おはようございます。京都からのスマホ投稿です。京都紅葉の旅、第1日目は、好天に恵まれ、紅葉もほぼ見頃で満足でした。詳細は帰宅後のブログ記事で報告します。今朝の記事は、旅立つ前日のぶらぶら歩き日誌です。
鵠沼海岸の文人旅館だった東屋のことについては知っていたが、まだ、その辺りを歩いたことがなかった。先日、朝日新聞の湘南版に”鵠沼の文士/資料でたどる”という見出しの記事が載った。それは、”鵠沼に暮らした文人”展を紹介したもので、鵠沼に住んでいたことがある芥川龍之介の、少年時代につくった回覧雑誌や、自筆ノートが初公開されているというものだった。その記事の片隅に”文人宿”と呼ばれた旅館”東屋”の概要も本展て紹介されている、との文章があった。いい機会だから、展覧会をみて、そのあと、東屋の辺りも散歩してみようと出掛けたのだった。
藤沢から小田急江ノ島線で二つ目の駅、鵠沼海岸で降りる。歩いて、数分のところに鵠沼市民センターがある。そこの小さな展示室に所狭しといろいろな資料が並べられていた。
芥川は妻の実家が鵠沼にあり、田端で自殺する前年にここで過ごしたという。”蜃気楼”、”歯車”は、鵠沼を舞台にしたものだそうだ。この周辺には多数の文人が住んでいた時代があり、その住居マップが展示されていた。子母沢寛、川口松太郎、立原正秋、吉屋信子、邦枝完冶、安岡章太郎ら馴染みの作家の名もみえる。26名を数える。当時は別荘地として人気があったようだ。
さらに、文人宿には、多数の小説家が宿泊している。たとえば、武者小路実篤と志賀直哉もそうだったが、雑誌、”白樺”の構想をここで練ったというのはよく知られている。久米正雄、里見とん、与謝野夫妻、谷崎潤一郎、山本周五郎なども。
そして、ここを離れ、案内図を参考に、東屋跡地へ向かう。鵠沼海岸への途に、その記念碑をみつける。
横に説明文と当時の配置図が示されている。明治後期から昭和初期にかけて、約2万平米の敷地に、池と松林を配した、立派な旅館だった。関東大震災後、再建されたが、戦時色の強まる昭和14年に半世紀にわたる歴史を閉じた、とある。
周囲を見渡すと、跡地には豪邸が立ち並び、今にも、鵠沼夫人が玄関口に現れそうな雰囲気だった。そこからビーチまでの路地を歩いていると、ふと実篤や直哉と一緒に歩いているような気持ちになった。江ノ島の見える鵠沼海岸はすぐそこだった。
念願の東屋辺りを散歩でき、うれしい一日だった。その足で、えのすいに寄り、馴染みの鵠沼夫人に会ってきた。