♦️402『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦の道(ヨーロッパ戦線・第四次ポーランド分割)

2018-05-13 20:55:05 | Weblog

402『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦の道(ヨーロッパ戦線・第四次ポーランド分割)

 ポーランドにおいては、966年にピアスト朝がキリスト教を受容する。1386年になると、ヤギエウォ王朝が成立する。1573年には、選挙王朝の時代となる。1795年、第3次分割によりポーランド国家が消滅する。長い苦難の時代の始まりであった。
 1914年からの第一次世界大戦では、ヨーロッパは血みどろの戦場と化した1917年11月には、バルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立する。それに続く1918年3月3日、ブレスト・リトフスク条約が結ばれる。これは、枢軸国側(ドイツなど)とソヴィエト・ロシア(三国協商の一角としての)との間での、単独講和条約に他ならない。この条約締結地のブレスト・リトフスクは、現在のベラルーシのポーランド国境の都市である。
 これには、大いなる事情があった。1917年11月に生まれてから日が浅いソビエト・ロシアは、世界最初の社会主義革命の行く末を守らなければならなかった。そのため、他の協商国にはからず単独で枢軸国側と講和し、戦闘を終結したことで、枢軸国側のドイツ、オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦に応じる。
 この条約の内容としては、ソビエト・ロシアは、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国などを放棄し、フィンランドから撤退し、ウクライナの独立を認め、ザカフカースの一部をトルコに譲る。これにより、ポーランドが独立を回復することになる。だが、これで「めでたし」とはならない。
 1939年、今度はドイツのナチス政権が動く。独ソ不可侵条約を破り、ドイツのヒトラーの軍隊がポーランドに侵攻する。そのやり方は、戦車機動部隊を押し立てて突破するという強引さであった。
 さしあたっては、ダンツィヒ自由市とポーランドの海への出口であるポーランド回廊の割譲を要求したのだ。ポーランド政府がこれに抵抗すると、ヒトラーはポーランド攻撃に踏み切る。おりしも、モスクワでは、1939年3月10日~21日の予定でソ連共産党の第18回党大会が開催されていた。ソ連指導部は、驚愕をもってそのニュースを聞いたに相違あるまい。
 1939年8月23日のモスクワにおいて、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結ぶ。その秘密議定書の中で(18世紀の三回に続いての)4回目のポーランド分割を取り決めていた。その一、二項には、こうある。
 「一、バルト諸国(中略)の領土的・政治的再編については、リトアニアの北部国境を持ってドイツとソ連との勢力圏の境とする。この際、ヴィリニュスについては調印国双方が利害を共有する。
二、ポーランドの領土的・政治的再編については、ナレツ、ヴィスワ、サンの河川をドイツとソ連との勢力圏の境とする。ポーランドを独立国としておくか、その国境線をどう定めるかーこれらは今後の政治的進展により決定される。いずれにしても、両政府は本問題を友好条約により解決する。」(引用は、渡辺克義「物語ポーランドの歴史」中公新書、2017)
 そして迎えた1939年9月17日、ソ連軍がベラルーシ人とウクライナ人の保護を名目に、ポーランドの東側から国境を越えてくる。続いての1940年の4月から7月にかけて、ソ連の機関によって、これに先立ち本国から連れ去られていたポーランド人将校と知識階級らの人々(2万2千人とも2万5千人とも)が「カティンの森」で殺害された。ソ連の関与については、内務人民委員部なりが独走したとも、ソ連共産党政治局の指示によるとも、諸説があるようだ。
 ソ連がなにゆえこの事件を引き起こしたのかについては、一説には、ソ連にとって、ロンドンに逃れていたポーランド亡命政府(アメリカとイギリスが支持)をたたき、自分たちが後押ししてポーランドのルブリンに発足させた暫定政府をアメリカとイギリスといった当時の国際社会に認めさせるために必要であったからだ、と言われている。
 ポーランドにおいては、民衆が黙っていない。国民民主戦線が、労働者、社会民主党、地下労働組合、農民、青年によって結成される。1944年、ドイツ占領軍に対しワルシャワ市民が武装蜂起するのであった。

(続く)

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♦️405『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

2018-05-13 20:52:01 | Weblog

405『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

 想い起こせば、フィンランドとしての国家の成立は、20世紀になるのを待たなければならなかった。11世紀~12世紀になってキリスト教が伝来、東西キリスト教の角逐があった。1323年、スウェーデン・ロシア間の国境が確定する。このときフィンランドは、スウェーデン王国に組み込まれ、そのの一部となる。1809年、スウェーデンがフィンランドをロシアに割譲する。
 その分水嶺を提供したのは、まずはイギリスへの「大陸封鎖令」の履行をスウェーデンに迫るナポレオン・フランスと、これを拒むスウェーデンとの争いであった。そこで、ナポレオンはスウェーデン領であったフィンランドを攻撃するようロシア皇帝に求める。ロシアは、それではとフィンランドに軍を派遣し、スウェーデン軍と戦う。戦争はロシア側に軍配が上がり、1809年9月に講和条約が締結にいたり、スウェーデンはフィンランドをロシアに割譲する。これによりほぼ600年にわたるスウェーデン統治に幕が下ろされる。
 他方で、1814年のスウェーデンは、ナポレオン戦争の講和としてのキール条約でデンマークからノルウェーを割譲させ、手に入れる。その後のノルウェーは、スウェーデンとの「同君連合」下におかれ、その鎖を断ち切ってノルウェーが独立を勝ち取ったのは1905年のことである。
 1917年12月、ロシア革命後のロシアより、フィンランド共和国として独立を宣言する。レーニンを首班とするロシア革命政府がこれに同意を与えたことで、ここにフィンランド共和国が成立する。その後のフィンランドは、国内に残っていたロシア軍のことも相俟って、国内の赤衛隊と白衛隊との間で内乱が勃発するのだが。4か月の戦いで白衛隊に勝利が傾いていく。翌1918年の3月には、ロシア政府は、ドイツとの講和であるブレスト・リトフスク条約に従い、フィンランドに残っていた2万5千人のロシア軍を撤退させる。
 そして迎えた1919年、新たな統治章典が制定され、スウェーデン統治時代からの政体法が廃止される。大統領制が導入され、1919年5月のパリ講和条約において改めてフィンランドの独立が承認され、フィンランドは独立国家への大きな一歩を踏み出す。
 1921年になると、新たな問題が起こる。スウェーデンとの間に位置し、バルト海に浮かぶオーランド諸島において、スウェーデンとの間で帰属問題が浮上したのだ。現地オーランド諸島の住民の間では、スウェーデンへの帰属に傾く。
 そんな中、これをスウェーデンが国際連盟に提訴していた領土問題で、連盟による裁定が出る。これは、いわゆる「新渡戸稲造裁定」ともいわれ、事務局次長であった新渡戸が取りまとめたことで知られる。これにより、領土はフィンランドに与えるかわりに、言語はスウェーデン、文化、風習は当地を尊重する。オーランド諸島には自治権を与え、この地域を非武装中立とし、総督を置くというもの。
 1939年11月~40年3月、最初の対ソ戦争(冬戦争)を戦う。この年の10月、ソ連がフィンランドに領土交換を提案してくる。ソ連がロシア・カレリア地方の一部を割譲する見返りに、フィンランドからヘルシンキ近郊のハンコ岬の30年間租借とフィンランド湾東部諸島の譲渡、北極圏ペツァモとカレリア地峡国境線の一部後退を求める。この交渉は双方で多少の譲歩はあったものの、交渉は決裂し、戦争に入る。双方のあわせて十数万の戦死者を出しての膠着状態の中、講和条約が締結される。ソ連は当初の要求の大部分を手にし、フィンランドは自国の存在をソ連を認めさせる。
 続いての1940年12月には、ナチス・ドイツからソ連侵攻計画「バルバロッサ作戦」への参加を求められる。そして迎えた1941年6月、ドイツがソ連に進攻すると、ドイツと盟友関係のフィンランドは、「大フィンランド」の実現を目論んでソ連と再戦するにいたる。これを「継続戦争」と呼ぶ。この戦争は、ナチス・ドイツからの支援を受けて1944年まで続く。
 1943年2月にスターリングラードの攻防戦でドイツ軍機動部隊が大敗を喫すると、フィンランドは慌てて戦線を離脱し、ソ連との和平を模索する。それでも1944年9月にソ連との間でようやく休戦条約を締結し、なんとか戦争を終える。23か条の休戦条約の中には、ソ連に対して6億米ドルに相当する賠償金の支払いや、ドイツ軍のフィンランド領内からの追放などが含まれる。

(続く)

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♦️289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

2018-05-13 08:14:54 | Weblog

289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

 フレデリック・ショパン(1810~1849)は、孤独と情熱の人であったようだ。ポーランドのワルシャワ近郊の村で生まれた。貴族の家に生まれたのであろうか。家族の献身もあって幼い頃から音楽に親しみ、少年時代を過ごしたのだという。やがて長じては、「ピアノの詩人」といわれるとともに、「繊細にして華やかな調べ」や「完全なる美意識」を称される曲を数多く作曲していった。
 ショパンはまた、マズルカやホロネーズなどで知られる「愛国者」なのであった。そんな彼は、激しい調子の曲をも作っている。その名を「革命」という。それというのも、彼が生きた時代のヨーロッパにおいては、かなり範囲で民衆の力の台頭(たいとう)があった。1789年に始まったフランス革命からの民主の流れが、ヨーロッパに伝搬していったのだ。
 そこでこのショバンの曲の成り立ちだが、この年の7月までには、パリに向かう演奏旅行の途中のシュツットガルトにおいて、ポーランドを独立させまいとするロシアとの間で戦争が行われている、とのニュースを聞いたのであろうか。
 なにしろ年来の宿敵ロシアからの独立戦争ということなので、革命の勃発を知った時はさぞかし驚いたことであろう。1830年12月、ショバンはワルシャワにいる友人のヤン・マトゥシェフスキ宛の手紙において、こう記す。
 「ヤン(三世ソヴェスキ)の軍勢が歌っていた、散り散りになったその残響がいまでもまだドナウの両の岸辺のどこかしらに漂っているかもしれない歌の数々をーそのほんの一部でもいいから探りあててみたい。(中略)
 この僕はー父の重荷になるということさえなければ、今すぐにでも帰りたいが帰れない。(中略)サロンでは涼しい顔を装っているが、家に戻ればピアノに向かってあたりちらしているのだ。」(関口時正氏による訳、これを引用されている渡辺克義著「物語ポーランドの歴史ー東欧の「大国」の苦悩と再生」中公新書、2017から収録)
 この時、いても立ってもいられられなくなり、ホーーランドに帰国しようとしたのかどうかはよく分からないものの、父親が手紙で思い留まったとも伝わる。
 この衝撃がショバンの頭脳に閃きを与え、作曲された曲の名は、「作品10第12のハ短調練習曲」としてであり、後に付されることになる革命的なタイトルはフランツ・リストが命名したもの。その調べは、最近ではテレビ番組「ラララ・クラシック」や「題名のない音楽会」などでピアニストにより弾かれ、中盤からは情熱の渦となって人びとの胸に迫ってくる。
 その一つ、ショバンの曲を紹介しよう。例えば「キラキラと輝くワルツ」という3拍子の、優美かつ軽やかなリズムを刻むようなものに、「英雄ポロネーズ」がある。ポロネーズ(polonaise)とは、フランス語で「ポーランド風」の意味にして、マズルカと並ぶポーランド起源のダンス(舞曲)のことを指し、1842年に作曲された、正式にはピアノ独奏曲「ポロネーズ第6番変イ長調」作品53という。
 これはしかし、彼の滞在していたパリをはじめ上流階級の人びとに心地よく聴いてもらうばかりの曲とは決めつけられない、曲想の根底には、ポーランドの土着の精神が宿っていたのだともいわれる。パリ時代に記した告白に、次の下りがある。
 「僕はこうして何もせずにただときどきピアノに向かってうめき苦しむだけ、悲嘆にくれるだけだ。そして、それが何になる?」(関口時正ほか訳「ショパン全書簡、ポーランド時代」岩波書店)
 ポーランドでの革命が押さえ込まれた後も、パリにいて芸術活動に携わりながらも、故郷への想いを馳せていたのであろう。今ポーランドがロシアに蹂躙されているというのに、何も出来ない自分を見つめていたのであろうか。その心情を書くことを通じ、少しなりとも楽な気分に浸れたであろうか。それからの作曲家人生だが、ショパンが亡くなる1年前の1848年、フランスでは二月革命が勃発していた。
 この時も、真偽にについては不明ながら、かつてショパンと深い関係を持ったフランスの女流作家にして、当時小規模な新聞を発行していたジョルジュ・サンドは、ショパンのこのポルネーズ曲を聴いていた。味わいを深めながら、ショパンへの手紙の中で、「霊感!武力!活力!疑いなくこれらの精神はフランス革命に宿る!これより、このポロネーズは英雄たちの象徴となる!」と書き記したのだという、そんな当時のバリの空気を彷彿とさせる逸話が伝わる。
 参考までに、音楽史に占めるショパンの位置については、例えば、こう評されている。
 「 かれの音楽はポロネーズやマズルカが使われていることによって、ポーランドの民族主義を代表している。一般的にいえば、ショパンの様式はフランスとドイツのロマン主義のに混合体である。かれはポロネーズ、バラード、マズルカ、ワルツ、ノクターン、プレリュード、練習曲、即興曲、自由なロマン主義的ソナタを書いた。かれは本質的にピアノ作曲家で、他の表現形態における試み(たとえば2曲のピアノ協奏曲)はあまり成功していないし、独特の表現も少ない。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

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♦️301『自然と人間の歴史・世界篇』ポーランドのウィーン会議から3月革命前夜(1815~1847)

2018-05-13 08:10:11 | Weblog

301『自然と人間の歴史・世界篇』ポーランドのウィーン会議から3月革命前夜(1815~1847)

 ウィーン会議後のポーランドでの民主化運動の高揚の二つ目の山は、1830年のことであった。この年、フランスの七月革命の影響を受けて、独立運動が一気に高揚した。そして迎えた同年11月25日、ワルシャワの士官学校でロシア人教官が二人の若い生徒をむちで打とうとした。
 これに憤慨した学生らが弾劾に立ち上がり、反乱が全国に始まった。民衆はロシアに対する反乱軍となり、コンスタンチン大公(ポーランド総督。ロシア皇帝ニコライの兄)の宮殿を襲う。反乱軍はワルシャワで秘密警察の隊長を縛り首にする。フランスからは義勇兵がかけつけ、武器が国境をこえて彼らに供給された。プロイセンとオーストリアは、革命の飛び火を恐れ、ロシアを助けようとする。
 ポーランドの革命勢力の中にも急進派と、多分に妥協的な保守派が対立していた。1831年1月、この力の関係に転機が訪れる。急進派のジャコバン人民派(フランス革命にちなんでの命名)が政権を握って国会を開き、ロシアからの独立を決める。これに対して2月にロシア軍が宣戦し、国境を越えて進撃を開始する。ポーランドは4月30日に独立を宣言し、立ち向かうのだが。
 しかし、9月8日になると、ロシア軍がワルシャワを制圧し、ポーランド独立運動は力を押さえ込まれてしまう。一説には、1万数千人もの亡命者がフランスに逃れた模様。ロシア帝国のニコライ1世はポーランドを事実上の属州にし、ロシア化政策をとる。

(続く)

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□64『岡山今昔』昭和(戦中までの)時代の岡山市街

2018-05-12 22:54:16 | Weblog

64『岡山の今昔』昭和(戦中までの)時代の岡山市街

 先の大戦中の岡山については、盛り沢山な写真なりが残っていることだろう。そんな在りし日の同市街だと思われるが、日本敗戦直後の内田百間は、「古里を思ふ」という随想を発表している。その中で、彼の生まれた界隈の先の戦中までの風景であろうか、独特の語り口で振り返っている。例えば、こうある。
 「私は川東の古京町の生まれなので賑やかな町の真中へ出て行くには先づつち橋を渡り、それから小橋中橋を通って京橋を渡る。京橋は蒲鉾(かまぼこ)の背中の様なそり橋であって、真中の一番高い所に起つと橋本町西大寺町か新西西大寺の通が一目に見渡せた。誓文拂(せいもんばらい)の売出しの提灯のともった晩などは、橋の上から眺めてこんな繁華な町が日本中にあるだろうかと思ったりした。
 京橋を渡って橋本町にかかると左側の川沿いの一段高くなったところに交番がある。その前の、船着場の方へ行く道を隔てた角に四階楼が聳えていた。料理やなのか饂飩屋(うどんや)なのか、上がった事がないからよく知らない。」(内田百間「古里を思う」(1946年2月以降より)。
 続いて、このあたりにあった気に入りの店が、余程脳裏に焼き付いていたらしく、こういう。
 「私は今でも大手饅頭の夢を見る。ついこないだの晩も夢を見たばかりである。東京で年を取った半生(はんせい)の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。饅頭を食べるだけの夢でなく大手饅頭の店が気になるのである。
 店の土間の左側の奥に釜があって蒸籠(せいろう)からぷうぷう湯気を吹いている。右よりの畳の上でほかほかの饅頭をもろぶたに並べている。記憶の底の一番古い値段は普通のが一つ二文で新式にいうと二厘(にりん)であった。大きいのは五厘で、一銭のは飛んでもなく大きく皮が厚いから白い色をしている。それは多分葬式饅頭であったと思う。」(同)
 それからの道道は色々とあって、最後の締めくくりにおいて、「荒手」という小題にとりかかる。その冒頭に古京町から出て内山下の方へ出向く。そのあたりでの川のありようをこう伝える。
 「古京町から内山下の方へ行くには相生橋を渡るのであるが子ども時分に相生橋(あいおいばし)はまだ架かっていなかった。古京の町筋の西裏を包む様に土手があって、その下はから川である。
大水の時には後楽園の上手の石畳の所から水が上がって御後園裏一帯に流れ、大川の水勢をそぐ様にしてあったらしい。その水が古京裏のから川を通って中屋敷のせき(?)のある川幅の広い所でまた大川に合流する。水位が高くなれば町裏の土手もあぶなくなって、どこそこが切れそうだというと町内総出で土手の補強をした昔の騒ぎを覚えている。」(同)

(続く)

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□81『岡山の今昔』山陽道(閑谷学校)

2018-05-12 20:36:29 | Weblog

81『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(閑谷学校)

 この沿線において、趣向のいささか変わったところでは、県南部の備前市の閑谷の地に閑谷学校が建っている。1670年(寛文10年)に時の岡山藩主池田光政が開校したものである。
 現在に伝わる建物群となったのは1701年(元禄14年)のことであった。敷地には、講堂を始め、五棟の建物が森を背景にして鎮座している。わけても講堂は、堂々たる体躯(たいく)であり、えもいわれぬ風情を感じさせてくれる。
 この学校の当初の目的としは、一般庶民に儒学や実学(生活に関する知識全般)を中心とするものであったらしい。江戸時代の比較的初期、武士のために設けられた学校は全国に数々あれども、庶民教育の殿堂をつくったのは、以後の岡山人にとって郷土の誇りで在り続けている、といえよう。
 そこで、少しばかり、この学校の系譜を辿ってみよう。そもそもは、岡山藩主の池田光政が津田重二郎(後の津田永忠(つだながただ))に命じ、和気郡木谷村の地に庶民のための学校を造るよう命じた。約2年後に飲質、学房などが成った。これが閑谷学校(しずたにがっこう、仮学舎)の最初となり、地名も和気郡木谷村から閑谷と改められた。静閑な山峡にちなんでの命名であったのだ。
 さて、この閑谷学校というのは、世界にも先駆けた試みであり、第二次大戦後、この地を訪れたロンドン大学のドーア教授は、ここに「世界最古の庶民学校が存在していた」と述べ、驚きを隠さなかった。「学校の経営は藩校の配下に置かれ根教育の内容と方法とも藩校に準ずるものであった」(同)とされる。
 とはいうものの、果たして、ここで当時正統とされていた朱子学(身分制度を肯定し、孝養を重んじる儒教の一派で徳川幕府の公認の学派となっていた)のほか、生活に役立つ実学のカリキュラムもあったのだろうか。当時の下層武士、また庶民に門戸が開かれていたのなら、学費についてはどうやって工面していたかを是非知りたいものである。
 1674年(延宝元年)になると、講堂が成る。全貌が完成したのは、1701年(元禄14年)のことであり、孔子廟を中心にその講堂(大成殿)、椿山(と谷)、学舎学寮跡をはじめ石門、黄葉亭、はん池を含んでおり、全体が重厚なる石塀に囲まれる構図であった。優に、今日の田舎の小学校校舎位の規模はありそうだ。ともあれ、往時のほとんどの建造物が残っているのは幸いである。中でも、講堂は堂々としており、国宝に指定されている。すべて屋根瓦に赤い備前焼を用いており、いかにも儒学の殿堂にふさわしい雰囲気をかもし出している。建築材料は、けやき、楠、ひのきであるが、よく吟味され、現在でも講堂の床板などは鏡のように光っている。
 この学校のユニークなところは、それまでの郡中手習所(五、六か村に一箇所の割合で設けられていた)が廃止になった後の、領内庶民の子供向けを主としたことである。家中武士の子供も混じっていた。他領からの入学も認めていて、志望者は、「閑谷新田村の村役人などを身元人にたのんで、一か年限り(ときに二、三カ年延期を許されたものもある)で入学を許される」(谷口澄夫「岡山藩」:児玉幸多・北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965)ことになっていた。
 それはそうと、校内では秋の景色が特段によいらしい。モミジ、銀杏(いちょう)などが鮮やかに色づくのは想像できるとして、「赤と黄色に色づく楷(かい)の木の紅葉がすばらしい」と地元の人がいうのは、果たしてどんな木なのであろうか。ものの本によると、この木は日本に10本まではない。

 閑谷の楷の木は、中国・曲阜(きょくふ、山東省済寧に位置する)の孔子林の実から育てられた「孔子木」であるらしい。史跡内に入っての正面及び講堂からは、2本の楷の大木は圧巻をなして観る者の目に入って来るという。筆者は、最近埼玉県の東秩父村の和紙の里で、この木が植えられていると教わった。地元の人の説明に耳を傾けながら、楠(くすのき)をより繊細にしたようなその姿を目にして、「なるほどこれが中国から渡ってきた木か」と感動した。
 2015年4月、旧閑谷学校は、旧弘道館(茨城県水戸市)、足利学校跡(栃木県足利市)、咸宜園跡(大分県日田市)とともに「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」として日本遺産に認定された。あの封建時代に、岡山にこのような学校があったことには、何かしら救われた気がするのである。

(続く)

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♦️289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

2018-05-12 10:04:03 | Weblog
289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

 フレデリック・ショパン(1810~1849)は、孤独と情熱の人であったようだ。例えていうと、「幻想協奏曲」とか、「革命」を聴くと、彼の息づかいさえもが、感じられてくるようなのだが。

 ポーランドのワルシャワ近郊の村で生まれた。貴族の家に生まれたのであろうか。家族の献身もあって幼い頃から音楽に親しみ、少年時代を過ごしたのだという。やがて長じては、「ピアノの詩人」といわれるとともに、「繊細にして華やかな調べ」や「完全なる美意識」を称される曲を数多く作曲していった。
 そんなショパンはまた、マズルカやホロネーズなどで知られる「愛国者」なのであった。
そんな彼は、激しい調子の曲をも作っている。その名を「革命」という。それというのも、彼が生きた時代のヨーロッパにおいては、かなり範囲で民衆の力の台頭(たいとう)があった。1789年に始まったフランス革命からの民主の流れが、ヨーロッパに伝搬していったのだ。
 ポーランドでのそれは、1830年のことであった。この年、フランスの七月革命の影響を受けて、独立運動が一気に高揚した。そして迎えた同年11月25日、ワルシャワの士官学校でロシア人教官が二人の若い生徒をむちで打とうとした。これに憤慨した学生らが弾劾に立ち上がり、反乱が全国に始まった。民衆はロシアに対する反乱軍となり、コンスタンチン大公(ポーランド総督。ロシア皇帝ニコライの兄)の宮殿を襲う。反乱軍はワルシャワで秘密警察の隊長を縛り首にする。フランスからは義勇兵がかけつけ、武器が国境をこえて彼らに供給された。プロイセンとオーストリアは、革命の飛び火を恐れ、ロシアを助けようとする。
 ポーランドの革命勢力の中にも急進派と、多分に妥協的な保守派が対立していた。1831年1月、この力の関係に転機が訪れる。急進派のジャコバン人民派(フランス革命にちなんでの命名)が政権を握って国会を開き、ロシアからの独立を決める。これに対して2月にロシア軍が宣戦し、国境を越えて進撃を開始する。ポーランドは4月30日に独立を宣言し、立ち向かうのだが。しかし、9月8日になると、ロシア軍がワルシャワを制圧し、ポーランド独立運動は力を押さえ込まれてしまう。一説には、1万数千人もの亡命者がフランスに逃れた模様。ロシア帝国のニコライ1世はポーランドを事実上の属州にし、ロシア化政策をとる。
 そこでこのショバンの曲の成り立ちだが、この年の7月までには、パリに向かう演奏旅行の途中のシュツットガルトにおいて、ポーランドを独立させまいとするロシアとの間で戦争が行われている、とのニュースを聞いたのであろうか。
 なにしろ年来の宿敵ロシアからの独立戦争ということなので、革命の勃発を知った時はさぞかしおどろいたことであろう。1830年12月、ショバンはワルシャワにいる友人のヤン・マトゥシェフスキ宛の手紙において、こう記す。
 「ヤン(三世ソヴェスキ)の軍勢が歌っていた、散り散りになったその残響がいまでもまだドナウの両の岸辺のどこかしらに漂っているかもしれない歌の数々をーそのほんの一部でもいいから探りあててみたい。(中略)この僕はー父の重荷になるということさえなければ、今すぐにでも帰りたいが帰れない。(中略)サロンでは涼しい顔を装っているが、家に戻ればピアノに向かってあたりちらしているのだ。」(関口時正氏による訳を引用している渡辺克義著「物語ポーランドの歴史ー東欧の「大国」の苦悩と再生」中公新書、2017)
 この時、いても立ってもいられられなくなり、ホーーランドに帰国しようとしたのかどうかはよく分からないものの、父親が手紙で思い留まったとも伝わる。
 この衝撃がショバンの頭脳に閃きを与え、作曲された曲の名は、「作品10第12のハ短調練習曲」としてであり、後に付されることになる革命的なタイトルはフランツ・リストが命名したもの。その調べは、最近ではテレビ番組「ラララ・クラシック」や「題名のない音楽会」などでピアニストにより弾かれ、中盤からは情熱の渦となって人びとの胸に迫ってくる。
 その一つ、ショバンの曲を紹介しよう。例えば「キラキラと輝くワルツ」という3拍子の、優美かつ軽やかなリズムを刻むようなものに、「英雄ポロネーズ」がある。ポロネーズ(polonaise)とは、フランス語で「ポーランド風」の意味にして、マズルカと並ぶポーランド起源のダンス(舞曲)のことを指し、1842年に作曲された、正式にはピアノ独奏曲「ポロネーズ第6番変イ長調」作品53という。
 これはしかし、彼の滞在していたパリをはじめ上流階級の人びとに心地よく聴いてもらうばかりの曲とは決めつけられない、曲想の根底には、ポーランドの土着の精神が宿っていたのだともいわれる。パリ時代に記した告白に、次の下りがある。
 「僕はこうして何もせずにただときどきピアノに向かってうめき苦しむだけ、悲嘆にくれるだけだ。そして、それが何になる?」(関口時正ほか訳「ショパン全書簡、ポーランド時代」岩波書店)
 ポーランドでの革命が押さえ込まれた後も、パリにいて芸術活動に携わりながらも、故郷への想いを馳せていたのであろう。今ポーランドがロシアに蹂躙されているというのに、何も出来ない自分を見つめていたのであろうか。その心情を書くことを通じ、少しなりとも楽な気分に浸れたであろうか。それからの作曲家人生だが、ショパンが亡くなる1年前の1848年、フランスでは二月革命が勃発していた。
 この時も、真偽にについては不明ながら、かつてショパンと深い関係を持ったフランスの女流作家にして、当時小規模な新聞を発行していたジョルジュ・サンドは、ショパンのこのポルネーズ曲を聴いていた。味わいを深めながら、ショパンへの手紙の中で、「霊感!武力!活力!疑いなくこれらの精神はフランス革命に宿る!これより、このポロネーズは英雄たちの象徴となる!」と書き記したのだという、そんな当時のバリの空気を彷彿とさせる逸話が伝わる。
 参考までに、音楽史に占めるショパンの位置については、例えば、こう評されている。
 「 かれの音楽はポロネーズやマズルカが使われていることによって、ポーランドの民族主義を代表している。一般的にいえば、ショパンの様式はフランスとドイツのロマン主義のに混合体である。かれはポロネーズ、バラード、マズルカ、ワルツ、ノクターン、プレリュード、練習曲、即興曲、自由なロマン主義的ソナタを書いた。かれは本質的にピアノ作曲家で、他の表現形態における試み(たとえば2曲のピアノ協奏曲)はあまり成功していないし、独特の表現も少ない。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

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♦️307『自然と人間の歴史・世界篇』アイルランドのジャガイモ飢饉(1845~1847)

2018-05-12 08:59:03 | Weblog

307『自然と人間の歴史・世界篇』アイルランドのジャガイモ飢饉(1845~1847)

 1845年、ジャガイモに疫病が発生する。これを「ジャガイモ飢饉(Potato Famine)」という。西ヨーロッパ全体が被害を受けた。とくに、アイルランドの被害が大きかった。3~5年におよぶ飢饉となる。当時、農民や農業労働者たちの暮らしは、下層にいくほど相当に厳しかったろう。そもそも、イギリスの支配によって小麦の取れる肥沃な大地をすべて接収されていた訳であり、その人々の唯一とも言える主食はジャガイモであった。
波多野裕造氏による説明には、こうある。
 「1845年の夏、アイルランドは長雨と冷害に祟られ、それだけならまだしも、この年の8月、イングランド南部に奇妙な病害が発生した。それは三年前に北アメリカの東岸一帯を荒らしたウィルスによる立ち枯れ病の一種であった。しかもヨーロッパにはなかったこのジャガイモに取りつく菌は、9月に(中略)アイルランドに上陸するや、またたく間に全土に拡がり、その被害は三年間にも及んだのであった。」(波多野裕造「物語アイルランドの歴史」中公新書、1994)
 その被害は甚大であったらしい。一説には、「こうして、飢饉とこれに伴う各種の疫病により、1840年代末までに100万人以上が死亡した」(山本正「図説アイルランドの歴史」河出書房新社、2017)といわれる。つまるところ、この飢饉による人口減少数でいうと、1841年のアイルランド島の総人口は約800万人なのであったというから、如何に多くの人命が失われたのかがわかろう。
 被害がかくも大きくなったのには、行政の問題も介在していた。連合王国の首相のピール(保守党)は、アメリカからトウモロコシの緊急輸入を行ったり、公共事業の創出に努めたともいわれる。さらに、1815年のものを含め、穀物法の撤廃を実現させている。
それで瓦解したピール政権の後を襲った自由党ジョン・ラッセル政権が行う対策も、有効に機能したとは言えない。
 そればかりではない。かなりの数のアイルランド人が、新天地を求める移民となってアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに渡る。その数は、一説には150万~200万人もがやむにやまれずに祖国をみかぎって海外へ去った、とも言われるのだが。
 1870年、ウィリアム・グラッドストーン首相がアイルランド人の小作農の法的権利を強め、土地所有を認める新しい法を成立させる。

(続く)

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○27『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と国

2018-05-11 22:48:50 | Weblog

27『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と国

 それらの一つには、その中から徐々に瀬戸内海に面した海岸線に沿って東へ東へ北へと、新天地を求め進んだ一部がいたのであろう。二つ目には、山陰から、これまた東へ東へ北へと進んだ一団があったのではないか。こちらの代表格は「出雲王朝」を形づくっていく。だとすれば、出雲の小国家の成立は弥生時代の中期頃からに当たる。もちろんそれは、今日の国ではない。出雲に弥生期の遺跡が見つかるまでは、この地域は神話のベールに厚く閉ざされていた。さらに、3つ目、4つ目の東方への旅が敢行されていったのかもしれない。
 前述の通り、弥生時代(紀元前1000年頃~)の少なくとも後半くらいからは、日本列島では、「国(くに)」が存在していた。中国の歴史書では、紀元前のかなり前から「倭」にこれがあるというのが載っている。ここに国というのは、今日におけるような四角張ったイメージは必ずしも必要でなく、当時のヨーロッパで環濠集落(代表的なのは、古代イギリスのケルト集落)を用いていた「部族」というトータルとしての名称と、さほどに変わらないのではないか。
 そのことを物語る遺跡としては、前述の吉野ケ里遺跡が有名だ。それは、紀元前のこの列島に、小規模ながらも、既に統治の役割が確立されていたことを覗わせる。そして、これと同類の遺跡は、列島各地にかなりあるのではないか。田和山遺跡(島根県松江市乃白町・乃木福富町)も、その一つであろう。2001年に本格的な発掘が行われた。
 こちらは、紀元前400年頃の構築だと推測されている。一説には、弥生時代中期末の紀元前1世紀頃まで存続したとみられる。
 その特徴としては、三重にめぐらせた環濠があった。それぞれの環濠の規模は最大で幅7メートル、深さ1.8メートル位あるという。それは、幾多の偶然が重なって出来たというよりは、それなりに明確な設計があってのことだろう。
 こうして環濠に囲まれた中には、それなりの構築物が造られていたようだ。頂部では、多数の柱穴が発見されたという。ただし、住居跡は環濠の輪の外部にしつらえてあったらしい。
 こうした弥生時代中期からの遺構を考慮すると、弥生時代に入っては、はっきりした階級というものが社会に出現していった。発掘された弥生期の中で特徴的なのは、住居が階層化されていったことがわかる事例が多く出てきた。たとえば、先に紹介した佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような周りに濠(ほり)をめぐらせる環濠集落は2世紀末には姿を見せなくなる。
 そして3世紀になると、堅剛な平地住居や高床式の倉庫などを持つ豪族の居館が一方に現れ、竪穴式の住居に加わる。水稲耕作が発達してくるにつれ、大規模な開田や水路の維持補修といった治山治水・灌漑なども発達してくる。そのための共同労働は始めのうちは自然発生的なものであったのかもしれないが、規模が大きくなるにつれて共同労働が必要となる。
 さらに進むと、一定の規模以上の共同体同士の間で仕事を共同して行う必要が出て来たり、それらの共同体の間で限られた土地や水を巡って争いが起きるようになっていったのではないか。こうした争い、併呑そして調整などを繰り返しているうちに、その地域の共同体を束ね、あるいは統(す)べて、農耕に伴うさまざまな作業を指揮するとともに、いったん事ある時には、外敵から自分たちの共同体を守る首長が列島のそこかしこに誕生していった。
 1994年(平成4年)に荒神山遺跡(島根県出雲市)、1996年(平成6年)に加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)など、弥生時代の遺跡が相次いで発掘された。この考古学上の発見により、これらの遺跡では「扁平な礫石を斜面に葺いた四隅突出型墳丘墓」(広瀬和雄「知識ゼロからの古墳入門」:幻冬舎、2015)とともに、九州圏と同じの銅剣、銅矛、銅鐸が発見されたことになっている(常井宏平・秋月美和「古代史めぐりの旅がもっと楽しくなる!古墳の地図帳」辰巳出版、2015)。この地域に当時、ヤマトや九州、このあと述べる吉備の勢力にも匹敵する国があったことが明らかになったのである。
 その出雲の国が、あの『魏志倭人伝』でいわれるうち、どの国であるかは、わかっていない。この書物において「倭」がとり上げられているのは、『三国志』・「魏書」・巻三十鳥丸(うがん)・鮮卑東夷伝・倭人の条であり、そこに弥生時代の有様なり大陸との関係なりが二千字くらいの文章で書かれている。魏の国史の体裁であって、編者は、三国鼎立時代を生き抜いた、陳寿という人物である。話を出雲に戻すと、その由来を『魏志倭人伝』中にある「投馬国」に求める見解が出されている。
 なお、一説には、弥生時代の三大国の一つ、投馬(とま)国が出雲である可能性を指摘する向きもある(例えば、歴史学者の倉西裕子氏の論考「吉備大臣入唐絵巻、知られざる古代一千年史」勉誠実出版、2009)。

 同著によると、ここに「三大国」というのは、卑弥呼の「女王国(戸数七万、首都は畿内大和にあった邪馬台国)は、奴国(戸数二万)と投馬国(戸数五万)の二大国から構成される連邦国家であったと考えられる(倭三十ヶ国はそれぞれ奴国、投馬国に属す)。その奴国は、狗奴国と地理的にも歴史的にも近い国であり、あたかも姉国と弟国いったような関係にあった可能性がある。後漢時代に博多湾沿岸地域を中心に勢力を張っていた奴国と、九州中南部地域を勢力範囲としていた狗奴国は、ともに九州に本拠を置いていた国である」(同氏の同著)との推定に基づく説だといえよう。

 なお、これらの話とは別の流れにて、後漢の光武帝が与えたのではないかと考えられている、「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と通称される金印が、江戸時代の博多沖、志賀島(しかのしま)で発見され、現在、国宝に指定されている。これをもらったのは、当時の倭の国王の一人ではないかというのだが、諸説がある。一説には、「そのような三段読みはあり得ない」(宗主国+民族名+国名+官号)、したがって、そのような印章は存在しなかったとの話なのだが、その場合は、「「漢(宗主国)の委奴国(わなこく)の王(官号)」と読むのが正しいのだという。


(続く)

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○○35『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と住居

2018-05-11 22:44:23 | Weblog

35『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と住居

 それまでの弥生時代は、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの600年間というのが、1960年代からの通説であった。ところが、21世紀に入ってからの研究で、弥生時代の開始は今から3000年前(紀元前10世紀)に変更すべきだという説(2002年の国立歴史民俗博物館)が有力となりつつあるとのこと。具体的には、2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループによる、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した研究成果の発表があった。その中において、同グループはそれまでの弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとした。
 それによると、1万年以上前から、日本列島には縄文人がほぼ全域にわたって広く薄く居住してきた。縄文時代は、長いこと続いた。ところが、縄文人と人種的にはかなり異なる人びとが、今から3000年ほど前に大陸から続々とやってくるようになる。大陸からの渡来人(Yayoi ancestors)こそが、その代名詞であった。
 この新しい区分によると、早期の始まりが約600年も遡ることになっている。それは細かく言うと、紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡った紀元前800年頃からに変更となる。それにつられて、中期の始まりが約200年戻して紀元前400年頃からとなり、さらに後期の始まりも紀元50年頃からとなるだろう。なお、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉ということになっている。
 それでは、弥生時代の集落というものは、具体的にどのようなものであったのだろうか。大がかりなもののを数例紹介すると、まず吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、現在の佐賀県の東部、吉野ケ里陵を中心に広がる。この遺跡は、紀元前8世紀の弥生時代早期の環濠集落と目されるのであって、この年代は炭素14代法により推定されている。その在処(ありか)としては、脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置している。弥生時代の環壕集落遺構にして、東京ドーム25個分にあたる約50万平方メートルの土地というから、かなりの広さがあった。
 集落の周りを柵や空堀で囲み、堅固な要塞としての大形建物や物見櫓を擁していた。言い換えると、環濠(濠)がめぐらされた、その内側に木柵や土塁、内濠、見張りのための物見櫓も造られ、防御の厳重さがうかがえる。また、大方の人びとは、環壕集落の中で竪穴住居をしつらえて暮らしていた。当時、日本の各地に形成された地域的な集合体「クニ」のひとつであったのではないか、と見られている。首長層が治める「クニ」同士の争いに備えていたのではなかろうか。これらの総体としての定住生活をしていたであろう。
 この遺跡の運営年代だが、一説には、紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代後半とされる。新説で言うと、弥生時代中期から後期というところか。この頃になると、弥生時代の稲作は、この集落を中心とする定住者たちが、一つの社会構成体となっていて営まれる段階に至っていたと見られる。吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は規模がかなり大きいことから、当時の倭の様子を系統立って記した最古の記録である『魏志倭人伝』に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせる。
 また、文化一般については、これまで、どれくらいのことがわかっているのだろうか。出土品については、墓も併設されていることから、彼らにとって死とは共同体の中で迎えるものとしてあったのであろうとの推測もありうるのではないか。また、有柄銅剣やガラス製管玉等の類も出土している。これらの出土品は、全体として、高い学術的価値を有するものだと言われる。これらは、広い意味での精神生活をも形づくっていたのであろうし、当時すでにこれらを作る技術が集団内に存在していた、もしくは、他の地域との交易などによってこれらを手にしていたことを示唆しているのではないか。
 顧みると、この列島に渡来した弥生人の多くは、まず北九州の玄界灘沿岸などに住み着いた。紀元前約10世紀頃から、九州北部で暫く暮らしていたであろう彼らは、後続の人々が北方から南方からなど、次から次へと押しかけて来た。その中で、新勢力としての生活の範囲を広げていった。縄文人との混血も大いに進んでいったのだと考えられる。そこそこで定住した他の人々の集積からは、さらに新天地を求める人々とその集団が出て来るのは、必然だと言えよう。その動機は、少しでもいい生活をしたいという人間本能からのもの、何らかの政治的な思惑に駆られてのものなど、さまざまな思いが重なり全体の意思をつくっていたのではないか。

(続く)

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♦️371『自然と人間の歴史・世界篇』1929年世界大恐慌(貿易戦争)

2018-05-11 20:53:02 | Weblog

371『自然と人間の歴史・世界篇』1929年世界大恐慌(貿易戦争)

 為替比率というのは、自国の商品と外国との交換比率のことをいう。そこで、自国が不況の時には、これを切り下げることで輸出価格の低下、輸入価格の上昇を促すことで、国際収支の不均衡をある程度調整できる。
 とはいえ、自国の平価の切り下げによって商品の交換比率を自国に不利に調整しても、
労働生産性が変わらず、したがって商品価値が不変に止まるならば、商品の交換比率は価値水準されたままであることから、平たくいうと「裸の国際競争力」は変わらない。したがって、そこに変化が及ばないかぎり、平価切り下げの効果は一時的なものだともいえよう。
 そんな為替引き下げを単独で行う場合には、それだけ自国輸出を伸ばすことができる、少なくともその見通しが開けるのだが、そのことは外国が対抗手段をとらない前提でのことである。
 大恐慌が世界で広がったのは何故かを考える時、この道理を理解するのが重要に違いない。実際、1931年のイギリスにおける金本位制停止以降、各国は争って自国通貨の引き下げに突き進んでいく。
 ざっとみると、1931年には、イギリス、英連邦諸国(カナダ、南アフリカなどを除く)、フィンランド、ポルトガル。1932年には、日本、南アフリカ。それに加えて、ポンドの下落が進む。1933年には、アメリカ、アルゼンチン、ブラジル、カナダ。1934年には、チェコスロバキア。アメリカは、その旧平価41%カットで安定。1935年には、ベルギー。1936年には、フランス(以降1938ねんまで)。1939年には、イギリスといった具合であった(置塩信雄「近代経済学批判」有斐閣双書、1976)。

(続く)

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♦️268『自然人間の歴史・世界篇』スイスとルクセンブルクの独立

2018-05-11 09:19:26 | Weblog

268『自然人間の歴史・世界篇』スイスとルクセンブルクの独立

 スイスの源は、1291年の「原初同盟」に始まるとされるが、これは伝説でそういうことがあったということの意味らしい。ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つの州の代表者たちが集まり、彼らの生活の利益を全体で守るべく、パプスブルグ家の支配に対し結束して自治を守ろうとする。
 1386年、ゼンパハの戦いでスイスの民兵たちがハプスブルク騎士軍を破る。1389年には、ハプスブルクのこの地域への支配は名目的なものに後退し、実質的な自治が認められる。1499年、ジュヴァーベン戦争でハプスブルク帝国からの分離を勝ち取る。 とはいえ、当時のヨーロッパの中では、スイスの独立正式のものではなかった。スイスの独立が国際的に認められたのは、ようやく1648年ウエストファリア条約によってのことだ。ドイツを中心に三十年戦争の終結があり、ハプスブルクの勢力が後退した。それらのことにより、ようやく小国にも、まだ本当の独立という意味ではなかったものの、それなりの主権が認められた。
 16世紀の宗教改革の時のこの地域では、チューリヒやジュネーブで信教が興隆を迎えていた。1598年のフランスにおいての「ナント勅令」により、キリスト教の信教の信仰を認められる。1648年、フランスのルイ14世がこの勅令を廃止する。それの余波で、「ユグノー」と呼ばれるカルヴァン派の人々がスイスに移住してくる。
 ルクセンブルクについては、1713年、スペイン継承戦争(1701~13)の結果を受けてのユトレヒト条約によって、スペイン領ネーデルランドは終止符を打ち、オランダ領となる。ところが、これに不満なオーストリアは戦争を続行し、1714年あらためて結ばれたラスタット・バーデン条約によって、この地方ルクセンブルクはオーストリアの支配下に入る。
 さらにフランス革命が勃発すると、オーストリアはこれに干渉する戦争に巻き込まれ、1798年4月、フランスがこの地に侵入してきて、ヘルベティア共和国という政権を立てる。この傀儡(かいらい)国家だが、1801年4月まで続く。1804年10月、ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス軍がルクセンブルクに入城する。
 1806年のナポレオン1世は、弟ルイをネーデルランド王に任じる。このときルクセンブルクはネーデルランドから分離されて、フォレ(森林)県としてフランス直轄領に組み入れられる。さらに1815年、ナポレオンの没落を受けウィーン会議が開かれると、ルクセンブルクは独立の大公国だと認められる。
 その後の歩みだが、ルクセンブルク市を中心とする小さな国として、まるで息をひそめるかのように命をつないでいく。ところが、1830年10月にはベルギーに編入されてしまう。1839年4月には、領土を縮小され、まだ真の独立を与えられなかったけれども、オランダより独立を果たす。
 これにいたる事情としては、歴史家の古賀秀男氏により「(中略)列強はあたたびロンドン会議を開き、31年の分割案にもとづく調停を試みた結果、さすがのオランダ王も譲歩し、ルクセンブルク西半部のベルギー割譲を承認した。ここに現ルクセンブルク領が確定したのである」(今来陸郎j「中欧史・新版」山川出版社、1971)と説明される。
 それでも、「生々流転」はとどまってくれない。1867年5月のロンドン会議において、列強(オーストリア、ベルギー、イギリス、フランス、プロイセンそしてロシア)が集う。この会議で、プロイセン軍のルクセンブルク撤兵、同要塞の武装解除、ルクセンブルクの独立と永世中立化の3つが決まる。かくして、ルクセンブルクは独立した永世中立国となる。
 翌1868年の憲法によって、立憲君主制を選択する。オランダと同君連合になるのだが、1890年11月にはその同君連合の関係を解消する。
 このように、大国に挟まれながら困難を巧みに抜け、辛抱強く生き抜いてきた。その街並みは、その歴史性ならではの景観となっている。キルシュベルグというのが旧市街の高台にあり、そこからは、まるで城塞かのような建築が建ち並ぶ。このあたりが旧市街地であって、この小国の象徴とされる大公の宮殿もここにあるというのだが。

(続く)

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♦️120の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1935)

2018-05-11 08:29:40 | Weblog
120の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1935)

 1934年12月のイタリアでは、ムッソリーニ率いるファシスタ政権が成立していた。この年の12月にイタリア領ソマリアランドとの境界付近で紛争が起こる。ムッソリーニはこれを口実にアフリカ進出を企てる。
 1935年10月、エチオピア(アビシニア)王国に軍事侵攻する。イタリアのファシストの軍隊は高地を突き進み、翌年5月には同国の併合を宣言する。エチオピア王国は、これに先立つ1935年1月、自国が今にも侵略されようとしていることに対して、国際連盟になんとかしてほしいと提訴を行っていた。
 これに応えるべく、国際連盟は10月のイタリア軍侵攻後直ちにイタリアを侵略国として認定する。連盟規約第16条を初めて適用することで、経済制裁に踏み切る。
 とはいえ、この制裁対象には、石油などの重要物資は含まれなかった。フランスイギリスは、連盟非加盟国にはこの措置が適用されない、したがってアメリカなどからは輸入できることをいい、禁輸は無意味であると主張する。また、この二国は国際連盟の枠外で和平案を立案するという体たらくであった。

(続く)

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♦️165『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(~15世紀半ば、フィレンツェなど)

2018-05-10 22:20:36 | Weblog

165『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(~15世紀半ば、フィレンツェなど)

 1400年、チョーサーが『カンタベリー物語』を著す。この頃、カトリック教会の内側にいた、プラハの大学の神学教授ヨハン・フス(ヤン・フス、1370頃~1415)が、イギリスのジョン・ウィクリフの改革思想に共鳴し、救霊預定説を唱える。その内容は、教会内での聖職者や教会の土地所有、世俗の悪弊、堕落などに警鐘を鳴らす。
 当時の教会中央に反旗を翻したことで、彼ら反感をかい、その前年の1414年にローマ教皇主宰によるコンスタンツの公会議(1414~18)に召喚されていた。1417年、この会議の場で、教会分裂(シスマ)」が決定される。あわせて、この会議の記録によると、意見を曲げないフスを異端として、火あぶりの刑が宣告された。
 1434年、コジモ・デ・メディチ(後述のロレンツォの祖父)がフィレンツェの政権を掌握する。富裕な銀行家としてのメディチ家が、都市国家の指導者にのし上がったのだ。彼は、邸宅や別荘にサロンを開いて学者、文芸家、建築家らに開放し、プラトン学院の創立に尽力する。そのギリシアのプラトンだが、その著『国家論』の中で「幾何学を知らざるものこの門を入るべからず」と説いていた。
 このコジモは、剛胆でいながら、なかなかの策士でもあった。フィレンツェという「自由都市」を牛耳るには、表面上市民大衆の味方を演じるのに精出す。自治の運営にあっては、執行部の選挙を進めなければならない。その際、被選挙権者の名簿をつくる選挙管理委員会(アッコビアトーレ)の人選に、自らの息のかかった者を送り込む。また、時に応じて招集される特別委員会(バリーア)をも、親メディチ派で固める。さらに、「八人軍事委員会」という名の秘密警察を抑えることで、反対勢力に対する諜報活動なりを行う。
 1458年には、鉄鎖で固めたようなメディチ家による街支配の仕組みをつくり上げるのに成功する。とはいえ、むき出しの独裁政治ということではなく、策謀を繰り返し、世論を味方に引き入れることでこそ保たれる、微妙な権力政治なのであった。メディチがこの地位を保つことのできた背景には、もう一つ、その類稀な経済力があった。
 メディチといえばまず金融王であって、ヴェネツィア、アヴィニョン、ロンドン、リヨン、バーゼル、ブリージュに支点を置く。こうすることで、例えばフィレンツェとロンドンとの為替相場の変化を利用して資金を動かし、労せずして差益を稼ぐこともやっていたという(2018年2月放映のNHK番組「欲望の経済学」など)。
 メディチの商売はそればかりではない。もう何枚もの富の積み重ねというべきか、毛織りと絹織りの会社を運営しモノ作りをしたり、輸出入の取引を幅広く行ったりで、国際的な商取引で高まる評価を勝ち得ていたという。

(続く)

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○16『岡山の今昔』倭の時代の吉備(壬申の乱と吉備)

2018-05-10 10:59:14 | Weblog

16『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倭の時代の吉備(壬申の乱と吉備)

 このように倭(大和)朝廷との対抗関係についての推測が重ねられつつある出雲国と吉備国とであるが、両者は、おそらく6世紀までには、他の政権によってだんだんにか、急に押さえつけられるようになっていったのではないか。その政権とは、邪馬台国の卑弥呼の時代を含む前々からその地にあったか、その後の過渡期を経てこの地に台頭してきたのであろう、つまり畿内に根拠をおく、後の「大和朝廷」と呼ばれるものに他らない。
 そんな中央の政権から吉備国に対する最初の働きかけの記録としては、『日本書紀』の「欽明天皇6年7月4日条」に、吉備国5郡に白猪屯倉が置かれたことになっている。また、「敏達天皇12年是歳条においては、「日羅(にちら)等、吉備海部直羽島(きびのあまのあたいはしま)児島屯倉(こしまのみやけ)に行き到る」(小島憲之ほか校注『日本書紀』小学館、親日本古典文学全集3の第2巻、1996、441ページ)とあることから、この頃(年代表記に従えば、同大王の治世は遅くとも585年までは)、半島ではなく島であった児島が、吉備に属していたことが推察される。
 さて、「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)が起きる。これを現代風に言うならば、「クーデター」に近いのではあるまいか。当時吉野に雌伏(しふく)していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍(つまり朝廷軍)の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)を倒した大海人王子が、天下人にとって代わる。なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、これは戦に勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説を捏造(ねつぞう)したためとの考えも出ている。
 ところで、この権力闘争において、吉備氏(きびし)が、どちらに側に属し、又は加担、もしくは中立を通したのかは、実ははっきりしていない。そのことをはっきりさせる類書があるのを、未だに知らないのだが。このおり、近江(大和)朝廷側(弘文大王)が放った東国への使者は、大海人皇子側に阻まれたのではないか。「倭京」(やまとのみやこ)にも使者を遣わした。さらに西国の吉備と筑紫にも使者を遣わし、「これらの国々すべてに兵を起こさせた」(『日本書記』の「元年六月条」の訳文より。新編日本古典文学全集4の同著、小学館、1998、317ページに記載)とある。
 当時の近江朝廷側にとって、これらの豪族の中では吉備と筑紫(つくし)の軍事力が特に目ざわりであった。どうやらその上、敵対する大海人王子と親密な関係にあるという疑いをもっていたらしい。そこで両方への使者に対し、吉備国守(きびのくにのかみ)の当麻公広島(たぎまのきみひろしま)と筑紫大宰(つくしのおほみこともち)の栗隈王(くるくまのおほきみ)が「もし背反する表情が見えたら殺せ」(同)と命令し、現地へ行かせた。
 その後の顛末だが、筑紫では怪しまれて事を成し遂げることができなかったものの、刺客(しかく)たちが吉備に乗り込み面会に臨んだ相手の当麻公広島については「欺いて広島に刀を解かせた。盤手はすぐさま刀を抜いて広島を殺した」(同)とあることから、その使命を果たしたらしい。少なくとも吉備氏による大海人王子側への加勢を阻むことには成功したようである。一方、吉備氏の側は、国の主(あるじ)を暗殺された訳であるからして、余程悔しい出来事であったに違いあるまい。その後の動静なりが某か現代に伝わっていてもよさそうなものだが、果たして、記された歴史の中からき抹殺されるか無視されていったのであろうか。
 併せて『日本書紀』の「天武十一年7月条」に「戌午(ぼご)に、隼人等(はやひとら)に、飛鳥寺の西に饗(あ)へたまひ、種々の楽(うたまひ)を発す。仍(よ)りて禄賜ふこと各差有り。道俗悉く見る。是の日に、信濃国・吉備国・並に言(まを)さく、「霜降り、亦大風ふきて五穀登(みの)らず」とまをす」(同、421ページ)とあるのを見ても、この頃の頃吉備地方は吉備国として支配されていたとみて、差し支えあるまい。およそ以上のことが歴史的事実であったのなら、この頃まで、吉備国は当時はまだ大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見て良いのではないか。

(続く)

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