前に最近の高校の国語の「現代文」の文章が難しすぎるというブログを書かせていただきました。そしてそれはセンター試験のせいだと書きました。その続きです。
センター試験はすべてが選択問題なので普通の文章で出題するとどうしても簡単になりすぎてしまいます。本来センター試験は、個別試験を受けるための資格試験的な性格であったはずです。だから簡単であっても問題がないはずなのです。しかし現実にはそうはなりませんでした。毎年のように難しくなっていく。なぜそういうことになってしまったのでしょうか。
ひとつにはあまりに簡単になってしまうと、東大や京大のような難関校を受験するような生徒はほとんどが満点をとってしまい、しぼりきれない状況に陥ってしまうという事情があったのではないかと推測されます。たしかに個別試験で差がつけばいいのではありますが、センター試験でもある程度差がついていないと、本当に力のある生徒が足切りにあったり、逆にそれほどの力がない生徒も合格しやすくなる。それでは東大や京大のプライドがゆるされないのです。
また、やはり高校の教師側の教科エゴが働いていた部分もあるのではないかと推測しています。自分の教科が簡単ならば生徒は勉強しなくなる。難しい教科であるほうが存在価値があるという意識があり、他の教科よりも難しいことを望んでいたのではないかとも思えるのです。
さて、そこで現代文の問題を難しくする必要が生じました。どういう手を使ったのか。繰り返しになる部分もありますが説明します。
選択式の問題で現代文の試験を難しくするのはかなり大変だと思います。センター試験の現代文の平均点をさげるために問題製作者が考えたことはおそらく次の二つだと思います。
① 選択肢を難しくする。
② 問題文を長く、難しいものする。
①については選択肢を長くして、大部分は正解でありながら、ごく一部だけ本文の内容と合致しない部分をつくることによって、受験生を惑わせようとするのです。間違い探しのような選択肢をつくるのです。ほとんどいいのにごく一部だけがちょっと違う。そんな選択肢をつくることによって正答率を下げるのです。かなり意地悪な選択肢もあります。それ以上に予備校やベネッセの模擬試験の問題は大変な状況です。そこまでやるかというような選択肢をよく見かけます。国語教師だってほとんど解けないときもあるくらいです。
②についてが、この文章の取り上げるテーマなのですが、最近の国語の現代文の試験で扱っている文章が、現代思想、あるいは現代哲学の文章のような、大学というよりも、大学院で、しかも思想的な勉強を専門に扱う人が読むようなものになっているのです。はっきり言ってしまえば、高校生や大学生が読むべき文章のはるか上の文章なのです。
おそらく極端な場合、受験生はほとんど内容を理解できないまま読み進みます。しかし、選択肢を選べばいいだけなので、内容がわからなくても解答ができるのです。選択肢の間違い探しをしているような状況で試験が行われているのです。それなりに理解できる箇所もあるのですが、文章の本質的な部分は理解できないまま読み進めているのは間違いありません。
センター試験がこれだけ難しくなってくると、教科書もそれに対応できる内容のものを掲載するようになります。「現代文」の教科書に載る文章も難しくならざるを得ません。
こうして国語の教科書にたくさんの難しい文章が出現したのです。
(続きます。)
センター試験はすべてが選択問題なので普通の文章で出題するとどうしても簡単になりすぎてしまいます。本来センター試験は、個別試験を受けるための資格試験的な性格であったはずです。だから簡単であっても問題がないはずなのです。しかし現実にはそうはなりませんでした。毎年のように難しくなっていく。なぜそういうことになってしまったのでしょうか。
ひとつにはあまりに簡単になってしまうと、東大や京大のような難関校を受験するような生徒はほとんどが満点をとってしまい、しぼりきれない状況に陥ってしまうという事情があったのではないかと推測されます。たしかに個別試験で差がつけばいいのではありますが、センター試験でもある程度差がついていないと、本当に力のある生徒が足切りにあったり、逆にそれほどの力がない生徒も合格しやすくなる。それでは東大や京大のプライドがゆるされないのです。
また、やはり高校の教師側の教科エゴが働いていた部分もあるのではないかと推測しています。自分の教科が簡単ならば生徒は勉強しなくなる。難しい教科であるほうが存在価値があるという意識があり、他の教科よりも難しいことを望んでいたのではないかとも思えるのです。
さて、そこで現代文の問題を難しくする必要が生じました。どういう手を使ったのか。繰り返しになる部分もありますが説明します。
選択式の問題で現代文の試験を難しくするのはかなり大変だと思います。センター試験の現代文の平均点をさげるために問題製作者が考えたことはおそらく次の二つだと思います。
① 選択肢を難しくする。
② 問題文を長く、難しいものする。
①については選択肢を長くして、大部分は正解でありながら、ごく一部だけ本文の内容と合致しない部分をつくることによって、受験生を惑わせようとするのです。間違い探しのような選択肢をつくるのです。ほとんどいいのにごく一部だけがちょっと違う。そんな選択肢をつくることによって正答率を下げるのです。かなり意地悪な選択肢もあります。それ以上に予備校やベネッセの模擬試験の問題は大変な状況です。そこまでやるかというような選択肢をよく見かけます。国語教師だってほとんど解けないときもあるくらいです。
②についてが、この文章の取り上げるテーマなのですが、最近の国語の現代文の試験で扱っている文章が、現代思想、あるいは現代哲学の文章のような、大学というよりも、大学院で、しかも思想的な勉強を専門に扱う人が読むようなものになっているのです。はっきり言ってしまえば、高校生や大学生が読むべき文章のはるか上の文章なのです。
おそらく極端な場合、受験生はほとんど内容を理解できないまま読み進みます。しかし、選択肢を選べばいいだけなので、内容がわからなくても解答ができるのです。選択肢の間違い探しをしているような状況で試験が行われているのです。それなりに理解できる箇所もあるのですが、文章の本質的な部分は理解できないまま読み進めているのは間違いありません。
センター試験がこれだけ難しくなってくると、教科書もそれに対応できる内容のものを掲載するようになります。「現代文」の教科書に載る文章も難しくならざるを得ません。
こうして国語の教科書にたくさんの難しい文章が出現したのです。
(続きます。)