とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「創造性」よりも「創意」、「発明」よりも「発見」

2016-08-26 12:28:01 | どう思いますか
 次の文は朝日新聞の一面の鷲田清一さんのコラムで取り上げられた言葉である。大久保賢氏の「黄昏の調べ」からの引用。

 求められるのは「創造性」よりも、既存のものを活かす「創意」である。・・・「発明」することではなく、「発見」することである。

 人類は近代になって新しいものばかりを追い求めるようになった。しかしほとんど新しいものは生まれてきていない。斬新なものを追い求めた結果、陳腐なものしかうみだしていないのだ。

 そもそも全く新しいもの、奇抜で新鮮なものを生み出すことなど本質的に無理な話なのだ。人間にとっての新しいものというのは、何らかの土台があり、その土台の上にちょっとした新鮮味を加えたものでしかないはずだ。もしそうでなければ、それは奇妙な無用の長物でしかない。アバンギャルド芸術はそれが一般化したところでもはや芸術ではなくなるが、新しい芸術はそれが一般化しても芸術である。

 すべては模倣から始まる。著作権や特許で模倣を許さなくなった近代は、本質的に間違っているのだ。著作権はもっと制限されるべきなのである。
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チャルメラ出前一丁サッポロ一番みそ

2016-08-25 07:32:48 | お題
 お題に参加します。

 私はインスタントラーメン世代だと思っています。小さいころに明星「チャルメラ」が発売(1966)され、それをソウルフード(?)として生きてきた世代です。ですから「チャルメラ」には特別な思い入れがあります。

 その後1968年に日清から「出前一丁」が発売されました。これがまたいい。ごまラー油というのがついていて、この香りが子供だった私には魔法の調味料に思えました。

 そして革命時の「サッポロ一番みそラーメン」がサンヨー食品がから発売されました。1968年です。みそラーメンという新しいジャンルに興奮した思い出があります。(決して誇張ではありません。)

 以上のみっつがわたしにとってのインスタントラーメンのすべてです。それ以降のものは、たとえおいしくても、亜流の一つという感じにしか思えないのです。

 そういえばこれを調べているうちに、明星が日清のTOBにより日清傘下になったことを知りました。ドラマになりそうなお話です。
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オリンピックでなぜ福原愛に感動したか

2016-08-24 08:00:06 | スポーツ
 リオデジャネイロオリンピックはこれまでになく日本人が活躍しました。中でも卓球女子団体の銅メダルが一番印象に残りました。その後のテレビの取り上げ方から見ても、多くの日本人がそう思ったのだと思います。金メダルがたくさん出た大会でなぜ多くの人がこの種目に感動したのでしょうか。

 それは準決勝から多くの人がテレビ中継を見て、選手の気持ちといつの間にか共振していたからだと思います。特に福原愛は自分がキャプテンでありながら、自分が思うような試合ができず、その苦しみが見ている人と共振していたから、福原を他人事におもえなくなっていたのだと思います。

 準決勝はちょうどお盆休みの午前中でした。だから多くの人がその惜しい敗戦を見ました。それを受けての3位決定戦です。3位決定戦は時間は朝早かったと思いますが、もはやテレビの前で一緒になって戦っているという気持ちになっていました。しかも福原は幼いころからテレビでよく見ていた人だし、準決勝では足を引っ張った形になっていました。だから、みんながなんとか汚名を返上したいという同じ心になっていたのです。だからインタビューでの「本当に苦しいオリンピックでした。」という言葉はだれもが共感できてしまったのです。

 スポーツを見る楽しみはその「共振」にあるような気がします。一緒に戦っているという気持ちがスポーツを文化にしてるのです。
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書評『論文の教室』(戸田山和久著)

2016-08-23 08:23:38 | 読書
 地味な本ですが、大学生に売れてロングセラーになっている本です。日本では論理的な文章を書く教育がなされていません。ですから勉強になります。しかし、本当はこういう内容を学校教育の中で教えることではないのかと思います。

 日本では小学校で作文教育を行う伝統はあるのですが、中学校、高校で小論文を書く指導はしっかりとはなされていません。国語の授業で読解の授業はなされています。しかし論文を書く指導はほとんどなされないのです。この一番大きな原因は国語教師が論文を書く教育を受けてこず、論文を書く指導の方法がわからないからです。高校まで論文を書く指導を受けてこなかった大学生がいきなりレポートを書け、卒論を書けと言われるので、この本が売れるのです。高校の国語教師としては情けなく恥ずかしい気持ちになります。

 日本語の文章は書き手指向でした。書き手の自己満足で終わってしまうことが多いのです。しかし、それでは文章の意味をなしません。これからは読み手指向の文章指導をしなければなりません。この本に書かれているように、パラグラフライティングの書き方をを国語教育の中に位置づける必要があると思います。
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劇評「八月納涼歌舞伎『東海道中膝栗毛』」(8月16日歌舞伎座)

2016-08-22 09:07:16 | 演劇
 八月納涼歌舞伎は三部構成。第二部の『東海道中膝栗毛』を見てきました。染五郎の弥次郎兵衛、猿之助の喜多八が、言ってみればドタバタ喜劇を演じます。奇想天外のでたらめ感がとても楽しい芝居です。

 染五郎も猿之助もはじけてますし、獅童がはじけすぎて楽しい雰囲気をだしています。見て損はないと思います。ただし筋を追うだけの芝居になってしまい、心に引っかかる何かがありません。ちょっとしたものでいいのです。私は心にひっかかる何かがほしいきがします。例えばラスベガスのカジノのシーン。同じ数字にかけ続けることに何の疑問を感じないというのは物足りない。歌舞伎座のチケットは高いのでどうしても期待が高くなってしまいます。

 劇中、映像の映る幕が使用されていました。名称がなんとういうのかわかりませんが、大きなコンサートでは必ず巨大なスクリーンがありますが、それを演劇の舞台に持ち込んだようなものです。ここまで映像が舞台の中に入りやすくなると演出のやり方が大きく変わっていくのではないかと感じます。
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