♦️402『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦の道(ヨーロッパ戦線・第四次ポーランド分割)

2018-05-13 20:55:05 | Weblog

402『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦の道(ヨーロッパ戦線・第四次ポーランド分割)

 ポーランドにおいては、966年にピアスト朝がキリスト教を受容する。1386年になると、ヤギエウォ王朝が成立する。1573年には、選挙王朝の時代となる。1795年、第3次分割によりポーランド国家が消滅する。長い苦難の時代の始まりであった。
 1914年からの第一次世界大戦では、ヨーロッパは血みどろの戦場と化した1917年11月には、バルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立する。それに続く1918年3月3日、ブレスト・リトフスク条約が結ばれる。これは、枢軸国側(ドイツなど)とソヴィエト・ロシア(三国協商の一角としての)との間での、単独講和条約に他ならない。この条約締結地のブレスト・リトフスクは、現在のベラルーシのポーランド国境の都市である。
 これには、大いなる事情があった。1917年11月に生まれてから日が浅いソビエト・ロシアは、世界最初の社会主義革命の行く末を守らなければならなかった。そのため、他の協商国にはからず単独で枢軸国側と講和し、戦闘を終結したことで、枢軸国側のドイツ、オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦に応じる。
 この条約の内容としては、ソビエト・ロシアは、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国などを放棄し、フィンランドから撤退し、ウクライナの独立を認め、ザカフカースの一部をトルコに譲る。これにより、ポーランドが独立を回復することになる。だが、これで「めでたし」とはならない。
 1939年、今度はドイツのナチス政権が動く。独ソ不可侵条約を破り、ドイツのヒトラーの軍隊がポーランドに侵攻する。そのやり方は、戦車機動部隊を押し立てて突破するという強引さであった。
 さしあたっては、ダンツィヒ自由市とポーランドの海への出口であるポーランド回廊の割譲を要求したのだ。ポーランド政府がこれに抵抗すると、ヒトラーはポーランド攻撃に踏み切る。おりしも、モスクワでは、1939年3月10日~21日の予定でソ連共産党の第18回党大会が開催されていた。ソ連指導部は、驚愕をもってそのニュースを聞いたに相違あるまい。
 1939年8月23日のモスクワにおいて、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結ぶ。その秘密議定書の中で(18世紀の三回に続いての)4回目のポーランド分割を取り決めていた。その一、二項には、こうある。
 「一、バルト諸国(中略)の領土的・政治的再編については、リトアニアの北部国境を持ってドイツとソ連との勢力圏の境とする。この際、ヴィリニュスについては調印国双方が利害を共有する。
二、ポーランドの領土的・政治的再編については、ナレツ、ヴィスワ、サンの河川をドイツとソ連との勢力圏の境とする。ポーランドを独立国としておくか、その国境線をどう定めるかーこれらは今後の政治的進展により決定される。いずれにしても、両政府は本問題を友好条約により解決する。」(引用は、渡辺克義「物語ポーランドの歴史」中公新書、2017)
 そして迎えた1939年9月17日、ソ連軍がベラルーシ人とウクライナ人の保護を名目に、ポーランドの東側から国境を越えてくる。続いての1940年の4月から7月にかけて、ソ連の機関によって、これに先立ち本国から連れ去られていたポーランド人将校と知識階級らの人々(2万2千人とも2万5千人とも)が「カティンの森」で殺害された。ソ連の関与については、内務人民委員部なりが独走したとも、ソ連共産党政治局の指示によるとも、諸説があるようだ。
 ソ連がなにゆえこの事件を引き起こしたのかについては、一説には、ソ連にとって、ロンドンに逃れていたポーランド亡命政府(アメリカとイギリスが支持)をたたき、自分たちが後押ししてポーランドのルブリンに発足させた暫定政府をアメリカとイギリスといった当時の国際社会に認めさせるために必要であったからだ、と言われている。
 ポーランドにおいては、民衆が黙っていない。国民民主戦線が、労働者、社会民主党、地下労働組合、農民、青年によって結成される。1944年、ドイツ占領軍に対しワルシャワ市民が武装蜂起するのであった。

(続く)

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