♦️405『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

2018-05-13 20:52:01 | Weblog

405『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

 想い起こせば、フィンランドとしての国家の成立は、20世紀になるのを待たなければならなかった。11世紀~12世紀になってキリスト教が伝来、東西キリスト教の角逐があった。1323年、スウェーデン・ロシア間の国境が確定する。このときフィンランドは、スウェーデン王国に組み込まれ、そのの一部となる。1809年、スウェーデンがフィンランドをロシアに割譲する。
 その分水嶺を提供したのは、まずはイギリスへの「大陸封鎖令」の履行をスウェーデンに迫るナポレオン・フランスと、これを拒むスウェーデンとの争いであった。そこで、ナポレオンはスウェーデン領であったフィンランドを攻撃するようロシア皇帝に求める。ロシアは、それではとフィンランドに軍を派遣し、スウェーデン軍と戦う。戦争はロシア側に軍配が上がり、1809年9月に講和条約が締結にいたり、スウェーデンはフィンランドをロシアに割譲する。これによりほぼ600年にわたるスウェーデン統治に幕が下ろされる。
 他方で、1814年のスウェーデンは、ナポレオン戦争の講和としてのキール条約でデンマークからノルウェーを割譲させ、手に入れる。その後のノルウェーは、スウェーデンとの「同君連合」下におかれ、その鎖を断ち切ってノルウェーが独立を勝ち取ったのは1905年のことである。
 1917年12月、ロシア革命後のロシアより、フィンランド共和国として独立を宣言する。レーニンを首班とするロシア革命政府がこれに同意を与えたことで、ここにフィンランド共和国が成立する。その後のフィンランドは、国内に残っていたロシア軍のことも相俟って、国内の赤衛隊と白衛隊との間で内乱が勃発するのだが。4か月の戦いで白衛隊に勝利が傾いていく。翌1918年の3月には、ロシア政府は、ドイツとの講和であるブレスト・リトフスク条約に従い、フィンランドに残っていた2万5千人のロシア軍を撤退させる。
 そして迎えた1919年、新たな統治章典が制定され、スウェーデン統治時代からの政体法が廃止される。大統領制が導入され、1919年5月のパリ講和条約において改めてフィンランドの独立が承認され、フィンランドは独立国家への大きな一歩を踏み出す。
 1921年になると、新たな問題が起こる。スウェーデンとの間に位置し、バルト海に浮かぶオーランド諸島において、スウェーデンとの間で帰属問題が浮上したのだ。現地オーランド諸島の住民の間では、スウェーデンへの帰属に傾く。
 そんな中、これをスウェーデンが国際連盟に提訴していた領土問題で、連盟による裁定が出る。これは、いわゆる「新渡戸稲造裁定」ともいわれ、事務局次長であった新渡戸が取りまとめたことで知られる。これにより、領土はフィンランドに与えるかわりに、言語はスウェーデン、文化、風習は当地を尊重する。オーランド諸島には自治権を与え、この地域を非武装中立とし、総督を置くというもの。
 1939年11月~40年3月、最初の対ソ戦争(冬戦争)を戦う。この年の10月、ソ連がフィンランドに領土交換を提案してくる。ソ連がロシア・カレリア地方の一部を割譲する見返りに、フィンランドからヘルシンキ近郊のハンコ岬の30年間租借とフィンランド湾東部諸島の譲渡、北極圏ペツァモとカレリア地峡国境線の一部後退を求める。この交渉は双方で多少の譲歩はあったものの、交渉は決裂し、戦争に入る。双方のあわせて十数万の戦死者を出しての膠着状態の中、講和条約が締結される。ソ連は当初の要求の大部分を手にし、フィンランドは自国の存在をソ連を認めさせる。
 続いての1940年12月には、ナチス・ドイツからソ連侵攻計画「バルバロッサ作戦」への参加を求められる。そして迎えた1941年6月、ドイツがソ連に進攻すると、ドイツと盟友関係のフィンランドは、「大フィンランド」の実現を目論んでソ連と再戦するにいたる。これを「継続戦争」と呼ぶ。この戦争は、ナチス・ドイツからの支援を受けて1944年まで続く。
 1943年2月にスターリングラードの攻防戦でドイツ軍機動部隊が大敗を喫すると、フィンランドは慌てて戦線を離脱し、ソ連との和平を模索する。それでも1944年9月にソ連との間でようやく休戦条約を締結し、なんとか戦争を終える。23か条の休戦条約の中には、ソ連に対して6億米ドルに相当する賠償金の支払いや、ドイツ軍のフィンランド領内からの追放などが含まれる。

(続く)

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