□81『岡山の今昔』山陽道(閑谷学校)

2018-05-12 20:36:29 | Weblog

81『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(閑谷学校)

 この沿線において、趣向のいささか変わったところでは、県南部の備前市の閑谷の地に閑谷学校が建っている。1670年(寛文10年)に時の岡山藩主池田光政が開校したものである。
 現在に伝わる建物群となったのは1701年(元禄14年)のことであった。敷地には、講堂を始め、五棟の建物が森を背景にして鎮座している。わけても講堂は、堂々たる体躯(たいく)であり、えもいわれぬ風情を感じさせてくれる。
 この学校の当初の目的としは、一般庶民に儒学や実学(生活に関する知識全般)を中心とするものであったらしい。江戸時代の比較的初期、武士のために設けられた学校は全国に数々あれども、庶民教育の殿堂をつくったのは、以後の岡山人にとって郷土の誇りで在り続けている、といえよう。
 そこで、少しばかり、この学校の系譜を辿ってみよう。そもそもは、岡山藩主の池田光政が津田重二郎(後の津田永忠(つだながただ))に命じ、和気郡木谷村の地に庶民のための学校を造るよう命じた。約2年後に飲質、学房などが成った。これが閑谷学校(しずたにがっこう、仮学舎)の最初となり、地名も和気郡木谷村から閑谷と改められた。静閑な山峡にちなんでの命名であったのだ。
 さて、この閑谷学校というのは、世界にも先駆けた試みであり、第二次大戦後、この地を訪れたロンドン大学のドーア教授は、ここに「世界最古の庶民学校が存在していた」と述べ、驚きを隠さなかった。「学校の経営は藩校の配下に置かれ根教育の内容と方法とも藩校に準ずるものであった」(同)とされる。
 とはいうものの、果たして、ここで当時正統とされていた朱子学(身分制度を肯定し、孝養を重んじる儒教の一派で徳川幕府の公認の学派となっていた)のほか、生活に役立つ実学のカリキュラムもあったのだろうか。当時の下層武士、また庶民に門戸が開かれていたのなら、学費についてはどうやって工面していたかを是非知りたいものである。
 1674年(延宝元年)になると、講堂が成る。全貌が完成したのは、1701年(元禄14年)のことであり、孔子廟を中心にその講堂(大成殿)、椿山(と谷)、学舎学寮跡をはじめ石門、黄葉亭、はん池を含んでおり、全体が重厚なる石塀に囲まれる構図であった。優に、今日の田舎の小学校校舎位の規模はありそうだ。ともあれ、往時のほとんどの建造物が残っているのは幸いである。中でも、講堂は堂々としており、国宝に指定されている。すべて屋根瓦に赤い備前焼を用いており、いかにも儒学の殿堂にふさわしい雰囲気をかもし出している。建築材料は、けやき、楠、ひのきであるが、よく吟味され、現在でも講堂の床板などは鏡のように光っている。
 この学校のユニークなところは、それまでの郡中手習所(五、六か村に一箇所の割合で設けられていた)が廃止になった後の、領内庶民の子供向けを主としたことである。家中武士の子供も混じっていた。他領からの入学も認めていて、志望者は、「閑谷新田村の村役人などを身元人にたのんで、一か年限り(ときに二、三カ年延期を許されたものもある)で入学を許される」(谷口澄夫「岡山藩」:児玉幸多・北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965)ことになっていた。
 それはそうと、校内では秋の景色が特段によいらしい。モミジ、銀杏(いちょう)などが鮮やかに色づくのは想像できるとして、「赤と黄色に色づく楷(かい)の木の紅葉がすばらしい」と地元の人がいうのは、果たしてどんな木なのであろうか。ものの本によると、この木は日本に10本まではない。

 閑谷の楷の木は、中国・曲阜(きょくふ、山東省済寧に位置する)の孔子林の実から育てられた「孔子木」であるらしい。史跡内に入っての正面及び講堂からは、2本の楷の大木は圧巻をなして観る者の目に入って来るという。筆者は、最近埼玉県の東秩父村の和紙の里で、この木が植えられていると教わった。地元の人の説明に耳を傾けながら、楠(くすのき)をより繊細にしたようなその姿を目にして、「なるほどこれが中国から渡ってきた木か」と感動した。
 2015年4月、旧閑谷学校は、旧弘道館(茨城県水戸市)、足利学校跡(栃木県足利市)、咸宜園跡(大分県日田市)とともに「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」として日本遺産に認定された。あの封建時代に、岡山にこのような学校があったことには、何かしら救われた気がするのである。

(続く)

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