マックンのメモ日記

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ベートーベンの書簡発見。貧困と病気の苦悩つづる!

2012-01-12 18:37:31 | 芸術(音楽など)・文化・歴史
ドイツ北部のリューベック音楽大学ブラームス研究所は11日、ドイツ生まれの作曲家ベートーベン(1770~1827年)の手書きの書簡が発見されたことを明らかにした。貧困や病気で窮状にあった楽聖の苦悩がつづられており、10万ユーロ(約980万円)の価値がある貴重な史料と言います。1823年7月に滞在先のウィーンからパリ在住の作曲家に宛てた書簡で、この作曲家のひ孫の遺品に含まれていたそうです。黄ばんで一部破損しているものの、保存状態は良好だったと言います。
 
ベートーベンは書簡で、同年完成した大作「ミサ・ソレムニス」の購入者を探すのを手伝うよう要請。また、自身の目の病気やおいの学費など心配事が重なっていると訴え、「給料が少なく、病気を患っているため、良い運命をつかむには大いに骨を折らなければならない」と嘆いた。一方で、「私宛ての手紙は『ウィーンのl・v・ベートーベン』とだけ書けば届く」と記し、自分の名声に自信を示していたそうです。(ベルリン時事より)

ベートーベンは1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで誕生。クラシック音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされていて、その作品は古典派音楽の集大成かつ、ロマン派音楽の先駆けとされています。ベートーベンの祖父ルートヴィヒは宮廷歌手として成功しており、音楽家の家系にベートーベンは生まれました。父親のヨハンも宮廷歌手でしたが、酒に溺れていたため、祖父のルートヴィヒが生計を支えていました。

しかし1773年、一家を支えていた祖父ルートヴィヒが他界し、生活が苦しくなったのですが、父親のヨハンは堕落した生活をしていたため、歌手としての生命が終わっていました。しかし当時、天才音楽家として有名だったモーツァルトを見て、息子をモーツアルトのようにしようと音楽教育をはじめたのです。

しかしその音楽教育はとても苛烈なものだったようで、父親の教育が成功したとは言いがたいものだったそうです。しかしそれでもベートーベンは早熟の天才として才能を開花させていき、10代の頃には、ベートーベンは一家の生計を支えるほどになって行ったのです。そして憧れのモーツアルトに初めてあったのが16歳のときで、モーツアルトは30歳だったそうです。そこで弟子入りを申し込んだそうですが、母親の訃報で故郷に帰ることとなり、さらにモーツアルトもこの4年後に亡くなってしまったのです。

そのためベートーベンは幼い兄弟達を養うため、一生懸命働き生計を支えて行ったのです。その甲斐あってか、ついにハイドンに才能を認められ弟子入りを果たしています。そして1794年、ベートーベンは初めて「ピアノ三重奏曲」を作曲したのです。ところが28歳になった頃から、耳が聴こえづらいことに気付き、30歳の頃にはほとんど聴こえなくなってしまい、自殺まで考えたそうです。しかしベートーベンは音楽から作曲家に転向する事を決意、1804年、交響曲第3番を発表したのです。その後、次々と曲を発表して行き、その後の10年間で生涯に作曲した曲のほぼ半分が作られたほどでした。この時期はベートベンにとっての黄金期でもあったのです。

40代になると、ベートーベンは体調の悪化や、甥のカールの養育権争いなどにより、作曲が滞ってしまったのですが、それでも「交響曲第九番」「荘厳ミサ曲」などが、この時期に作られました。そして1826年12月、ベートーベンは肺炎を患い、56歳でこの世を去ったのです。

今回の手紙はこの最後のほうの時期に当てた手紙だったのでしょう。こんな大作曲家でも最後は貧困に喘いでいたなんて信じられませんね。

金塊40kgを埋めたと言う、韓国のお宝騒動!

2012-01-12 13:57:55 | その他
6日付の韓国紙・中央日報などによると、北朝鮮を四年前に脱出した韓国在住の四十代男性が最近、「北朝鮮で韓国出身の養父から、『金塊を韓国大邱市の寺に埋めた』と聞いた。ぜひ掘り起こしたい」と主張し、話題となっているそうです。

地元メディアによると、男性の養父は八十代で、朝鮮戦争当時、養父の両親は、1950年に始まった朝鮮戦争でソウルから大邱に避難。裕福だった両親はこの際、家などを処分して購入した金塊40キロ(時価約1億6000万円)を桐華寺の裏庭に埋めたというものです。 現在の市価で二十四億ウォン(約一億六千万円)相当であり、かなりの大金であることは間違いなく、その取り扱いが注目されています。

養父一家はその後、北朝鮮に渡り、両親は男性の養父に金塊を埋めた場所を説明、男性が脱北する前に「韓国に行ったら必ず探せ」と言われていたもので、北朝鮮で健在の養父は、男性に金塊の発掘を委任したという。 男性は2008年12月に韓国に亡命。生活基盤が整った昨年初めから桐華寺に通い、発掘を認めるよう要請を続けていたそうです。 そして昨年末に、専門家が金属探知機で裏庭を調べたところ、深さ1.2メートルのところに「一般の鉄とは違う金属反応が出た」そうです。

男性は金塊の発掘を目指していますが、寺は国の文化財のため、文化財庁の許可が必要。一方、寺側は夜間の盗掘や侵入に不安を募らせる。仮に金塊が出たとしても所有者をどう確定させるのか、寺側は当惑気味と話しているそうです。男性側は発掘が認められない場合、訴訟も辞さない構えだ。またこうも言っているそうで「埋められた深さまで知っている。見つかれば、苦労して暮らす脱北者の支援に使いたい」とも話しているのです。

日本にもお宝(埋蔵金)伝説がたくさんありますが、こう言う話でお宝が出たと言う話はあまり聞いた事がありません。しかしこの話はそんな古い話ではないのでひょっとしたらお宝が言うようにあるかもしれませんね。年の初めと言うことでちょっと楽しげな話でした。