♦️289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

2018-05-12 10:04:03 | Weblog
289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

 フレデリック・ショパン(1810~1849)は、孤独と情熱の人であったようだ。例えていうと、「幻想協奏曲」とか、「革命」を聴くと、彼の息づかいさえもが、感じられてくるようなのだが。

 ポーランドのワルシャワ近郊の村で生まれた。貴族の家に生まれたのであろうか。家族の献身もあって幼い頃から音楽に親しみ、少年時代を過ごしたのだという。やがて長じては、「ピアノの詩人」といわれるとともに、「繊細にして華やかな調べ」や「完全なる美意識」を称される曲を数多く作曲していった。
 そんなショパンはまた、マズルカやホロネーズなどで知られる「愛国者」なのであった。
そんな彼は、激しい調子の曲をも作っている。その名を「革命」という。それというのも、彼が生きた時代のヨーロッパにおいては、かなり範囲で民衆の力の台頭(たいとう)があった。1789年に始まったフランス革命からの民主の流れが、ヨーロッパに伝搬していったのだ。
 ポーランドでのそれは、1830年のことであった。この年、フランスの七月革命の影響を受けて、独立運動が一気に高揚した。そして迎えた同年11月25日、ワルシャワの士官学校でロシア人教官が二人の若い生徒をむちで打とうとした。これに憤慨した学生らが弾劾に立ち上がり、反乱が全国に始まった。民衆はロシアに対する反乱軍となり、コンスタンチン大公(ポーランド総督。ロシア皇帝ニコライの兄)の宮殿を襲う。反乱軍はワルシャワで秘密警察の隊長を縛り首にする。フランスからは義勇兵がかけつけ、武器が国境をこえて彼らに供給された。プロイセンとオーストリアは、革命の飛び火を恐れ、ロシアを助けようとする。
 ポーランドの革命勢力の中にも急進派と、多分に妥協的な保守派が対立していた。1831年1月、この力の関係に転機が訪れる。急進派のジャコバン人民派(フランス革命にちなんでの命名)が政権を握って国会を開き、ロシアからの独立を決める。これに対して2月にロシア軍が宣戦し、国境を越えて進撃を開始する。ポーランドは4月30日に独立を宣言し、立ち向かうのだが。しかし、9月8日になると、ロシア軍がワルシャワを制圧し、ポーランド独立運動は力を押さえ込まれてしまう。一説には、1万数千人もの亡命者がフランスに逃れた模様。ロシア帝国のニコライ1世はポーランドを事実上の属州にし、ロシア化政策をとる。
 そこでこのショバンの曲の成り立ちだが、この年の7月までには、パリに向かう演奏旅行の途中のシュツットガルトにおいて、ポーランドを独立させまいとするロシアとの間で戦争が行われている、とのニュースを聞いたのであろうか。
 なにしろ年来の宿敵ロシアからの独立戦争ということなので、革命の勃発を知った時はさぞかしおどろいたことであろう。1830年12月、ショバンはワルシャワにいる友人のヤン・マトゥシェフスキ宛の手紙において、こう記す。
 「ヤン(三世ソヴェスキ)の軍勢が歌っていた、散り散りになったその残響がいまでもまだドナウの両の岸辺のどこかしらに漂っているかもしれない歌の数々をーそのほんの一部でもいいから探りあててみたい。(中略)この僕はー父の重荷になるということさえなければ、今すぐにでも帰りたいが帰れない。(中略)サロンでは涼しい顔を装っているが、家に戻ればピアノに向かってあたりちらしているのだ。」(関口時正氏による訳を引用している渡辺克義著「物語ポーランドの歴史ー東欧の「大国」の苦悩と再生」中公新書、2017)
 この時、いても立ってもいられられなくなり、ホーーランドに帰国しようとしたのかどうかはよく分からないものの、父親が手紙で思い留まったとも伝わる。
 この衝撃がショバンの頭脳に閃きを与え、作曲された曲の名は、「作品10第12のハ短調練習曲」としてであり、後に付されることになる革命的なタイトルはフランツ・リストが命名したもの。その調べは、最近ではテレビ番組「ラララ・クラシック」や「題名のない音楽会」などでピアニストにより弾かれ、中盤からは情熱の渦となって人びとの胸に迫ってくる。
 その一つ、ショバンの曲を紹介しよう。例えば「キラキラと輝くワルツ」という3拍子の、優美かつ軽やかなリズムを刻むようなものに、「英雄ポロネーズ」がある。ポロネーズ(polonaise)とは、フランス語で「ポーランド風」の意味にして、マズルカと並ぶポーランド起源のダンス(舞曲)のことを指し、1842年に作曲された、正式にはピアノ独奏曲「ポロネーズ第6番変イ長調」作品53という。
 これはしかし、彼の滞在していたパリをはじめ上流階級の人びとに心地よく聴いてもらうばかりの曲とは決めつけられない、曲想の根底には、ポーランドの土着の精神が宿っていたのだともいわれる。パリ時代に記した告白に、次の下りがある。
 「僕はこうして何もせずにただときどきピアノに向かってうめき苦しむだけ、悲嘆にくれるだけだ。そして、それが何になる?」(関口時正ほか訳「ショパン全書簡、ポーランド時代」岩波書店)
 ポーランドでの革命が押さえ込まれた後も、パリにいて芸術活動に携わりながらも、故郷への想いを馳せていたのであろう。今ポーランドがロシアに蹂躙されているというのに、何も出来ない自分を見つめていたのであろうか。その心情を書くことを通じ、少しなりとも楽な気分に浸れたであろうか。それからの作曲家人生だが、ショパンが亡くなる1年前の1848年、フランスでは二月革命が勃発していた。
 この時も、真偽にについては不明ながら、かつてショパンと深い関係を持ったフランスの女流作家にして、当時小規模な新聞を発行していたジョルジュ・サンドは、ショパンのこのポルネーズ曲を聴いていた。味わいを深めながら、ショパンへの手紙の中で、「霊感!武力!活力!疑いなくこれらの精神はフランス革命に宿る!これより、このポロネーズは英雄たちの象徴となる!」と書き記したのだという、そんな当時のバリの空気を彷彿とさせる逸話が伝わる。
 参考までに、音楽史に占めるショパンの位置については、例えば、こう評されている。
 「 かれの音楽はポロネーズやマズルカが使われていることによって、ポーランドの民族主義を代表している。一般的にいえば、ショパンの様式はフランスとドイツのロマン主義のに混合体である。かれはポロネーズ、バラード、マズルカ、ワルツ、ノクターン、プレリュード、練習曲、即興曲、自由なロマン主義的ソナタを書いた。かれは本質的にピアノ作曲家で、他の表現形態における試み(たとえば2曲のピアノ協奏曲)はあまり成功していないし、独特の表現も少ない。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

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