まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

宮島での夜

2006年08月07日 | う゛う゛ー
 私が両親と一緒に広島を訪れたのは、小学校4年生の夏でした。
父は私に、学業そのものというよりも、社会の動きや世界情勢、歴史などに興味を持たせ、教えることに非常に熱心でした
 本来ならばエンターテイメントであるはずの映画も、「サウンドオブミュージック」や「2001年宇宙の旅」などは、あらかじめ父の大層な講釈付きで見に行ったことを今でもよく覚えています

 そんな父が、私に与えた体験「広島」。
父にとって私の4年生というが学年が、実際に広島に連れて行き、原爆について真剣に考えさせ、戦争や原爆について自分なりの思いを持たせる・・・そういう年齢だったようです
 今振り返ってみると、父はかなり私が幼い頃から、「戦争」について考えさせる機会を与えていたように思います。神風特攻隊の遺品や遺書などの特別展示の見学、学徒出陣の話、人間魚雷回天の話、レイテ島、パレンバン、硫黄島・・・もちろん、自分の子供の頃の戦争体験(父には軍隊の経験はありません)など、特に夏のこの時期になると、話しに熱が入りました 昭和40年初期のあの当時は、戦後20年という時期であり、まだまだ「戦後」が色濃く残っていたのだと思います

 さて。
広島の平和記念公園で原爆ドームを見学、資料館を訪れ、公園内のいろいろな碑を回った後、最後に平和の灯前で原爆死没者慰霊碑に手を合わせました。夏の暑い、熱い日でした。照りつける太陽、うるさいほど鳴く蝉の声・・・
 そのあと、私たちは広島市内を出て宮島に向かい、厳島神社に詣でたあとは海水浴を楽しみましたが、私はなかなか気持ちを切り替えて楽しむ気持ちにはなれませんでしたねえ・・・

 当時、宿泊をした老舗の旅館には冷房の設備がなく、夜、電気を消した部屋の中はじっとりと暑く、目を閉じると平和記念公園の「平和の灯」が浮かびました。かげろうの向こうに見える原爆ドーム。川の流れ、資料館で見た数々の展示品、写真・・・
 さすがにその日は「どう感じた?君はどう思う?」と父は私に尋ねませんでした。そのことを私は、とても救いに感じたものでした。海で泳いでいても、食事をしていても、いつ父が私に感想を聞くだろうか?とドキドキだったのです
 その日の私は、何をどう伝えばよいのか頭の中では何もまとまりませんでしたし、日ごろはいろいろと考えることが好きで、またそれを一生懸命に伝えたいと感じた私も、その日は「考える余裕」はなく、どんどんと頭の中に現れる昼間に見たたくさんのもので、胸がひりひりと痛く、息苦しい気さえしていました・・・

 8月6日から、終戦記念日の15日までの約1週間は、毎年、戦争回想ウィークの感があります 戦後60年を過ぎ、戦争体験者の人口は、どんどんと減少していき、いやでも戦争は遠いものになっていくでしょう。
 世界中で平和を願う人々の願いもむなしく、こんなにも人が殺し合う現代。
そんな中に生きていながら、わが子はまだまだ幼く、何もわからないに違いない、という思いや、戦争は遠い国での出来事であり、そんな悲壮で残酷な現実は子供たちにとって身近な問題ではない、という思いなどで「戦争」を遠ざけてしまうのは、私は「手落ち」のように思えてなりません

 豊かな感性を持った子供は、確かにショックを受けやすく、そのショックを上手に自分の中で整理していくことができないこともあります、そう、私の「宮島での夜」のように。
 しかしそれでも、私は10歳の子供として、「感じ、考えなければならないこと」として、無意識に必死になっていたと思うのです

 今の子供たちの多くは、どんな体験の後どうだった?」とたずねると、たいてい「楽しかった」「おもしろかった」という応えが戻ってきます。何とかもう少し深く感じ、表現できるようにはならないものか?と少々残念に思うことがありますが、経験や体験そのものが、「楽しく、おもしろい」ことだけだからこそ、それにしかならないのかもしれない・・・とも思いました。
 
 多くを感じられる経験、そして、それらを通じて「子供に考える機会を与える」という親からの働きかけこそが必要なのではないのかな?と思っています
コメント (4)
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