まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

窓ふきは好きですか?

2006年08月16日 | プンプン
あなたは窓ふきが好きですか?洗面所の大きな鏡を拭くのはどうでしょう?
年末の大掃除用のコマーシャル、必ずと言ってよいほど「年に一度は大々的に窓を拭いて」などというキャッチコピーがありますよね。あれって、それほど私達にとって、ガラスや鏡を磨くことが大儀だから、に他なりません。
 ところが。
案外、外出先では、我が子がガラスや鏡をさわることには無頓着、という人が多いのには驚かされます。
 一歩家から外に出ると、至る所にガラスがあります。きれいなお菓子が並んだウインドウ、マネキンがポーズするショーウインドウ、オシャレな大きなガラスのドア、etc. そんなピカピカに磨かれたガラスに、べたべたの子供の手のあとがべっちょり。見ただけでも、本当に悲しくなります。
 子供は、どうしても背が低く、視野も狭いために、どんなウインドウにもうーんと近付いて見るクセがあります。一生懸命になればなるほど、こんどは顔まで近付き、息がかかるほどになり、最後は口までくっつく?!
 
 私は、自分が窓ふきや鏡磨きが下手クソだったので、我が子が小さい頃から、人一倍、外出先の「ガラス」には神経を使いました。もしかしたら今でも、少し早めに出社し、自分の勤務するお店や会社のガラスを拭くOLさんはいるかもしれません。いえいえ、朝だけではなく、きっとお店などでは、一日に何度も、ウインドウのガラスを磨かれるのではないでしょうか?
 そんなことを知ってか、知らずか、あまりに、外出先のガラスに無頓着な親が多すぎるような気がしてなりません。

 ガラスのドアにも、必ず取っ手はついています。その部分を持って押したり引いたりすれば、直接にガラスに触れる必要はないでしょう。いやいや、取っ手は高すぎて、子供の背では足りない、というのであれば、そこは「子どもが開けるという想定はなされていない場所」のはずですね。そうであれば、どんなに子供が調子に乗って、走っていって開けたいと言っても、親がきちんと止めるべきです。
 子供はね、みーんなボタンとか、スイッチとか、とっても好きなんです。でもね、我が子を満足させるために、たまたまそこで一緒になった他人に迷惑をかけるのは間違いです。外出先では、できる限り、大人が行動すべきでしょう。だから、ドアを開けるという行為一つとっても、本来ドアな重く、挟まれる可能性もあるもの。子供に開閉をさせることはおかしいこと。

 さあ、どうですか?
ご自分が、ガラス磨きや窓ふきをするつもりになって、外出先での「ガラスや鏡」に、もっともっと神経を使ってみてください。
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お盆・・・

2006年08月13日 | にこにこ
  土曜日のクラスの後、私は主人と一緒に1泊2日で熱海に行ってきました 仕事で来日中の、友人のアメリカ人夫妻と一緒の久しぶりののんびりとした休日です 
 日本が「お盆休み」という特別なお休みの時期とは知るよしもなく、「思ったホテルが、なぜかちっともとれない」と残念顔のMr.P。せめて、週末くらいは、少しでも有意義になるように!という私達の気持ちが、今回の熱海行きになちました

 今日、熱海の町中を歩いている時、小さな商店の店先に、お盆用のお供え物と、迎え火、送り火ようのオガラが並べられてありました。彼らの目にも、それらは「普段のもの」とは違うものとして目に留まったらしく、これらは何か?と尋ねられました。
 そこで、主人と私は、古い子供の頃の記憶と、思い出せる限りの知識を絞り出し、「お盆」の説明をしました
  お盆は、亡くなったご先祖様が家に戻ってくる期間。
  正式には、8月13日から16日までであこと。(地方によっては、一ヶ月前にすることもあること)
  ご先祖様をお迎えするために、本来は、玄関前で麻の茎であるオガラを焚き、お送りするめにまたオガラを焚くこと。それを「迎え火、送り火」と呼ぶこと。
 
 帰宅して、インターネットで調べてみると、概ね、間違いはなかったので、ホッと安心したのですが・・・それにしても、私達はなんと何も知らないことか

 お正月や年末、お盆はどこもかしこも混雑する というような知識はあっても、それ以上の本来の意味は、お恥ずかしながら、それほど知りません。
 第一、本家でなければ家に仏壇もなく、「ご先祖様」に手を合わせることすらないのです たぶん、小さな子供達に「ご先祖様」などと言えば、ほんの一部の子供達が、「さざえさんのパパの波平さんによく似たおじさんが、裃(かみしも)姿で、時々、マンガの中に登場する」というふうに答えられれば良いほうでしょう

 時代は移り、多くのことが失われつつあります。
これは私の勝手な考えですが、歴史上でも、あまり多くを奪われた経験のない日本人は、自分の掌中にあるものを、あまり大事に感じない民族だと思います 人はみな、奪われそうになって初めて、「奪われたくない、失いたくない」とそのものを意識するようになる・・・そんな気がします きっとお隣の国、韓国の人達が、発展しつつも、それでも尚、今を生きる若者達も、一生懸命に自分達の文化や伝統を守ろうとするのは、きっと「奪われること」への大きな抵抗と喪失感を肌で実感しているからではないか? 私はいつもそう考えています。

 お盆・・・仏教的な正しい解釈や、しきたりは深くはわかりませんが
それでも、「今を生きる自分」をあらためて知る、という意味でも、両親や祖父母・・・自分のルーツを大切にするために、お盆やお正月くらいは、「ご先祖様、自分の過去」を意識する時間も必要ではないでしょうか?
 さすがに子供達だも、自分がM78星雲から来たとか、2112年生まれの猫型ロボット?だ、などと思っているわけはない・・・自分にはパパとママがいて、またそのパパやママがいて・・・
 良い機会です たまには、未来ばかりではなく、「過去」も知ることも、きっと子供達にとって、楽しいことだと思
 
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読み聞かせのすすめ

2006年08月10日 | にこにこ
 昭和33年生まれの私。
幼稚園の頃は、近所の男の子のお家にお邪魔して、「野球盤ゲーム」をすることがとても楽しみでした
 野球盤ゲームなんて、みなさんはご存知ないかもしれませんね どんなものかと言えば・・・一辺が40センチくらいの四角い盤で、野球場をぎゅっと小さくしたようなものです。
 1,2,3塁とホームベース、レフト、センター、ライトのポジションのところはくぼんでいて、ホームベース横にはバット状のものがあり、バネでそれがグルンと回るようになっているのです。指でキューッと後方に回し、その前に小さな金属のボールを置いて、パッと指を離します。すると、バネでそのバットが元に戻る力で、小さな金属ボールは、勢いよく前方にコロコロと転がっていく・・・という仕組みです。今思えば、悲しくなるほど単純なゲーム・・・
 でもね、あの当時、私達は十分にあれで野球をしている気分になり、大いに楽しめたのでした

 これが今のパソコンやテレビの野球ゲームであれば???
実況をするアナウンサーの声、球場に詰めかけた観客の歓声やヤジ、バッターボックスに立つ選手は、本物のプロ野球選手にそっくりで・・・まさに臨場感あふれる中で、あたかも自分がそのバッターボックスに立つ選手のような気分になってしまます

 私達の頃には、もちろん歓声もなければ、実況もありません あったのは、「○○ちゃん、ヘタクソ!もっとしっかりピーンとはじけへんかったら、ボールが前に転がっていけへんやんかあ」という文句や「△△くんはずるいわ 今、手でボールを押さえたでー」のような罵倒・・・ それでもね、一生懸命に遊んでいると、私達一人一人には、ちゃんと頭の中には実況が流れ、観客の歓声だって聞こえたのでした
 そう、それが、当時の子供達の「豊かな想像力」でした

 今の子供達には、まるで本物の試合のようなシミュレーションゲームが用意されています そう、すべてお膳立てされた中に、プレーヤーである自分が、ちょこんと入っていった感じ、でしょうか 自分はその中に入り、何でもかんでも、すべては自分の頭ではなく、機械がやってくれます 
 歓声を想像することも、実況を自分で考える必要もなく、ただただボタンを押すだけ・・・

 テレビの前に座り、「むかし、むかし、あるところに・・・」のナレーションを聞けば、ちゃんと「昔のある所」の画像が現れます 「おじいさんと、おばあさんが住んでいました」の声を聞けば、そこにおじいさんとおばあさんが登場します。
 でもね、本当は、ある人は「髪が真っ白で、やっぱり真っ白のあごひげを生やしたおじいさん」だと思ったかもしれないし、ある人は「ツルテンピーカ」のつるっぱげ、口ひげを生やしたおじいさんと思ったかもしれません

 さあ、いかがですか?
文明の利器の発達は、じつは皮肉なことに、子供の想像力を、どんどんと未発達にしていっている・・・そう言っても過言ではありません
 もちろん、さまざまな科学の進歩は、子供の能力開発や、知育的な発達に大きく貢献している部分もあるのは事実です。いや、本当はこちらのほうが大きいでしょうね
 しかし 想像力や洞察力など、こういう部分に関しては、オーディオビジュアルの進歩によって急速に発達レベルが低くなっているのは否めません

 昔、私の生徒さんは、「むかしむかしあるところに・・・おじいさんは、やまへしばかりに、おばあさんは、かわへ洗濯に・・・」というお話を聞き、山頂の広い野原のようなところで、芝刈り機を操作するおじいさんと、河岸に並んだ洗濯機の一つで洗濯をしているおばあさん」を想像していた、というのです
 私はその子の言ったおとぎの世界を想像し、本当におかしく、そしてうれしくなったのでした
 確かに その子の想像は間違っています けれど、その子は、そこ子の経験から培われた想像力で、一生懸命に「聞いた世界を想像し、ビジュアル化」していたのですね

 これは、今の子供達に、もっとも足りない部分だと思っています
まあ、もちろん、想像の間違いは指摘するとしても・・・それでもなお、想像する力を養うことは、尊いことです なぜならば、いずれ、想像力は、発達はしていかなくなるからなのです

 ただただ習慣的に、惰性で読み聞かせをするのではなく、子供が「聞くこと」によって、たくさんの想像力をめぐらし、豊かに成長していかれることを願っています
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宮島での夜

2006年08月07日 | う゛う゛ー
 私が両親と一緒に広島を訪れたのは、小学校4年生の夏でした。
父は私に、学業そのものというよりも、社会の動きや世界情勢、歴史などに興味を持たせ、教えることに非常に熱心でした
 本来ならばエンターテイメントであるはずの映画も、「サウンドオブミュージック」や「2001年宇宙の旅」などは、あらかじめ父の大層な講釈付きで見に行ったことを今でもよく覚えています

 そんな父が、私に与えた体験「広島」。
父にとって私の4年生というが学年が、実際に広島に連れて行き、原爆について真剣に考えさせ、戦争や原爆について自分なりの思いを持たせる・・・そういう年齢だったようです
 今振り返ってみると、父はかなり私が幼い頃から、「戦争」について考えさせる機会を与えていたように思います。神風特攻隊の遺品や遺書などの特別展示の見学、学徒出陣の話、人間魚雷回天の話、レイテ島、パレンバン、硫黄島・・・もちろん、自分の子供の頃の戦争体験(父には軍隊の経験はありません)など、特に夏のこの時期になると、話しに熱が入りました 昭和40年初期のあの当時は、戦後20年という時期であり、まだまだ「戦後」が色濃く残っていたのだと思います

 さて。
広島の平和記念公園で原爆ドームを見学、資料館を訪れ、公園内のいろいろな碑を回った後、最後に平和の灯前で原爆死没者慰霊碑に手を合わせました。夏の暑い、熱い日でした。照りつける太陽、うるさいほど鳴く蝉の声・・・
 そのあと、私たちは広島市内を出て宮島に向かい、厳島神社に詣でたあとは海水浴を楽しみましたが、私はなかなか気持ちを切り替えて楽しむ気持ちにはなれませんでしたねえ・・・

 当時、宿泊をした老舗の旅館には冷房の設備がなく、夜、電気を消した部屋の中はじっとりと暑く、目を閉じると平和記念公園の「平和の灯」が浮かびました。かげろうの向こうに見える原爆ドーム。川の流れ、資料館で見た数々の展示品、写真・・・
 さすがにその日は「どう感じた?君はどう思う?」と父は私に尋ねませんでした。そのことを私は、とても救いに感じたものでした。海で泳いでいても、食事をしていても、いつ父が私に感想を聞くだろうか?とドキドキだったのです
 その日の私は、何をどう伝えばよいのか頭の中では何もまとまりませんでしたし、日ごろはいろいろと考えることが好きで、またそれを一生懸命に伝えたいと感じた私も、その日は「考える余裕」はなく、どんどんと頭の中に現れる昼間に見たたくさんのもので、胸がひりひりと痛く、息苦しい気さえしていました・・・

 8月6日から、終戦記念日の15日までの約1週間は、毎年、戦争回想ウィークの感があります 戦後60年を過ぎ、戦争体験者の人口は、どんどんと減少していき、いやでも戦争は遠いものになっていくでしょう。
 世界中で平和を願う人々の願いもむなしく、こんなにも人が殺し合う現代。
そんな中に生きていながら、わが子はまだまだ幼く、何もわからないに違いない、という思いや、戦争は遠い国での出来事であり、そんな悲壮で残酷な現実は子供たちにとって身近な問題ではない、という思いなどで「戦争」を遠ざけてしまうのは、私は「手落ち」のように思えてなりません

 豊かな感性を持った子供は、確かにショックを受けやすく、そのショックを上手に自分の中で整理していくことができないこともあります、そう、私の「宮島での夜」のように。
 しかしそれでも、私は10歳の子供として、「感じ、考えなければならないこと」として、無意識に必死になっていたと思うのです

 今の子供たちの多くは、どんな体験の後どうだった?」とたずねると、たいてい「楽しかった」「おもしろかった」という応えが戻ってきます。何とかもう少し深く感じ、表現できるようにはならないものか?と少々残念に思うことがありますが、経験や体験そのものが、「楽しく、おもしろい」ことだけだからこそ、それにしかならないのかもしれない・・・とも思いました。
 
 多くを感じられる経験、そして、それらを通じて「子供に考える機会を与える」という親からの働きかけこそが必要なのではないのかな?と思っています
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大切な預かりもの

2006年08月03日 | にこにこ
 しばしばこのブログに登場する私の娘・・・今日も恐縮ですが、またまた彼女と、彼女のお友達の登場です

 じつは昨日、娘のお友達が我が家にやってきました ちょっとは格好をつけたい私は、2,3日前からいろいろと計画を立て、あちこちを片づけ、夕食のお献立を考え、ちょっぴり緊張 そしてウキウキでした
 何せ、14年間、ひとつの教育環境で育った娘です 来るお友達4人の中の二人は男の子 兄はいるものの、ずっと女の子ばかりの生活をしてきた娘が、初めて男の子のお友達を二人も連れてくるというのです。何だか、このことも不思議で、興味津々
 元気にやってきた4人 全員が東京で一人暮らしです おいしいおいしいと、気持ち良く食べてくれる彼ら・・・
  一人は、東京から2時間の地方都市育ち。よく城址公園を男子生徒と一緒にランニングをしました、と話す笑顔の素敵な女の子
  一人は、私と同郷。「おばちゃん、めっちゃおいしいですー」と陽気に話す愛嬌もの
  一人は、遠く離れた地方都市の名門私立男子校出身 もの知りのしっかり者
  一人は、沖縄本島から、はるか南の離島出身 「久しぶりの家庭料理に感動するばよ!」と、何度もお礼を言っては、ペロリとたいらげる・・・

 私は、彼らといろいろ話ながらも、子供達が大いに話し、大いに食べる様子を眺め、ふっと彼らの今までの歴史を思いました・・・

 今でも我が家の廊下には、子供達のお宮参りや七五三、入学式や卒業式の家族写真を掛けてあります。ダイニングから廊下に出た私は、久しぶりにそれらの写真を眺め、あらためて我が子の成長に、彼ら一人一人の18年間の年月を重ねました

 親元を離れ、今、我が家のダイニングで大いに食べているあの子達・・・親御さん達は、どんな思いで彼らを東京に送り出したのだろう・・・ きっと空っぽになった我が子の部屋をのぞき、昔のことを思い出しながら、遠く離れて生活をする子供の健康と幸せを祈る気持ちで望んでいらっしゃるのだろうなあ・・・

 私はダイニングに戻り、彼らを親御さんから4年間、預かったような気分になり、本当に彼らを愛おしく眺めました

 今日、そのうちの2人は、私の自宅から、直接帰省していきました 残りの二人も、まもなく帰省するとのこと 今、お父さん、お母さんは、どんな気持ちで、初めての帰省をまっていらっしゃるのでしょうね

 今夜は、半月がくっきり・・・明るい空です 帰省した二人は、5ヶ月ぶりの我が家で、きっと同じ月を眺めていることでしょう

 今はまだまだ幼いみなさんのお子さん達も、こうして親と一緒に日を重ねていくうちに、どんどんと大きくなっていくのです 
 18歳は、決して突然にやってくるのではなく、一瞬一瞬が、一日一日が積み重なり、親子の重くて深い歴史となってやてくるのですよね・・・
コメント (2)
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