新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

オリンピック開催は既定路線か

2021-03-29 08:41:23 | コラム
第4波が来ても、ワクチンは来ないのに:

25日から聖火リレーを始めてしまった以上、オリンピック・パラリンピックは開催するものだと決まっていて、揺るがないのだと思う事にした。思うに、バッハ会長とIOCには何が何でも開催する以外の選択肢はなく、我が国のJOCとか組織委員会は従う以外の選択肢など始めからなかったとしか思えない雰囲気だ。一部には聖火リレーを開始するかどうかが、開催するか否かの決定の表明になるとの見方があった。そして、そのリレーは開催されてしまった。余計な事だが、私は勝俣州和なるタレントがトーチを掲げて「スタートします」と言うのを聞いてウンザリしていた。

私はもしも開催できなかった場合の選手たちの失望落胆を思う事と、我が国が被るだろう経済的な損失を考える時に、開催は望ましい事かとは考えていた。だが、新型コロナウイルスの感染は世界的に一向に沈静化されず、我が国では世界と較べれば善くぞ低く抑えてあるという状況にはあるものの、緊急事態宣言の解除後には既に第4波の襲来の傾向が徐々に明らかに見えて来始めている。しかも、如何なる契約上の問題があったか知らないが、ワクチンの輸入は政府が標榜したほどにははかばかしくないようで、不安材料として重くのしかかっている。

そこに、組織委員会は海外からの観戦客を無しとする事をIOCと共に決めてしまった。世界各国から派遣されてくる選手団の扱い、検疫、ワクチン接種の有無等々は未だに検討中のようにしか思えない。4万人かそれ以上かとも推定されている入国者対策用の医療従事者も募集し切れていないようだし、ボランティアにも辞退者が続出しているとマスコミは言う。これではまるで悪材料ばかりであり、そういう環境下でも強行するのかとの声も上がっている。

それよりも何よりも、私には困った状況ではないかと思って見ている事がある。それは、1年延期を決定した昨年の今頃よりも、と言うか最初の緊急事態宣言が発出された時よりも、感染者の数と言う面では現在の方が悪化しているし、当時では云々されていなかった変異株の感染者が全国的に増加しているという、新たな好ましくない条件さえ出てきた。佐藤正久自民党外国部会長は政府が未だに外国人の入国を何万人の単位で認めている方針を厳しく批判していたのは、誠に尤もであると思う。要するに「そんな事をやっていて」という意味だ。

確かに悲観的な材料を挙げていけばキリがないとは思う。しかしながら、我が国における感染者のこれまでの総合計にせよ、重症者にせよ、不幸にも亡くなられた方の数にもせよ、我が国では世界的に見れば圧倒的に低く抑えられていても、世論調査では「感染症対策が不行き届き」が過半数に達しているのは、言いたいように言えば「マスメディアのフェイクニュースに惑わされているのだ」となると思っている。私はそうであるからと言って「IOCに圧されて赤字が出る事間違い無しというオリンピックを、開催する為に開催するのが最善の選択なのか」と疑問に感じている。

開催するにせよ、再度の延期を決定するにせよ、思い切って中止にするのにせよ、遙か8時間も時差がある場所にいて、現状を見ずして決定するのがIOCの仕事なのだろうが、判断の為の材料というか条件は上述のものだけでも、大いに当事者を惑わせるだろう。山下JOC会長、橋本組織委員会長、丸川担当大臣、小池主催都市知事、菅総理大臣は鳩首決断する必要がある事だろう。念を押しておくと、私はトーマス・バッハ会長及びIOC不信論者である。彼らに任せる事なく、我が国の側から躊躇う事無く自国の意見を具申すべきだ。


アメリカの労働力の質の問題点を探る

2021-03-28 11:09:49 | コラム
労働組合の在り方に原因があると言える:

私はこれまでに繰り返して「アメリカの労働力の質に問題がある」と指摘して来た。その主たる原因としては、1994年7月に当時のUSTRの代表者だったカーラ・ヒルズ大使が指摘された「対日輸出を増やす為には識字率の向上と初等教育の充実の必要性がある」との2点を挙げてきた。これは誠に尤もで、我が国では一寸想像できない事だと思う。それは、「アメリカの労働組合員たちの中には字が読めず、十分な教育を受けていなかった為に英語が読めない者がいる」と、ヒルズ大使は言っておられたのだから。

退屈かも知れないが、この点を立証する為に繰り返しになる事を述べて置こう。それは、戦後間もなくアメリカに学ぼうとアメリカを訪問された方の多くが工場に入られて、そこに用意されている現場の組合員たちの教育用のマニュアルを見せられて「素晴らしいと感動された」との帰国談を発表されたものだった。マニュアルが良く出来ているのは間違いないのだ。だが、問題はそれを読めない者がいるという事だった。だが、問題はそこで終わっていなかった。私が工場の管理職から聞かされた事は「読んだ振りをする奴がいて困る」だった。

要するに、如何にマニュアルに親切丁寧に作業の内容が指示されていても、読めなかったり読んだ振りをされたのでは、如何ともし難いのである。また、経験上も言えるのだが、彼ら組合員たちに語りかけてみると、確かに英語が解らない移民や難民や外国人がいるのだった。解りやすく言えば、アメリカの現場ではそのような労働者を抱えて回っているとなるのだ。その教育の程度ではスペックが守られなかったり、規格外品が正常品として検査の目を潜って出荷されてしまう事が屡々生じるのだった。

ここで、あらためてお断りしておくと、私が論じている事はアメリカの紙パルプ産業界の工場における事であり、他の産業界でも同様な状況にあるとまでは断定していないのだ。だが、アメリカの他の産業界が我が国への輸出で大成功を収めていないという現実を見れば、そこにも労働力の質に問題があると言って大きな誤りではないと思っている。更に、念の為に確認しておくと、アメリカの組合は職能別組合であり、我が国のような会社毎に組合があるのとは大違いであり、組合は法律的にも会社とは別個の存在であるという文化の違いだ。

ここで、これまでに述べてこなかった恨みも残る、アメリカの労働組合の実態に触れていこうと思う。2017年にワシントン州に文字通りの“pleasure trip”で遊びに行った際に、州の南部にある工場を訪問して、旧知の連中に会ってきた。折角だからと、最早部外者となった私も許可を貰って工場見学(何故か tourと言うが)をした。そして、製紙の後の工程であるポリエチレンラミネートの事務所に入った。そこには昔懐かしき数多くの初歩的な事故である不良品の見本が壁に貼ってあり「こういう誤りを犯すな」と大きく掲示されていた。

そこで「未だにこんな事で組合員たちの注意を喚起する必要があるのか」と居合わせた会社側の担当者に尋ねてみた。答えは「残念ながら時が経っても、人が変われば古き悪しき失敗は繰り返されるのだ」となっていた。「なるほど」と納得した。問題はこの「人が変わるから」にあるのだ。その点を解説しない事には、アメリカの問題点を納得して頂けないと思う。これは「部外者の立ち入りお断り」の工場での出来事である以上、新聞記者やジャーナリストの方々には踏み込めないか、踏み込ませない場での事なので、今まで誰も触れてこなかったと思う。

それは「労働組合員たちは会社側とは別個の存在であり、組合に入れば“union card”という身分証明書を交付されて身分は法律的に保護される事になる。そして、組合員は時間給制であり、現場に出れば、先ず最低の時間給である雑役から始まって、年功と共に仕事の内容が高度になって行き、時間給も上がっていく仕組みになっている」辺りから説き起こさねばなるまい。「何だ。当たり前の事じゃないか」と言われそうだが、そうばかりではないのだ。

勤務年数が増えれば仕事が行動で難しくなっていき、最年長者ともなれば現場から離れて、会社員のようにジャケットを着て試験室でデータ表の作成をする等の楽な仕事をするようになるのだ。ここで注意しておく事がある。それは、勤務年数で職位が上がっていくという事は、馴れない新人が入ってくるか、これまでに雑役に従事していた素人が未知の分野の製紙の機械を操作さするとか、ポリエチレンラミネートのエクストルーダーを動かすような事になるのだ。そこで、先達からの引き継ぎが解らなかったり、用意されているマニュアルが読めなかったらどうなるのかという事だ。

そこで、前述の不良品が壁に貼ってあった事に戻るが、そうやって目に物見せておかない事には「何をやってはいけないか」か「どのような製品が出来てしまったら、班長に報告して廃棄すべきか否かの判断を仰ぐ」等を理解させる必要が、13年経ってもあったのだと言う事だ。組合の中で勤務年数で仕事が変わり、時間給が上がっていくという事は、後から後から新人が仕事を引き継いでいくという意味なのだ。その引き継ぎが英語力に問題があるとか、字が読めない者たちの間で行われているとしたら、どうなるかと言う事。こんな事を想像していた方がおられるだろうか。

我が事業部では本社機構にいる者全員がこの現場の実態を十分に認識していたからこそ、組合員たちに「技術を向上させ、品質の向上と改善に努力する事が事業部全体の安定に貢献し、対日を始め輸出市場での地位が確固たるものになれば、君らの職の安全と安定が保証されるのだ」と、再三再四説き聞かせてきたのだ、換言すれば「輸出市場での地位の確立」と「労働組合の意識向上と労働力の質の向上」は、言わば車の両輪であると言い聞かせたのだった。

労働組合が会社側とは別個の存在であるとの点は、これまでに何度も採り上げてきた。しかしながら、この文化の違いを認識しておられる方がそれほど多いとは思えないし、この文化の違いが我が国とアメリカの市場における「品質の受け入れ基準」に大きな違いをもたらしているのだが、この点はまた別の機会にもで採り上げてみようかと思う。


3月27日 その2 アメリカの技術力の問題点を考えれば

2021-03-27 16:27:24 | コラム
私のアメリカ論:

昨26日の産経新聞の「正論」に「『日本の科学力が高い』は幻想だ」との中村祐輔氏の論文が掲載されたので、それに触発されて、私の経験から「アメリカの技術力の問題点」を振り返ってみようと思い立った次第。

アメリカは実質的に敵に塩を送っているのではないか:
ここでの議論は我が友YM氏の8年間に及ぶアメリカの有名私立大学のビジネススクールで教えていた経験談からの引用であるとお断りしておく。広く知られている事で、アメリカのIvy Leagueの大学のビジネススクールでは、多くの外国人を受け入れている。中でも学力に優れ英語力も高いのが中国人、インド人、韓国人、シンガポール人、中近東系等の順になるとかであるそうだ。だが、残念ながら、我が同胞の留学生が少ないのも問題だろうと、彼は指摘していた。彼らの問題点はどうやら英語力にもあるようだ。

YM氏が見てきた限りでは、中国人たちは嘗ては自国の政権を信用せず、MBA取得後もアメリカに止まって職を求める傾向があったのだったが、今や帰国する者が非常に多くなってきた由だ。。即ち、それだけアメリカ式の最先端の経営学を修得した若手が激増しているのだと言う事になる。その流れからすれば、もしかすると、理工系の留学生たちも学業を終えれば中国に帰っているのではないのだろうかと考えられる。

しかも、中国政府は留学生の高額な学費を援助しているとも別な佳路で聞かされた。私でさえ、この状況下ではアメリカは中国の若手をアメリカの頭脳の成果を活かして教育しているのと同じで、それでは後難を恐れずに言えば「アメリカは敵に塩を送っている」のと同じ事をしていると思えて仕方がない。懐が深いというか、あるいは人が良すぎるのかの何れではないか。

韓国勢は元々財閥のオウナーの子弟が圧倒的に多く、MBA取得後は必ず帰国して自社の経営に従事するそうだ。サムソンのこの度確か有罪になった副会長もハーバードのMBAであり、その縁でYM氏の知人であるとか。即ち、韓国にもアメリカ式最新の経営学を学んだ経営者が多いという事なのだ。現に、私がな長年交流してきた中小財閥の会長のご子息もお孫さんも全てUCのバークレーかLAのビジネススクールに留学していた。韓国は兎も角として、これでは、アメリカは中国にも韓国にも近代経営の粋を提供している事になっているのだ。インドにMBAが増加するのは当面の問題ではないとは思うが、「一方、我が国は・・・」ではないのか。

技術の面を見てみよう:
私は「アメリカの最大と言っても良い弱点はR&D、即ち新たに創造した技術(テクノロジーか)の分野でにおける開発能力はアメリカ人のみならず世界からも優れた人材が集まって、世界最高の水準を間違いなく維持していると見て誤りではないだろう。それだけではなく、アメリカの強みは技術開発には惜しむ事なく投資をする事だ」と見ている。しかしながら、その新技術も「商業生産の段階に降ろした場合に低質の労働力が禍して、屡々折角の製品が世界に通用する品質に至らずに終わる事がある」のが問題なのである。

解りやすい例を挙げれば自動車産業がある。自国で定めた排ガス規制すら達成できずに、日本車やドイツを主体とする欧州車に市場を席巻されてしまったではないか。この最大の敗因がUAWの労働力の質にあったのは遍く知られた紛れもない事実。我が製紙の分野でも既に世界の大勢に遅れてしまっているのも紛れもない事実。遅れていなければ、オバマ政権時代に中国とインドネシア等の新興勢力からの印刷用紙の輸入を100%を超える高関税を科して締め出す事などなかったはずだ。

尤も、そこにはアメリカ式経営方針である「十分に利益が上がらない場合には、近代化も合理化への設備投資はしない」との大原則を死守せざるを得なかった紙製品市場の過当競争で利益が上がってこなかったとの実態もあった。この為に、現在のように中国等の新興勢力の世界最新の設備と技術と労働力の質に負けて、大手のメーカーの多くがChapter 11(我が国の民事再生法)による保護を請願して倒産乃至は整理してしまっていた。

アメリカの方向転換:
そこで、アメリカの若き精鋭たちは方向を変えて、GAFAMのように自社では物を製造しない業界に進出したのだと、私は見させられてきた。そこにはビル・ゲイツやステイーブ・ジャブズ等々の優れた頭脳の持ち主が現れたのだった。以下はは単なる私の回顧談。何時の事だったか、シアトル市の南にある大ショッピングセンターの駐車場の外れに小さな建物があって、Microsoftと言う看板が出ていた。居合わせた同僚に「あれは何の会社」と尋ねると「確かコンピュータのソフトだったかを作っているとか」という答え。「そんなものが商売になるのか」と2人で訝り合ったのだ。

その後、何年経ったか、副社長所有のキャビン付クルーザーで何度もお客様の接待で、シアトル郊外のユニオン・レークでクルージングを楽しんだ。すると、何時も岸辺に見えるのが広大な土地(5万坪とか)に建築中の超超豪邸が何年かかっても工事が終わらないのだった。誰の家かと聞けば「ビル・ゲイツのだよ」だった。この家はクルージングの際に必ず近寄ってその凄さを鑑賞するようになった名物。シアトル市の南の外れには既に解体されたキングドームがあったが。その近所にあった汚いビルがスターバックスとアマゾンだった。

因みに、往年にはスターバックスは我が社の広大なカフェテリアの片隅で、旗を立てて小さなスタンドでコーヒー売り始めていた。「あれは何ですか」と副社長に尋ねると「苦いのが売り物のコージー屋だ」と教えられたのを未だに覚えている。

アメリカの現代の優秀な経営者たちが労働力の質の問題が、アメリカの海外市場における競争力を弱体化させた原因と意識していたのかどうかなどを知る由もないが、彼らの物を作らない事業を目指した方向性は間違っていなかったのだろう。それがGAFAMを今日あらしめたにだろうと、今になっては解る。

その流れから取り残された労働者階層の支持を巧みに取り付けたトランプ氏のやり方は素晴らしいとは思うのだ。トランプ大統領が彼らを如何に時代に取り残されないように教育していくかが課題だと思っていたのだが、あの落選の憂き目に遭ってしまった。課題とは、私が身を以て体験した識字率の向上や英語も良く出来ない者たちの初等教育の改善等にあるのと言えるだろう。私は事はそれだけでは済まないと危惧する。即ち、異邦人というか多くの少数民族が著しく増加したのも、組合員の技術と労働力の質の改善の為には、更なる負担となって行く事が容易に想像できるから。

ここまでに述べてきた労働力の質を改善するのは生易しい課題ではない。我が社と言うか我が事業部ではやり遂げるしか選択肢がないと解っていた。だが、当事者の一人だった外国人の私には、大いなる負担だったが事業部全員でやり遂げた。困難だった理由は簡単で、英語ももろくに解らない人たちに「国際市場における競争能力の強化」などを如何にかみ砕いても、1時間や2時間の話し合いでは徹底する訳がないのだから。彼らには「職の安定と安全」から説き起こしていくしかなかったのだ。

その我が社も既に紙パルプの事業からの撤退を数年前に完了してしまっている。矢張り、5Gかそれ以上の時代に向かっているのであれば、志向すべきはGAFAMのような方角なのかも知れない。永年の友人である元はと言えば電器会社だった世界的企業の元副社長は「うちは今では確実に電器の会社ではない」と振り返っていた。


Uー24の対アルゼンチンのサッカー

2021-03-27 09:44:05 | コラム
今回もサッカー論を:

サッカー論とは言ったが、その他に考えさせられた点が多い試合だった。その辺りも含めて、昨26日夜のサッカーを回顧してみよう。

先ずは「U―24とは何だ」という辺りから。それは、サッカー界はオリンピックには余り関心がないようでW杯に重きを置いているので、参加する各国の代表は確か23歳以下だったと記憶するからだ。ところが、よく考えれば東京オリンピックは1年延期されたので自動的にU―24になったのだろうと勝手に解釈する事にした。それにしても、一昨日の韓国戦に続けて良くも外国から入国させたと思えば、アルゼンチンは3日前に到着したばかりだったそうだ。検疫等は十分に行い万全の態勢だったとかだ。

と言う事は、この試合もオリンピック・パラリンピックを何としてもやる以外ないというバッハ会長様の揺るがぬ方針の下に、予行演習的な性質であったのかと思わざるを得なかった。即ち、それなりに観客も入れていたし、無言(だったのだろう)の応援もあったようだった。私は敢えてオリンピック開催に向けての涙ぐましい努力だと受け止める事にした。それは、開催に持ち込まない場合の経済的損失を考えれば、ウイルスで失った分に更に上乗せになってくるからだと思う。IOCとバッハ会長不信任論者の私は、我が国が被るだろう損失だけが気になっている。

そこで試合である。今でも、あの世界の強豪を相手にして「1対0」との結果が善戦健闘だったと賞賛すべきか、敢えて野球を例えに使えば「打てるか、打てそうな投球は一つも来なくて、手も足も出なかった」と評すべきかで迷っているのだ。間違いない事実は「相手も体調が万全ではなかったかも知れないが、1失点だけに抑え、こちらにも何回か得点できるかも知れない形が出来た事もあった」という点である。現場で見ていなかった私には、得点し損ないを「惜しい」とするか「未熟だっただけ」とすべきかの判断に迷っているのだ。

確かに、急拵えの寄せ集めのテイームであり、マスコミが騒いでいたように久保と三苫の組み合わせは素晴らしいのかも知れないが、初めて顔を合わせたばかりでは、昨夜の出来辺りは限界だったのではないか。確かに久保君は上手いし、三苫君にも「これは」と思わせられた点があった。だが、相手がいる事だし、そうそうは上手く行かなかったのも仕方があるまい。全体としては、A代表には入れなかったとは言え、一寸見ぬ間に彼らの体幹が強化されていたのと、足が長い外国人とのサッカーのやり方を身につけていたのは、大いなる進歩だったと評価したい。

アルゼンチンもそれほど目を奪うような凄いサッカーを見せてくれた訳ではなかったが、要所要所では世界的に水準が高い南アメリカで揉まれ、更にヨーロッパの一流リーグでの経験が生きていて、我が方を抑えきってしまったのだと思っている。その差が我が方に決定的な形を作らせな方のだと見た。彼らもそれほどチャンスは多くなかったが、たった一度強引にゴールラインギリギリに持ち込んで折り返したのを、待ち受けていた身長が高い者のヘッディングで決めただけに終わった。我が方は良く守っていたと思う。

一昨日も感じた事だが、嘗ての我が国の代表テイームでは本田、香川、長友、岡崎、遠藤、長谷部等々が目立っていて、彼らに残る連中が引っ張られていた感が濃厚だった。換言すればヨーロッパ組と国内組の間に落差があったのだ。だが、今や皆同じような体格と技術水準に収斂されてしまった感があり、良く言えば粒が揃ってきていたのが印象的だった。悪く言えば「没個性集団」のような気がするのだった。因みに、遠藤保仁は国内組だったが。

偏見かも知れないが、サッカー界には野球やラグビーに見えるような図抜けた素材が見当たらないように思えてならない。もっと突っ込んで言えば「フットボール界のようにウエイトトレーニング等々を活用して体幹と体力を、それぞれのポジションに合わせて作り上げてきたような体格の選手は未だ見当たらない」と言う事だ。言いたくはないが、日本大学フェニックスの橋詰監督はそういう訓練を重視した練習法で、甲子園ボウル出場を果たしていた。サッカー界もその方向に目を向ければ、更なる向上があるような気がするのは僻目か?


日本代表チームが韓国代表に快勝

2021-03-26 08:46:50 | コラム
韓国代表を3対0と完封勝利:

サッカーの親善試合の結果である。本当に久しぶりにサッカーの国際試合を見た。先ず、寧ろ驚かされたのが「この時期に韓国から代表テイームを入国させ、我が方ではヨーロッパ組を呼び寄せていた事」だった。テレビでも新聞でもどのように検疫をして何処かに隔離したかの報道はなかった気がしたが、こちらの見落としか?考えすぎかも知れない事を言えば「オリンピックの予行演習の一環か」となる。

そんな事よりも、我が代表が宿敵韓国を破った事は、この何もかも重苦し時期にあって、陳腐な言い方をお許し願えば「一服の清涼剤だった」とでもなるだろう。近頃はJリーグの試合の迫力不足もあってサッカーに興味を失っているなどと言ってきたが、昨夜の試合振りは韓国のお株を奪う寄せの速さで相手の攻撃の目を潰し、反則を取られるのを怖れない果敢な当たり方の守備で、乱暴なサッカーの本家である韓国を圧倒したのには恐れ入っていた。

良かったのはそれだけではなかった。冷静なる評論家が何時も貶している「流れの中で点が取れない」というまだるっこさを見事に解消して、前半の2点は綺麗にパスが回って鋭いシュートで決めていたのだった。何らの予備知識もなくJリーグから何処の誰が選ばれているのも知らなかった。だが、一寸見ない間に彼らがこれほど逞しくなって韓国勢を圧倒するとは本当に素晴らしい事だと感心していた。以前は歴然としていた欧州組と国内組との技術的な差ななどは、ほとんど観られなかった。森保監督の指導力がよほど優れているのかと疑った。

不思議に思えてならなかった点を挙げてみよう。それは、未だ嘗て見た事もないような韓国代表選手たちの消極性だった。彼らの良い意味でも悪い意味でも最大の特徴である「日本が相手だと持てる力以上のものを出してきて、レッドカードなどを怖れていないとしか思えない闘志を見せて、守るも攻めるも激しく当たってくるサッカーがなりを潜めていた」のだった。しかも、それだけに終わらず、我が国の得意技だった後方への逃げのパスを連発する弱気まで見せていた。私は監督がポルトガル人だったかので、スタイルを変える途中かなと受け止めていた。

だが、今朝になって漸く解ったのだが、韓国代表には主力の選手たちが招集されていなかったのか、あるいは不参加だったようなのだ。そう知れば、もしかして未だにウイルスの感染拡大を抑え切れておらず、ワクチンの接種も遅れている我が国には危険を冒さずに、敢えて一軍半の選手たちを送り込んで来たのかななどと、折角の快勝に水を差すような事まで考えてしまった。それかあらぬか、何時も韓国代表を相手にしたサッカーで感じる興奮がまるでなかった。

見終わって考えたのだが、つい先日論じた事で「諸外国の団体競技のテイームが強いのは、強い個性を持った強靱に鍛え上げられた体力と体幹の上に、高度な個人技を植え付けた者たちの集団である事」によるものであり、我が国の「一丸となって事に当たる、個性よりもチームワークを最重要視し、フェアープレーに徹する我が国の鍛え方で育ってきた集団」よりも優っているのだという辺りを、急拵えで集めた、それまでにお互いに見た事もなかった者たちを集めても、個人の力を集団で発揮できる次元にまで彼ら選手たちが、国の内外で強化されていたのではと思わせられた。

悪い言い方になるだろうが、森保監督の指導力の問題ではなく、この試合の為に集められた選手たちの技術力と体力が向上していた事のお陰だろうと思うのだ。現に、これまでの私が繰り返し指摘して嘆いてきた「当たり負け」と「当たられ負け」がほとんど見られなかった事は、本当に良かったと思う。これらの良さが一夜だけの事に終わらないように希望したい。矢張り、一言だけ苦言を呈しておけば「シュートをより正確且つ強くして欲しい点」だ。南野君にそれらの点が備わっていたら、後少なくとも3点は取れていただろう。