気ままに

大船での気ままな生活日誌

小林秀雄のモーツアルト(肖像画)がやってきた

2011-11-27 09:25:39 | Weblog

僕は、その頃、モーツアルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が表れている奇妙な絵であった。モーツアルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつむきになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れてしまっているに違いない。二重まぶたの大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている・・・ト短調シンフォニーは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いない、僕はそう信じた。何という沢山の悩みが、何という単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では言い現わし難いものがある。

冒頭の文章は小林秀雄の名作”モーツアルト”の一節である。そのモーツアルト肖像画の写真もぼくのもつ本にはついている。この肖像画の本物が、丸の内の、帝劇と出光美術館の向いのビル(第一生命保険本社)に来ているというので、最終日になってしまったが、出掛けてきた。日本初公開というから小林秀雄自身もみていないはずだ。小林フアンとしては是非、みておいてあげなければならないのだ(笑)。

ランゲ作のモーツアルトの肖像画の展示を中心に”モーツアルトの顔/18世紀の天才をめぐる6つの物語”というテーマで開催されていた。小さな会場であったので、その絵はすぐみつかった。間違いなく、小林秀雄のモーツアルトだった。絵の前には一人の男が随分、長い時間をかけて占領していた。だから、ぼくは、斜めからみる形になった。写真とは幾分、違った印象を受けた。色もついていることもあるのだろう、目には幾分、輝きを感じた。しかし、前の男が立ち去り、絵の前でみているうちに、二重まぶたの大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている、になっていた。

ランゲは、本職は宮廷俳優で、モーツアルトの妻の姉の夫だそうだ。ピアノの前に座るモーツアルトを描き始めたが、何故かピアノは描かれず、途中で止めてしまう。モーツアルトも催促したようだが、未完成品となって、今日まで残った。モーツアルトの生前の肖像画は少ないが、これが一番、似ていると奥さんが言っていたそうだ。

モーツアルトの家族の肖像画や、モーツアルトの愛用した煙草入れや指輪、そして、自筆の楽譜(トルコ行進曲ときらきら星行進曲)も展示されていた。音符や休止符が五線譜を駆け抜けていた。彼の言葉を思い出した。

構想は、あたかも奔流のように、実に鮮やかに心のなかに姿をあらわします。しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とても、これに一緒に触れることはできません・・・美しい夢でもみているように、凡ての発見や構成が、想像のうちに行われるのです。いったん、こうして出来上がってしまうと、もう私は容易に忘れませぬ、という事こそ神様が私に賜った最上の才能でしょう

モーツアルト最後の絵も飾られている。ベット上の彼の膝にはレクイエムのスコアが載せられ、足元には妻が、向かいには義理の妹が、背後では友人が未完のレクイエムを練習している。また、小林の、末尾の文章を思い出した。因みに小林は脱稿直前に母を亡くしている。悲しみの中でこの文章は書かれている。

彼は、作曲の完成まで生きていられなかった。作曲は弟子のジェクスマイアーが完成した。だが、確実に彼の手になる最初の部分を聞いた人には、音楽が音楽と決別する異様な辛い音を聞き分けるであろう。そして、それが壊滅して行くモーツアルトの肉体を模倣している様をまざまざと見るであろう

天才は35歳の若さで世を去った。

もし、67歳まで生きていたらこういう顔になったでしょう。

えっ?天才の顔です。レオナルドダビンチ。

 

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