♦️301『自然と人間の歴史・世界篇』ポーランドのウィーン会議から3月革命前夜(1815~1847)

2018-05-13 08:10:11 | Weblog

301『自然と人間の歴史・世界篇』ポーランドのウィーン会議から3月革命前夜(1815~1847)

 ウィーン会議後のポーランドでの民主化運動の高揚の二つ目の山は、1830年のことであった。この年、フランスの七月革命の影響を受けて、独立運動が一気に高揚した。そして迎えた同年11月25日、ワルシャワの士官学校でロシア人教官が二人の若い生徒をむちで打とうとした。
 これに憤慨した学生らが弾劾に立ち上がり、反乱が全国に始まった。民衆はロシアに対する反乱軍となり、コンスタンチン大公(ポーランド総督。ロシア皇帝ニコライの兄)の宮殿を襲う。反乱軍はワルシャワで秘密警察の隊長を縛り首にする。フランスからは義勇兵がかけつけ、武器が国境をこえて彼らに供給された。プロイセンとオーストリアは、革命の飛び火を恐れ、ロシアを助けようとする。
 ポーランドの革命勢力の中にも急進派と、多分に妥協的な保守派が対立していた。1831年1月、この力の関係に転機が訪れる。急進派のジャコバン人民派(フランス革命にちなんでの命名)が政権を握って国会を開き、ロシアからの独立を決める。これに対して2月にロシア軍が宣戦し、国境を越えて進撃を開始する。ポーランドは4月30日に独立を宣言し、立ち向かうのだが。
 しかし、9月8日になると、ロシア軍がワルシャワを制圧し、ポーランド独立運動は力を押さえ込まれてしまう。一説には、1万数千人もの亡命者がフランスに逃れた模様。ロシア帝国のニコライ1世はポーランドを事実上の属州にし、ロシア化政策をとる。

(続く)

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