【36】

2008-01-05 21:51:15 | 伊豆高原日記
北沢方邦の伊豆高原日記【36】
Kitazawa,Masakuni

 「新春」というには寒さもきびしい正月であった。いうまでもなく旧暦では元日は2月の中下旬(今年は早く、7日である)で、陽光も明るく、春のきざしに溢れているがゆえに新春なのだが。

 枯葉の山をツグミがつつき、葉を落した雑木の枝々を、ヤマガラやコガラたちが飛び交う。サザンカやツバキの花々の紅が、わずかな陽光に照らされた寒々とした風景に、あざやかな彩りを添えている。その上方に、午後の陽射しにきらめく海がある。

 とにかく2008年は明けた。わが家は来客でにぎわったが、世界にはきびしい年となりそうである。

グローバリズム破綻の徴候

 年明け早々、株価の暴落や原油価格の1バレル100ドル突破など、世界経済に黄信号が点滅しはじめた。おそらくそれは、経済グローバリズム破綻の最初の徴候といっていいだろう。

 すでにたびたび繰り返してきたように、市場と資源の激烈な制覇戦争・争奪戦争である経済グローバリズムは、新自由主義と新保守主義の世界制覇によってはじまり、それらが敷いた「市場万能」「規制緩和」「小さな政府」という既定の路線をひたすら走ってきた。グローバリズムの生みだす富によって、国内が、そして世界が潤うというまったくの幻想を、メディアを通じて振りまきながら。

 だが経済グローバリズムはそれ自体のなかに、恐るべき矛盾を内包していた。その破綻は時間の問題であったのだ。

 まず資本それ自体が生みだす矛盾である。グローバルな競争に生き残るためには、企業は一方で生産コストの果てしない低下を図り、他方でグローバルな展開のために資本の巨大化を図らなくてはならない。M&A(吸収と合併)の反復によって多国籍大企業・大金融機関はますます巨大化するが、その裏でコスト削減は労働の強化や賃金の低下をもたらし、コスト競争に耐えられない中小零細企業の壊滅を引き起こす。

 つまり資本の巨大化は、その本来の基盤である国内の経済構造を歪曲し、ついには解体させるにいたるのだ。とりわけ今回の危機の引き鉄となったアメリカのサブプライム・ローン問題が典型である。住宅バブルの頃、低所得者向けの住宅ローン、つまり低所得者救済の仮面をつけたローンを、証券化して広く大きくばらまき、巨額の利子を手にしようとした金融機関のもくろみが、バブルの破裂によって破綻したものである。つまりみずからの基盤のひとつである大衆から利益を得ようとしたが、その大衆自体が資本の巨大化がもたらしたバブルの破裂に押しつぶされ、金融危機の引き鉄を引くこととなったのだ。

 みずからが巨大化することでみずからの基盤を歪曲し、はては押しつぶすという矛盾はいたるところで火を吹きつつある。それと同時に「規制緩和」「市場万能」がもたらした資本主義の恐るべき投機化が、この危機を一層煽りつつある。

 すでに1980年代、イギリスの経済学者故スーザン・ストレンジが、新自由主義による資本主義の投機化の危険を指摘し、いまや体制は「カジノ(賭博場)資本主義」となったと述べた。ヘッジ・ファンドによる90年代のアジア通貨危機が、その最初の大規模なあらわれといえる。しかしカジノ資本主義に乗じて展開したヘッジ・ファンドだけではなく、各種の年金基金など本来は健全な基金までもが投機的な動きをはじめた、というよりも投機的にならざるをえない状況に追いこまれていった。

 いずれにしろ、これら巨大流動資金によるいわばカジノでの賭けが、原油や食料など、われわれの生活に直結する資源にまでおよぼされ、価格の高騰をもたらしたのだ。すでに労働条件の劣悪化で疲弊したひとびとや、悪化し切った地方経済を、カジノ資本主義の奔流が襲うこととなる。ひとり巨大多国籍企業や金融機関という組織のみが生き残り(ほんとうに生き残れるか)、そこに働くひとびとをふくめ、人間は「人間」であることを辞めざるをえない。

 それだけではない。グローバリズムが加速した自然環境の荒廃とそれがもたらす地球温暖化によって、人類の生存すら危機のなかにある。1月4日に放映されたテレビ朝日の開局50周年記念と銘打った「地球危機2008」は、この問題に関する迫力あるドキュメンタリーであった(全時間をみたわけではないが)。ここで紹介することはしないが、もし再放送される機会があれば、一見をすすめたい。

 とにかく今年は、波乱の一年となるだろう。


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