16『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倭の時代の吉備(壬申の乱と吉備)
このように倭(大和)朝廷との対抗関係についての推測が重ねられつつある出雲国と吉備国とであるが、両者は、おそらく6世紀までには、他の政権によってだんだんにか、急に押さえつけられるようになっていったのではないか。その政権とは、邪馬台国の卑弥呼の時代を含む前々からその地にあったか、その後の過渡期を経てこの地に台頭してきたのであろう、つまり畿内に根拠をおく、後の「大和朝廷」と呼ばれるものに他らない。
そんな中央の政権から吉備国に対する最初の働きかけの記録としては、『日本書紀』の「欽明天皇6年7月4日条」に、吉備国5郡に白猪屯倉が置かれたことになっている。また、「敏達天皇12年是歳条においては、「日羅(にちら)等、吉備海部直羽島(きびのあまのあたいはしま)児島屯倉(こしまのみやけ)に行き到る」(小島憲之ほか校注『日本書紀』小学館、親日本古典文学全集3の第2巻、1996、441ページ)とあることから、この頃(年代表記に従えば、同大王の治世は遅くとも585年までは)、半島ではなく島であった児島が、吉備に属していたことが推察される。
さて、「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)が起きる。これを現代風に言うならば、「クーデター」に近いのではあるまいか。当時吉野に雌伏(しふく)していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍(つまり朝廷軍)の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)を倒した大海人王子が、天下人にとって代わる。なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、これは戦に勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説を捏造(ねつぞう)したためとの考えも出ている。
ところで、この権力闘争において、吉備氏(きびし)が、どちらに側に属し、又は加担、もしくは中立を通したのかは、実ははっきりしていない。そのことをはっきりさせる類書があるのを、未だに知らないのだが。このおり、近江(大和)朝廷側(弘文大王)が放った東国への使者は、大海人皇子側に阻まれたのではないか。「倭京」(やまとのみやこ)にも使者を遣わした。さらに西国の吉備と筑紫にも使者を遣わし、「これらの国々すべてに兵を起こさせた」(『日本書記』の「元年六月条」の訳文より。新編日本古典文学全集4の同著、小学館、1998、317ページに記載)とある。
当時の近江朝廷側にとって、これらの豪族の中では吉備と筑紫(つくし)の軍事力が特に目ざわりであった。どうやらその上、敵対する大海人王子と親密な関係にあるという疑いをもっていたらしい。そこで両方への使者に対し、吉備国守(きびのくにのかみ)の当麻公広島(たぎまのきみひろしま)と筑紫大宰(つくしのおほみこともち)の栗隈王(くるくまのおほきみ)が「もし背反する表情が見えたら殺せ」(同)と命令し、現地へ行かせた。
その後の顛末だが、筑紫では怪しまれて事を成し遂げることができなかったものの、刺客(しかく)たちが吉備に乗り込み面会に臨んだ相手の当麻公広島については「欺いて広島に刀を解かせた。盤手はすぐさま刀を抜いて広島を殺した」(同)とあることから、その使命を果たしたらしい。少なくとも吉備氏による大海人王子側への加勢を阻むことには成功したようである。一方、吉備氏の側は、国の主(あるじ)を暗殺された訳であるからして、余程悔しい出来事であったに違いあるまい。その後の動静なりが某か現代に伝わっていてもよさそうなものだが、果たして、記された歴史の中からき抹殺されるか無視されていったのであろうか。
併せて『日本書紀』の「天武十一年7月条」に「戌午(ぼご)に、隼人等(はやひとら)に、飛鳥寺の西に饗(あ)へたまひ、種々の楽(うたまひ)を発す。仍(よ)りて禄賜ふこと各差有り。道俗悉く見る。是の日に、信濃国・吉備国・並に言(まを)さく、「霜降り、亦大風ふきて五穀登(みの)らず」とまをす」(同、421ページ)とあるのを見ても、この頃の頃吉備地方は吉備国として支配されていたとみて、差し支えあるまい。およそ以上のことが歴史的事実であったのなら、この頃まで、吉備国は当時はまだ大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見て良いのではないか。
(続く)
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