ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその153-キューピーバックグラウンドミュージック

2015年08月07日 | 音楽
日曜日の朝は。

今から25年以上前のことである。
私の日曜日の朝の過ごし方は決まっていた。
朝9時頃目覚め、遅めの朝食を取り、しばらくは眠気に襲われうつつとなる。
そして朝10時を迎えると目はしっかり覚め、おもむろにラジオのスイッチを入れ、選局をする。
すると軽快なアフルレッドハウゼ楽団の演奏する「ミリタリー・タンゴ」にのせ、今井とも子さんの爽やかな声がそれに乗ってくる。
「キューピーバックグラウンドミュージック」の放送開始だ。
この番組はとてもしっかりできていて、日曜日の朝にふさわしい今で言う「イージーリスニング(歌がある場合もあるが)」の曲が次々流れる。
そしてスポンサーである「キューピー食品」のCMが凝った演出で途中に挿入される。
あくまで番組の雰囲気をこわさないのだ。
この番組が始まったのは1964年、東京オリンピックの頃だ。
私がこの番組を聴き始めたのは1970年代後半だと思う、以前から気になっていた番組だったが、一度聴いたらその雰囲気の良さに感激し、毎週聴くようになった。
番組は1時間番組で放送局はTBS系列、毎回10曲程度の曲がセンスの良い選曲で放送されていた。
しかし残念なことに、1990年9月、突如番組は終了する。
ラジオから、また一つ良質な番組が無くなると私はとても嘆いた。
その後この番組の意志を継ぎ、スポンサーや語り手が様々に変わり、2009年3月に番組は完全終了する。
しかし、私にとってのこの番組は「ミリタリータンゴ」と「今井とも子」が「キューピーバックグラウンドミュージック」の象徴であり、私にとっては1990年の番組終了が全てであった。
以前もこのブログで書いたが、今のラジオ番組は低俗化している。
また「キューピーバックグラウンドミュージック」が再開されることは無いとは思うが、あのような良質の番組を制作することをラジオ関係者に向かって切にお願いしたい。
なお、現在は文化放送にて、決まった祝日に「キューピーメロディホリディ」として放送している。
関東圏の方は是非一度お聴きになることをお勧めする。
ユーチューブで「キューピーバックグラウンドミュージック」を検索していたら、アップロード者が番組の要所だけ編集したものを見つけた。
下にリンクを貼ったので、是非聴いていただき、その雰囲気を味わっていただきたい。
あの爽やかで優しいオーブニングが今も耳に残る。

キユーピー バックグラウンドミュージック

明日のためにその152-サマータイムキラー

2015年08月05日 | ヨーロッパ映画
イタリアン・ノアールの佳作。

以前このブログに書いたように、1970年代の映画界は「アメリカン・ニューシネマ」がメインストリームになっていたが、その他「パニック映画」や「フレンチ・フィルムノアール」も多く製作されていた。
「パニック映画」その名称のとおり、多くの人達が様々な事故によってパニックに陥る状況を描いたものである。
「フレンチ・フィルムノアール」はフランス製作のギャングの世界や、ギャングと警察の世界を描いたものである。
今回紹介する映画は「サマータイムキラー」
イタリア製作のノアールものである。
ストーリーを紹介しておこう。

十数年前、父親をマフィアに殺されたレイ。
彼は復習を誓い、自ら孤独な殺し屋となってゆく。
そして彼の復讐劇ははじまる。
次々と父親を殺したマフィア達を殺し、やがて組織の大物アルフディに近づく。
しかしアルフディの身辺警護は固く、なかなか復讐を果たすことができない。
しかたなくレイは、彼の娘タニアを誘拐、監禁してしまう。
娘を人質に、復讐を果たそうとするレイだったが........

物語後半で、レイとタニアはいつしか愛し合う仲になってしまう。
タニアは、自分の父親を殺さないように、レイを必死に説得する。
さて、その願いは叶えられるのか。
ラスト、物語はレイとタニアにとってはハッピーエンドを迎える。
しかし物語に登場するある人物にとっては、悲しい結末となる。
私はそのラストシーンが、未だ鮮明に脳裏に焼きついている

主人公レイを演じたのがアメリカ映画界の大御所「ロバート・ミッチャム」の息子「クリストファー・ミッチャム」
タニアを演じたのが「オリビア・ハッセー」
眩しい二人の若さにも注目だ。

この映画もテーマ曲が秀逸である。
下にリンクを貼っておいたので、是非お聴きになる事をお勧めする。

映画「サマータイム・キラー」主題歌「Run and Run」


明日のためにその151-マンボ

2015年08月03日 | ワールドミュージック
黄金のニューリズム。

「ニューリズム」太平洋戦争後、さまざまなジャンルでこの言葉が使われ、新しい音楽が誕生した。
太平洋戦争後、まず日本人が驚いたのはアメリカから輸入された「ジャズ」だろう。
この新しい音楽は、日本中を席巻し一大ジャズブームを齎した。
その後1950年代に入って、ロカビリーブーム「エルヴィス・プレスリー」の登場である。
まさに戦争直後、日本の音楽界は良い意味での「カオス」状態であった。
その後はロカビリーの登場、カバーポップスの流行(今のJ-POPのルーツはここにある)等々現在に至るまで日本の音楽界は変化していった。
その中で様々な「ニューリズム」と呼ばれる音楽も誕生した。
1950年代、その代表であり、最も成功した「ニューリズム」が誕生した。
「マンボ」である。
マンボとは、キューバ生まれのピアニスト「ペレス・プラード」により考案された。
彼は1940年代後半にメキシコに渡り「ペレス・プラード楽団」を結成、積極的にオリジナル曲を発表し、全世界で一大ブームを起こした。
彼は小柄だったが、全身を使い、楽団を指揮する姿は圧巻だったという。
日本にもそのブームは波及し、裾のすぼんだ、だっぷりしたズボンを「マンボズボン」と呼び、ダンス会場では多くの若者が「マンボズボン」をはき、ダンスに興じた。
前述の訂正になってしまうが、もともと「マンボ」とはキューバーに昔からあった「ソン」と言う音楽の一部をアレンジしたもので、一応プラードが発明者のように言われているが、その件については諸説ある。
私は少年期に後追いではあるが、この「マンボ」を聴いた。
今まで聴いたことない音楽は私に衝撃を与え、それ以後「マンボ」とは自分の好きな音楽ジャンルとして常に心にとめている。
残念ながら彼は1989年に逝去、私は彼のコンサートでの雄姿を見られなかった。

百聞は一見にしかず、下に彼の代表曲「エル・マンボ(マンボ・ジャンボとも呼ばれている)」をリンクした。
切れのある演奏にスリリングな曲の展開、是非お聴きになることをお勧めする。

Perez Prado - Que Rico El Mambo