とら箱

後期高齢者で元気な父と暮らしてます。 自分も還暦を迎えました

沖縄の50年

2022-05-15 18:00:00 | 日記

「本土復帰の願い」をこめて「なは」の名前がついた関西-鹿児島間の列車です。 この当時は鹿児島まで走ってましたが九州新幹線の開通で最後は熊本まででした。 鳥栖まで乗りました。 後続の「あかつき」を見るためで最終目的地は柳川の実家でした。 残念ながら関門間は寝てしまい機関車の付け替えは見れずでした。

 高校三年生の時「太陽の子」(てだのふあ)を見ました。 映画を見て「沖縄の人の差別」を見ました。 そして苦しい生活、高校進学率の低さなど「自分が知らなかった沖縄」を知りました。 子供のころから見てた神戸、特に元町付近のロケはそのころはまだ関西に住んでいたこともあり現実味をおびたものでした。

「かわいそう」の一言では済まされませんが沖縄の青年たちが成人式の時に騒ぐのは「子供の最後の叫び」とみるようになりました。 沖縄返還前に米軍のトラックが子供を引いた話など学校の掲示板のニュースで見ました。 71年に伯父に連れられて九州に行ったときに747が「この飛行機が世界を近くする。」言葉と共に「まもなく沖縄が帰ってくる。」の言葉を思い出しました。  しかしペリー来航の目的が「日本の拠点化」でした。 基地問題は昨今の問題を米国大使の言葉が表してます。

「なは」に込められた願いがまだ実現していません。 「なは」が廃止されて14年たちましたが新たな道を探さなければなりません。
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