気ままに

大船での気ままな生活日誌

むざんやな甲の下のきりぎりす

2008-05-28 10:07:58 | Weblog
むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす (芭蕉)

横溝正史の金田一耕助シリーズを思い出す方が多いのではないでしょうか。ボクもそうです(汗)。この芭蕉の名句は、実は”おくのほそ道”の、北陸路、金沢の次ぎの”小松と云う所にて”で出てきます。

この甲は小松の太田神社に木曾義仲が奉納したもので、甲の持ち主は義仲との戦いに敗れた平家の武将、実盛(さねもり)です。実盛はもともとは源氏の出で、親を亡くした2才の義仲を引き取り、木曾山中で育てました。そしてこの甲も源義朝から賜ったものでした。実盛は白髪頭を染め変装し(敵にあなどられないため若くみせたということになっています)、悲しい運命の戦いに挑みますが、討ち死にします。髪を洗った首実検で、実盛であることを確認した義仲の心中はいかがばかりだったでしょうか。

むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす 

謡曲実盛に”ああ無惨やな、斉藤別当(実盛のこと)にて候ひけるぞや”という文句があり、それで、”むざんやな”がはじめにきています。きりぎりすは現在のコオロギのことです。・・ああなんと痛ましいことよ、自分が育てた義仲と白髪を染めて戦った実盛の心が偲ばれる、兜の下のコオロギもむせび泣いているようだ・・

芭蕉は義仲が好きだったようですね。お墓まで義仲寺で、義仲のお墓と隣り会わせです。義仲は田舎もので、京に入ってからお公家さん達に不作法な男と馬鹿にされましたが、芭蕉も伊賀の出身で田舎ものです、共感するところがあったのだと思います、と市民講座の先生が説明してくださいました。それで、芭蕉はこの神社を訪ねているのですね。

ボクは3年ほど前、義仲寺を訪ねています。日記帳をひっくりかえしてみました。(当時はブログをしていませんのでノートの日記帳です)。

2005年11月12日(土):大津、膳所にある義仲寺に行く。ちょうど芭蕉の312年忌(時雨忌)が行われていた。法事の一部始終をついでにみせていただいた。神主さんの一連の儀式が終わると、今度はお坊さんが出てきて、芭蕉翁と弟子たちの像が祀られている翁堂での儀式が始まった。・・・この寺には木曾義仲の墓の近くに芭蕉翁の墓もある。生前、自分の墓はここにするよう遺言したということだ。義仲が好きだったらしい。弟子又玄の”木曾どのと背中合わせの寒さかな”はどうゆう状況でつくったのだろうか。そのあと、石山寺に向かう。紫式部ゆかりの寺だが、ここにも芭蕉庵があった。・・・

もうひとつボクが聴講している”平家物語”とつながった、今日の”おくのほそ道”でした。

・・・・・
以下3年前の写真を。

義仲寺


時雨忌


翁堂


芭蕉翁のお墓


木曾どののお墓


巴御前の供養塔


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