ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその270-The Weed

2017年11月20日 | J-POP
平成元年。今からおおよそ30年前、鮮烈な印象を残したテレビ番組が開始された。
「平成名物テレビ いかすバンド天国(以下イカ天という)」がそれだ。
演奏のうまさより、際立った個性を活かしたバンドを紹介し、平成の一大アマチュアバンドブームを起こした。そしてそれは社会現象にもなった。
私も自身のバンドで参加したかったのだが、メンバーが一人脱退した後だったので、とうとう参加できずじまいだった。全く持っていまでも、まがまがしい思いがこみあげる。
本日紹介するCDは、そのイカ天にも出場し、その週のチャレンジャー(その週の最優秀バンド)を獲得した「The Weed」だ。
私の持っているCDは、当時イカ天全盛時代に買った、イカ天ブランドレーベルのものである。
彼らは後にポニーキャニオンからメジャーデビューを果たすが、私の持っているCDとは内容がことなるとおぼしい。
CDの一曲目は、イカ天でも演奏した「YO YO YO」シンプルなビートで、スピード感があり、奥行きのある彼らの代表曲である。
演奏もシャープで、好感が持てる。なかなか好印象な楽曲である。
しかしこのCDの良さはそれ以降の楽曲である。
とてもゆっくりして、ブルージーな良い曲が収められている。
その心地よさは、私の心に眠る「睡魔」を刺激するほどに素晴らしい。
ちょうど以前このブログでも取り上げた、イギリスのバンド「フリー」の代表アルバム「ファイヤー・アンド・ウオーター」を彷彿させる。
このCDが終るころには、心が癒され、リフレッシュできるといっても過言でない。
間違いなくイカ天レーベル発売のCDのなかで、トップのクオリティを持ったものだ。
前述したとおり、彼らはポニーキャニオンからCDを一枚発売している。
それは今でも購入可能だが、おそらく私の持っているCDとは内容は異なるだろう。
無論そのCDは私は聴いていないので、どちが良いかの判断はしかねる。
機会があったら、彼らのメジャーデビューCDも手に入れてみたい。そうなれば、新たなレビューを本ブログに投稿させていただきたいと思う。
もし皆様も、今回紹介した「イカ天レーベル」の「The Weed」のCDを入手する機会があったら、まよわず購入されることをお勧めする。


明日のためにその269-ドラゴンボールスーパー

2017年11月19日 | アニメ
私は昔、ある週間漫画雑誌が大好きだった。
その雑誌名は「週間少年ジャンプ」
その発売日ともなると、会社帰りには必ず喫茶店に立ち寄り、週間少年ジャンプをむさぼるように読んでいた。
なかでもお気に入りは「北斗の拳」「魁男塾」「ドラゴンボール」である。このそれぞれの漫画は、次週どんな展開が待っているのだろう、この一連のストーリーはどんな終わりを迎えるのだろうと、ワクワクしながら読んでいた。
特に「ドラゴンボール」は連載終了後、しばらくしてからテレビアニメを見た。
私なりにドラゴンボールの連結を説明すると、ドラゴンボール、ドラゴンボールZ、ドラゴンボールGTTOとなり、このドラゴンボールGTOでドラゴンボールシリーズは完結する。
しかし、最近になって「ドラゴンボールスーパー」と言うテレビアニメを放送していると知った。
早速このテレビアニメを見てみた。
時代的にはドラゴンボールZとドラゴンボールGTOの間の物語となっている。なのでドラゴンボールGTOに登場した人物は登場していない。
若干主人公「孫悟空」の強さの程度が、ドラゴンボールGTOを超えてしまっているのではいかと思われるところがある。
しかしストーリー展開は面白い。毎週見るのがたのしみである。
現在のストーリーは、全12宇宙6名の代表戦士達が、バトルロイヤル式の戦いを繰り広げ、代表戦氏が全員負けると、全宇宙で一番偉い神「全王」に宇宙ごと存在を消されてしまう。
勿論地球の存在する宇宙は、孫悟空達の戦いにより、未だ無事である。
様々な宇宙から、見たことの無いような戦士達が現れて戦う。私はワクワクしながら毎週見ている。
もう既に、漫画やアニメなどにときめく年齢ではない。しかしときめいてしまうのである。
「ドラゴンボールスーパー」昔のドラゴンボールシリーズを知っているかたは、とても楽しめる作品ではないかと思う。是非見ることをお勧めする。
しかし子供心とはやっかいなものである、多分一生抜け出せないであろう。


明日のためにその268-ヘッドライト

2017年11月18日 | ヨーロッパ映画
薄幸の女性....よく映画では扱われる設定である。
男の勝手に翻弄され、やがて堕ちてゆく女性。見るたびに哀愁を感じてしまう。
本日紹介する映画は「ヘッドライト」幸薄い男女二人の悲恋映画である。
ストーリーを紹介しておこう。

ジャンはトラック運転手を生業としている。ある日ジャンは行きつけの酒場兼宿のウエイトレス、クロチルドを仕事のついでにトラックに乗せ、彼女の希望した行き先まで送り届けた。
それ以来、ジャンとクロチルドはお互い愛し合うようになった。
しかし、ジャンには女房と娘を筆頭に3人の子供がいた。二人の恋愛は許されるものではなかった。
ある日ジャンは、会社で騒ぎを起こし、会社を解雇される。
クロチルドはその頃、ジャンの子供をみごもっていた。
ジャンはあることから、クロチルドとの関係、妊娠を家族に知られる。
彼は「自分がでてゆくべきだ」と言い残し、家庭をあとにする。
ジャンはクロチルドと同棲を始める決心をし、クロチルドに会いに行くのだが......

なんとも全体的に暗い映画である。でも、それが独特で良い。
映画後半、瀕死のクロチルドが、乗せられたジャンのトラックの運転席を見回すシーンがある。車の揺れる鍵から、えたいの分からないような先住民の顔のようなアクセサリー。何度も何度も彼女はそれを規則的に身まわす。
ここに彼女の言いようの無い「不安感」「鬱屈さ」がとても上手く表現されている。
そしてラスト。クロチルドは不幸にも死んでしまう。
一方ジャンは捨て去った家庭に戻り、何事もなかったように毎日トラックの運転手として働いている。
クロチルドに死を運び、家庭には裏切りを運んだジャンは、これからクロチルドの思いを背負いながら生きて行くのだろうか。
前述のとおり、暗い映画ではあるが、観賞する価値は十分にある1本である。
是非観ることをお勧めする。

1956年、フランス製作、1956年日本公開、モノクロ、101分、監督:アンリ・ヴェルヌイユ

明日のためにその267-今週の一曲

2017年11月17日 | 今週の一曲
皆様週末のひととき、いかがお過ごしでしょうか。
復活いたしました「今週の一曲」復活に相応しい曲をご紹介いたします。
今回紹介する曲は、タイ(またかと思われるかもしれませんが)の楽器、ケーンの達人「Samai Onwong(サマイ・オーンウォン)の歌う、タイの伝統歌謡「モーラム」です。
モーラムとはタイ語で、歌の達人を意味するとのこと。
その独特の雰囲気を、是非ご堪能あれ。


明日のためにその266-フォノイコライザーアンプ

2017年11月16日 | オーディオ
CDが登場し、早くも35年という年月が経過した。
最初にCDを聞いたとき、その音のシャープさに驚いたものだった。
しかし、初期のCD音源は、人間の聴取可能周波数以上はカットされていた、20kHz以上の音がカットされていたのだ。
事実、最初はそのシャープな音に魅入られて、聴きこんでいると、徐々に精神的に疲労が溜まる。
これは人間の耳は可聴範囲以外の音にも反応していて、数字的合理性から音源に手を加えると、精神的ストレスを感じるといった研究結果が提示されたことがある。
以降各レーベルは、20kHz以上の音をカットすることを止めた。1990年に入ってからのことだと記憶している。
そして近年、この「音に対する考え」が変化してきてる。アナログ音源の復活である。
CDはその音を拾う「ピックアップ」が、非接触なので、アナログ盤のような接触タイプと違い、ノイズは出ない。これは当時は画期的なことだった。
しかし、もともと「音」とは、空気の振動が人の耳に届き、それを人は「音」と認識する。CDは、デジタルで音を媒体に収めるため、その空気の振動の基を「数値」に置き換えることにより記録する。
必然的に、収められた音は「機械的」な骨子を持った音になる。
これに対しアナログは、空気の振動をほぼそのまま収めることになるので、人間が生の音を聴くに近い状態で媒体に収められる。
この良さが見直されてきて(ただこれだけの理由でなく、クラブでのDJの存在も要因の一つであるが)CDの発売と同時に、LPも発売するアーティストも出できた。
前置きが大変長くなったが、本題はここから、そう、アナログ盤(LP)の再生方法についてだ。
アナログ盤を所有している皆様は、どのようにそれをお聴きになっているだろうか。
昔からアナログ盤再生環境のある方は、アンプのフォノ端子にプレイヤーを接続してお聴きなのだろう。
また最近では、直接アンプのライン入力に接続できるプレイヤーやパソコンのUSB端子に接続できるプレイヤーも登場している。
アナログ盤はRIAAと言う特殊なイコライザーを通した記録方法になっており、直接CDを接続できるような「ライン入力」端子等には接続できない。この接続の橋渡しとなるのが「フォノイコライザーアンプ」である。
しかし、このイコライザーアンプが曲者である。
アンプ側についているもの、プレイヤー側についているもの、様々な形態の物があるが、どれも「ただ再生できれば良い」的な物が多い。これでは折角のアナログ盤も本領を発揮できない。
私は長く、アナログ盤の音圧の弱さに嘆いていた。本来もっとグルーヴ感が出るはずのアナログ盤の音が音なしすぎるのだ。
そこで行きつけのオーディオショップに相談してみた。
店員の回答は、前述した機器付属の「フォノイコライザーアンプ」の弱さだった。
そして私は店の試聴室で、いくつかのフォノイコライザーアンプを通じた音を聴いてみた。
結果は驚くべきもので、私が求めていた「アナログの音」がそこにはあった。
私はその幾つかの中(機器によってかなり音の違いが出るので)から、自分が求めていた音を出してくれたものを購入した。
このブログを拝読されている方の中に、アナログ盤をお聴きで、その音に満足されいない方がいらっしゃったら、是非「フォノイコライザーアンプ」の購入をお勧めする。
アナログ盤のポテンシャルを最大限に引き出すには、この製品、必須である。

明日のためにその265-文学考

2017年11月15日 | 
現在の日本において、文学に贈られる代表的な賞として「芥川賞」「直木賞」の二つが挙げられる。
一般的に言われるのは「芥川賞」が純文学を対象に「直木賞」が大衆文学を対象に、それぞれの賞が授与されている。
では、この「純文学」と「大衆文学」とはなにが違うのだろうか。どこにその違いを見いだせるのか。
話は逸れるが、例えば「映画」を例に取ると、その根本とは、素晴らしいカットの連続である。決して台詞まわしなどではない。
同様に「音楽」の場合は、その根本とは、音そのものである。決してメロディーの流れだけではない。
上記から「文学」を導けば、その根本とは「文字の連立から形成される文章」である。決してストーリー性ではない。
文学でも、映画でも、音楽でも全てストーリーを持っている。しかし、そこに騙されてはいけない。
ストーリー性とは、ストーリーテラーが表す、現在・過去の状況から、読者に未来を予想させ、その答え合わせをするものであり、芸術性を問う対象とはならない。
では、ストーリーを取り払うと文学は成り立つのだろうか。
全くの「文字の連立から形成される文章」だけでは無理であろう。大まかな流れだけは必要である。
ストーリーは、より大きな川幅さえあれば良い。あとはどれだけ「文章」がうねり、独立するかだ。
以前このブログで紹介した笙野頼子の「タイムスリップコンビナート」やこれも以前ブログで紹介した山下澄人の「しんせかい」等は「文章が独立し、芸術性を持った作品」と言えるだろう。
今回は唐突な内容となってしまったが、自分なりの芸術論を投稿させていただいた。
勿論これは私自身の理論であり、本ブログを拝読いただいている皆様も、ご自身の理論をお持ちであろう。
ただ一つだけ言わせていただけるなら、作品は選ぶこと。どんな作品でもいいから、かたっぱしに体験されるのはやめた方が良いだろう。時間の無駄であり、折角の感性を鈍らせることにもなろうから......